第1921話 ルッキズム2
目に映る全てのことは、メッセージ……。
それはその通りでしょうが、さりとて、そこで終わってはならず、
それに囚われてはいけない。というメッセージとなります。
誰かが言ってたからそうだ。目に見えたからそうだ。
それって本当にそうなのでしょうか?
関連回 第1546話 教育番組~ルッキズム~
「それで、義父上、先ほどの件ですが……」
「まぁ、まぁ、じっくり論じようじゃないか」
孫達のお祝いを終え、会をお開きとしたが、その後、タランと応接間で、膝を突き合わせて対座している。タランはディオネの夫で、エルフ居住地区の学校長をしており、居住地区の教育のトップの立場だ。
ディオネとともに人間種族の居住エリア内にある公爵城に住んでいることから分かる通り、人間種族と融和的であるが、その一方、エルフ種族の伝統や文化も大切にしている。これ自体は全然かまわない。国として他種族との宥和は求めるが、ガチガチの同化まで求めていないからね。教育省カリキュラムの教科書を使っているが、独自の教材を作成し、使うことも認めている。
同化政策と言えば、ローマだが、そこまで厳しくしていない。あそこは他民族が多かったから、統治上仕方なかったのだろう。ロナンダル王国は人間種族が多いから緩やかそのもの。数の少ないエルフが体制をひっくり返すなんて万に一つもありえない。ここが嫌なら、いつでも転移扉でエルフの里に帰れる。
ローマの同化政策は征服地にローマの文化・制度・インフラを導入し、支配地域を「ローマ化」して帝国の一体化を図ったもの。兵役を終えた属州民や協力的な地方エリートに市民権を与え、212年にはカラカラ帝が「アントニヌス勅法」により全自由民(奴隷以外)に付与。この皇帝は兄弟を暗殺するなど、帝国の衰退を招いた暴君とされるが、この点は評価されていいだろう。意図は相続税収の増加であったにせよ。
この皇帝はカラカラ浴場(テルメ・ディ・カラカッラ)を建設したことでも有名。最大約1600人を収容した古代ローマ最大の巨大公共浴場で、約11万平方メートルの敷地に、温浴室、サウナ、ジム、図書館、庭園を備えた総合娯楽施設だ。現代のサウナやスパのルーツとも言える。日本では弥生時代後期から古墳時代への移行期にあたり、卑弥呼が活躍する少し前の時代だ。
同化というと、一方的に順応させるイメージが強いが、従順な民族の文化や伝統や宗教を尊重しつつ、統治体制に組み込む寛容な姿勢も見せた。この政策により、属州からも国を動かす元老院議員が誕生したし、何ならローマ皇帝も誕生してるからな。ローマが最大版図になった時の皇帝はトラヤヌス帝だが、彼はヒスパニアの属州出身であり、血統ではなく能力でトップに登りつめたのだ。またユダヤの属州ではユダヤ教が認められていた。
征服されれば自由を奪われ、搾取され、虐げられるのが当たり前の時代に、ローマは征服地の民に、自由を与え、言語も教育も文化も仕事も与え、知恵を与え、武器を与え、ローマの意向に沿って努力した者には征服民と同じ立場(特権)まで与えたのだ。途方もなく器が大きい。流石、世界帝国と言われるだけある。
多神教のローマにおいて、他の神を認めない一神教のキリスト教は秩序を乱す危険思想としてマークされたが、それでも当初は、多神教の寛容さから、排除まではされなかった。だが、キリストが「ユダヤ人の王」を名乗ったことは扇動罪にあたるとして、ユダヤ教の司祭たちが告発し、ユダヤ属州総督ポンティオ・ピラトの命により、キリストは処刑されてしまった。
「ユダヤ人の王」とは、ローマ帝国の後ろ盾のもと、かつてユダヤ全域を統治した王、ヘロデ王にのみ許された称号であり、それを勝手に使うことは、許されざることであった。実のところ、ヘロデ王はユダヤ人ではなく、他民族の支配を嫌がるユダヤ人を支配するため、まるでユダヤ人であるがごとく偽装し、そう名乗ったに過ぎない。「ローマに入りてはローマ人のようにせよ」を「ユダヤに入りてはユダヤ人のようにせよ」へと応用し、部分的に導入したのだろう。
ローマ総督ポンティオ・ピラトに尋問された際、キリストは「私の王国はこの世のものではない」と答え、地上の王権を主張しなかったが、法廷でユダヤ教の司祭たちが執拗にキリストの有罪を訴えたため、それが大きく影響した。確たる証拠もなく、総督はその場では有罪にできなかったが、群衆の暴動を恐れて釈放の慣例を無視し、結局、処刑した。
後世、この件により、ユダヤ人がキリストを死に追いやったと伝えられ、ユダヤ人はキリスト教徒から憎まれるようになってしまったが、憎むなら、奸計を労した当時のユダヤ人であり、その子孫に何の罪もない。そもそも司祭以外の多くのユダヤ人はキリストに同情的だった。それなのに二千年も憎み続けるなんて、わけわかめだね。おかしな固定観念の刷り込みと思考停止以外の何物でもない。
ユダヤ人でないヘロデ王がユダヤ人の王を名乗っても平気だったのに、ユダヤ人のキリストがユダヤ人の王を名乗って処刑されるという理不尽さ。実際は「王」を名乗っていなかっただろうが、ユダヤ人お得意の三段論法に嵌められたのだろう。
1 民の指導者は王である
2 キリストはユダヤ人の指導者を自認している
