二章第二話 影の匂い
カチ、という乾いた金属音が、夏の夕方の路地に落ちた。音と共に橙の炎が燃え上がる。
その火力は明らかに以前より高い。廃モールでの戦い以降、トウマの炎はより一層強くなっていた。右腕を大きく横に薙ぐと、燈色を帯びた炎の弧が熱風を伴って路地を疾った。
炎は壁の染みや室外機の影から滲み出ていた黒紅色の群れを一気に爆散させる。紫煙が立ち上り、焦げ臭い匂いが鼻を突く。火花と感情の残滓がケイの頰と制服の袖を掠めた。熱い。しかし、ケイは目を細めただけで、動かない。許容範囲内だった。
「やり過ぎたか……?」
トウマはZippoを閉じて大股でケイに近づいた。彼女の顔を覗き込み、頰や腕に火傷がないかを確かめるように視線を走らせる。赤みはない。水疱もできていない。
ケイは小さく首を横に振り、大丈夫だと無言で示した。トウマは胸の内で安堵の息を吐き、肩の力を抜いた。
「行くぞ。腹減っただろ」
バイクのキーを捻って抜き、二人は路地裏を後にした。夏の夕陽がビルの谷間に沈みかけ、街は橙色に染まっている。風は熱いが、トウマの背中から伝わる体温は、それとは違う熱さだった。発作的に溢れそうになる感情をケイは抑える。
辿り着いたハンバーガーショップは、下校した学生たちで賑わっていた。トウマはいつものようにカウンターで注文する。バーガーセットを二つ。ケイの分は氷抜きのメロンソーダ。
席に着くと、トウマは遠慮なく包みを開け、大きな口で噛り付いた。ケイはメロンソーダのストローを咥え、隣の席に目をやる。手を繋いで小さな声で笑い合うカップルがいた。肩が触れ合い、視線が絡み合っている。以前の自分なら、ただの景色として処理していた光景。今は違う。胸の奥が熱く締め付けられ、自分とトウマの距離を意識してしまう。
トウマが不意に手を伸ばしてきた。親指で、ケイの口元に付いたソースを無造作に拭う。それだけの仕草。それだけなのに、ケイの呼吸が浅くなり、焦げ茶の瞳が大きく見開かれる。
トウマの橙の瞳が、近くで自分を映していた。見つめ合う時間が、いつもより長く感じられた。
「あ……」
ケイが何かを言いかけた。言葉にならない感情が、喉の奥までせり上がってくる。
その時だった。トウマの視線が真横へ泳いだ。赤い短髪の大男が、テーブルのすぐ傍に立っていた。186センチはある筋骨隆々とした体躯。真紅の短髪。赤い瞳が、二人を値踏みするように、探るような光を宿して見下ろしている。
「……なんだ、オッサン」
トウマが椅子を蹴るようにして立ち上がる。警戒が、露骨に肌を熱くしていた。男は眉をひそめ、低く訂正する。
「オッサンじゃない。まだ28歳だ」「三十路だろ」「お前達、影の匂いがするな」「……知るかよ」
赤と橙の瞳が、不穏な光を宿してぶつかり合う。しかし、先に視線を外したのはトウマだった。彼は舌打ちを一つし、席に座り直すして吐き捨てる。
「飯食ってんだ。邪魔すんな。喧嘩するつもりはねぇよ」
対する男は小さく鼻を鳴らし、短く「悪かったな」とだけ言って背を向ける。
大きな体躯が人波を割って去っていく。店内に小さなざわめきが残り、ケイは不安そうにトウマを見た。トウマは肩をすくめて見せ、ハンバーガーの残りを口に放り込んだ。
「気にすんな。ただの通りすがりだろ」
そう言いつつも、トウマの橙の瞳は、男が消えた方向を一瞬だけ追っていた。影の匂い。確かに、ただ者ではなかった。
影を薙ぎ払った後も、黒崎響子は蒼司の後を着いて歩いていた。蒼司はあしらうでもなく、明確に拒否するでもなく、近所の小さな公園まで歩を進め、ベンチに腰を下ろした。響子もその隣に座る。
沈みつつある夕陽が二人の横顔を長く、赤く照らしていた。蝉の声が遠くで途切れ途切れに聞こえる。
「何か、用?」「……さっきの炎、綺麗だったから」
蒼司は顔を向けずに聞いた。響子は俯きながらも、視線だけはしっかり蒼司の横顔と、青い瞳を捉えていた。黒瞳が、どこか渇いた光を宿している。
「ああ、そう」「他の色もあるよね……」
その言葉に、蒼司はゆっくりと目を細め、初めて彼女の方を向いた。青と黒の視線が、夕陽の中で交錯する。
響子が薄く、まるで何かを確かめるように笑った。
(炎使いを、知ってる……?)
蒼司の表情に、警戒の色が帯びる。響子は蒼司の顔を舐めるように見、ゆっくりと立ち上がった。夕陽を背にして逆光になり、表情は見えない。それでも、その口元が笑みを浮かべているのが、はっきりとわかった。
彼女の影が、地面に異様に長く伸びている。
「……ふぅん」「また明日ね、東堂君」
響子はそれだけを残し、夕闇の中へ歩いていく。蒼司はベンチに残ったまま、彼女の消えた方向をしばらく見つめていた。青い炎が、指先で小さく揺れた。
蝉がジジジ、と小さく鳴く。
ハンバーガーショップを出た後の、人気の少ない路地裏。先刻、店内で赤い短髪の大男を見かけた高校生のカップルが、肩を寄せ合うようにして歩いていた。
「さっきの大きな男、恐いねー」「絡まれたらやだな」「大丈夫。喧嘩になったら、俺が守るよ」
彼氏が彼女の手を握り、軽く身体を抱き締める。彼女が顔を上げ、短いキスを交わす。甘い時間が、夏の夕方の路地に落ちていた。
遠く聞こえるざわめき、近くには室外器の音。
抱き締められる彼女の目が、彼氏の背中越しに、壁の影から伸びてくる人影を捉えて見開かれた。
「……っ!」
短い悲鳴が上がる。僅かな間だった。
赤黒い液体がアスファルトに広がり、夕陽を反射して妖しく光った。
夜の風は、ようやく少しだけ涼を帯び始めていた。
トウマはケイをマンションのエントランス前まで送っていた。エンジンを止め、ヘルメットを外す。赤茶の髪が夜風に揺れる。
「また明日な」「うん……今日も、ありがとう」
ケイがトウマの服の裾を、小さく、躊躇いがちに掴もうとした。指先が生地に触れるか触れないか。しかし、トウマはそれに気づかずにヘルメットを被り直し、バイクに跨がる。エンジン音が低く響いた。
ゆっくりと走り出す後部ランプの赤い光に手を伸ばしても、届かない。ケイはしばらくトウマを見送っていた。
掌に、握り損ねた生地の感触だけが残る。遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。二台、三台と重なっていくようだった。
トウマは夜風の中で、小さく舌打ちをした。影の匂いが、まだ街の底に残っている気がした。
赤い短髪の男の瞳も、脳裏にちらつく。
「……まだ、終わっちゃいないよな」
トウマの独り言は、エンジン音に掻き消されて、誰にも届かなかった。




