二章第六話 熱と痛みの行方
「見つけたぞ」
抑えられた、しかし熱を持った言葉の語尾は夕暮れの空気に置き去りに、赫鉄一弥は屋上の縁から身を投げた。 落下していく僅かな間に全身を赤色の炎で覆い、着地と同時に爆発が起きる。
アスファルトが砕けて粉塵が舞い、熱風が路地を駆けた。
蒼司は反射的に手を顔の前に翳し、爆風を防ぐ。細めた青い瞳に、立ち上る赤い炎が映っていた。
「「赤色の、炎……」」
蒼司と黒い人影の声が、ほぼ同時に重なる。煙の中から一弥が立ち上った。筋骨隆々の体躯に赤の炎を纏い、蒼司の青炎を一瞥するも、視線はすぐに前方の黒い人影へ向けられる。
「行くぞ」
一弥は足裏に小さな爆発を連続で生んで急加速し、突進。対する黒い人影は多数の黒棘を撃ち放つも、一弥の体を覆う炎の小爆発が黒棘を弾き、焼き消していく。
勢いのまま突き出す拳。黒い人影は飛び上がって炎の一撃を回避し、その勢いのまま四肢で壁面を這っていき急上昇。一弥もまた、炎を噴いてそれを追っていく。
「どうする……追う、べき、か?」
一瞬の逡巡が、蒼司の胸を過ぎる。明らかに自分よりも格上であると肌で感じる男。それでも、あの黒い人影の異質さを放置するわけにはいかない。蒼司は唇を噛み、屋上へ消えた二つの影を追うことを決めた。
沈みゆく夕陽を背に、雑居ビルの屋上は既に戦いの痕が刻まれていた。黒い人影が棘と槍の弾幕を張り、一弥がそれを赤から真紅へと色を変えた炎と爆発で押し返す。
翠との戦いでは受けに回っていた一弥だが、本来の戦闘スタイルは纏う炎により敵の攻撃を無効化した上での肉弾戦であり、並大抵の攻撃は一弥に届かない。
火力が上がるに比例し勢いを増す爆発的な炎、爆炎を纏う一弥の一挙手一投足が黒い人影を追い詰めていく。戦況は黒い人影の劣勢だった。
階段から屋上へ上がってきた蒼司は、攻め立てる一弥に自分の援護は寧ろ邪魔かと一瞬立ち止まる。
その気配に黒い人影が気づいた。見えない筈の口元が半弧を描く。ターゲットの変更。黒槍が蒼司目掛けて放たれた。迫る槍を蒼司は身を捻って回避する。その瞬間、一弥が振り返った隙を突くように、黒い人影はビルの縁から飛び降り、夕闇の中へ消えていった。
「……逃げたか」
一弥が低く呟く。蒼司は自分の介入が決定打を逃させたことを悟り、小さく頭を下げた。
「……邪魔、した」「青の炎使いか……気にするな」
一弥は短くそれだけ言うと、歩み去ろうとする。その背を蒼司が引き止めた。
「
さっきのは、あれは何か知ってるんだろう? 都市伝説、影を喰らう者……多分、あれがソレだ。オッサンはアレを追ってこの街に来た。只の影じゃないのはわかる。俺も襲われた。只の噂話じゃなくなってきてる。……どうにかしたい」「どうにかしたい?」
——自ら口にした言葉を、蒼司は胸の内で反芻する。一弥はそんな蒼司を、心を見透かすように赤く燃える瞳で見た。
「俺はあの、影淵の者を追ってこの街に来た。この街でアレを撃滅する。明確な理由はある。青の炎使いよ、アレと戦う理由はあるのか? 生半可な気持ちで相対すれば……死ぬぞ」
影淵の者を三年近く追い続けてきた男の声は、重く、揺るがない。路地裏から続いた攻防で、一弥の力量が自分より遥か高みにあることを蒼司は既にに理解していた。返す言葉が出ない。
一弥は最後に、少しだけ肩の力を抜いて言った。
「それと、俺はまだ28歳だ。オッサンではない」
立ち尽くす蒼司を置いて、一弥は夕闇の階段へ消えていく。蒼司は屋上の縁に残り、沈みゆく夕陽を見つめたまま、小さく呟いた。
「……戦う、理由……」
胸に灯る熱が、トウマに着けられたら火が、行き場を無くしていた。
いつものように、トウマはケイを自宅マンションの前まで送る。エンジンを止め、ヘルメットを外す。赤茶の髪が夜の気配を帯びた風に少し揺れた。後ろから降りたケイはカーディガンの袖を小さく握っている。
「またメールする」
短い言葉。いつもと同じ別れ方。変化がない。その「変化のなさ」に、ケイは小さく違和感を覚えた。違和感の正体が、物足りなさである事に、自分で気づいてしまう。
恥じる様に俯く。胸の奥で感情が溢れそうになる。代わりに、絞り出すように声を出した。
「カーディガン、ありがとう。嬉しい」
トウマは少しだけ意外そうにケイを見、何も言わずに俯く頭を軽く撫でた。
伝わる掌の温度が、僅かな間だけ額に残る。ケイが顔を上げる。いつの間にか、「メールしろ」という命令めいた言葉が、「メールする」というトウマ自身の行動に変わっている事に、ようやく気づいた。
だが、トウマは既にバイクに跨がり、エンジンをかけていた。低い排気音が夜の空気を震わせ、後部ランプの赤い光が遠ざかっていく。
ケイはエントランスの前に立ち尽くしたまま、その光を見送った。掌に残る、頭を撫でられた感触だけが、熱い。
夜道を、トウマはゆっくりとバイクを走らせていた。
目指す先、辿り着いたのはかつて蒼司と戦った変電所だった。復旧は進み、警備員の姿はないが侵入者への監視は以前より厳しくなっている。
トウマはバイクを停め、ヘルメットを外して、コンクリートの壁面に近づく。
蒼司と同じように、影の痕跡を探していた。思い出すのは、あの変電所での戦いの終盤だ。膨大な数の影が、明確な意識を持って蒼司を狙っていた事。
「廃校の牛もそうだ、あのレベルの強い影は早々出て来ねぇ……」
変電所を囲うコンクリートの壁面を、トウマは指でなぞる。表面の微妙な凹凸、熱を持たない黒い染み。電球が切れた街灯の下で、何かが蠢く気配を感じた。
視線の先には見る見るうちに増殖する影の群れ。トウマはそれを睨み付け、ポケットからZippoを取り出した。
カチ、という音と共に橙の炎が灯る。襲い掛かる影は、一瞬にして焼き払われた。紫煙が夜風に溶ける。
そのとき、トウマは自分の頰を伝うものを手で拭った。血だった。今の一瞬で、影はトウマに傷を付けていたのだ。
しかし、痛みはない。Zippoの蓋を閉じる。カチ、という音が、夜の変電所に小さく落ちる。
「痛み、感じなくなっちまってるな……火力が上がった代償、ってか」
夜なのに、ジジジ、と蝉の声が聞こえる。トウマは空を見上げず、ただ自分の頰に残る血の感触を、無言で確かめていた。