3 よって、キリストは王を名乗り、ローマの反逆者である。
日本も反捕鯨活動家に、これをやられた。
1 クジラを殺すことは残酷である。
2 日本人はクジラを食べる。
3 よって、クジラを食べる日本人は残酷である。
三段論法とは、
大前提(ルール) すべての人は死ぬ
小前提(事実) ソクラテスは人である
結論 ゆえにソクラテスは死ぬ
で成り立つ論法であり、1と2が成立すると、3が浮かび上がってくる特徴がある。なので狡猾な人物は3ありきで、恣意的に1と2を用意する。1のルールは自分の主張を通すのに都合のいいルール、2は数ある事象の中で、これまた自分の主張を通すのに都合のいい事実を持ってくる。
クジラを殺すことは残酷だ。だが、それを言ったら、牛でも豚でも鶏でも、動物を殺すことはすべて残酷だ。クジラを食べる日本人はいるが、食べない日本人だって、たくさんいる。三段論法は準備されて、バンっと出されると、「そうなのか」と納得してしまいがちだが、意図的にチェリーピッキング(都合のいい所だけ抽出する手法)が行われており、実は理論として脆弱なもの。ケースによるが、同じ手法で反論することは難しくない。
とと、現実に話を戻そう。タランだった。
事の発端はこう。孫達を見て、僕らが「可愛い」と言ってるのをタランが耳にし、「それもそうですけど、綺麗でもありますよね」と言ってきたのだ。一瞬、ポカンとしてしまったが、彼は自分の孫が綺麗だと大真面目に思っており、それを素直に口に出したのだ。悪気がないのは知っている。僕もそう(孫は綺麗)思うし。
だが、他種族とはいえ、これを放っておくのは、いかがなものかと思い、
帰ろうとする足を引き留め、こうして呼び出した。
「先ほど、孫を見て、『綺麗』と言ったよね?」
「ええ、言いました。皆さんも『可愛い』と言われてましたよね?」
「うむ、そうなんだが、『可愛い』と『綺麗』はニュアンスが違うじゃないか。『可愛い』は内面からあふれてくるもの。『綺麗』は外面の美しさだろ。似てるけど違う」
「つまり、外面を誉めてはいけないと?」
流石、校長、理解が早い。
「簡単に言えばそうなる。貶すのは論外だが、
誉めるのもあまり良くないんじゃないだろうか?」
押しつけ感を和らげるため、語尾を共感を求める疑問形にする。
「どうしてでしょう? 私たちエルフ種族は見た目の綺麗さに
誇りを持っています。それを示すのは良くないのですか?」
おお、きっぱり言ったね。清々しい。悪気はまったくない。だが――
「君の考えも分かるが、順を追って説明しよう。外見というのは内面と違い、生まれつきのものだから、どうしようもないものだ。つまり、本人の力によるものではない。それを誉めるということは、努力なしの状態を誉めているのと同じであり、教育上、好ましいことではないと言える。逆に内面は本人の力によるものだから、これが良ければ誉めて差し支えない、ということなんだが、どうだろう?」
タランの気分を害さないよう、これも語尾を断定調にせず、
疑問調にしてみた。とりあえず、これで反応を見る。
「ふむ……では生まれつき綺麗なものに綺麗と言ってはいけない
と言うことですか?」
「そう心の中で思うのはいいが、人前で言わない方がいいと思う」
さて、この言葉の登場だ。パネルを提示する。
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ルッキズム(外見至上主義)
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「悪意なく言ったとしても、その人は外見を重んじる人だと思われる可能性が
ある。それは中身を軽視する人という意味でもあり、あまりいいことではない」
「いや、私はそんなつもりはないです。内面も大切にしています」
「うん、それはよく分かる。だから、そう誤解されたくないんだ」
「え? ということは、義父上は私の真意を知った上で、
声をかけてきた、ということですか。だったら……」
「いや、僕やあの場にいた人は分かるからいい。そうじゃなく、
それ以外の場で言った時のことを想定してね」
「それ以外の場……つまり、親族以外の人間種族の前で、ということですか?」
「そうそう。君の場合、そういう機会は少ないかもしれないが、それでも、
まったくないわけではないだろ? というか普通にあるよね」
彼の職場はエルフ居住地区だが、
住まいは公爵城であり、人間が暮らす場所だ。
城内にエルフは多いが、人間だっている。
「まぁ、そうですが、そういう場合はたいてい近くにディオネが
いますので、人間種族相手でトラブルになることはありません」
ディオネは僕とイレーネの娘で、人間種族の中で生活してきたから、
人間種族のことをよく分かっている。
逆にエルフ種族のことが分からないぐらい。
もともと、エルフ種族は同族だけで暮らしていた時は、特段、そんなに美意識はなかったと思われるが、人間種族と交流するようになり、人間種族から「綺麗」と言われ、自分たちが「綺麗」だと思うようになったのだろう。人間の美意識がエルフに伝播したのだ。そう、人間のルッキズムがね。
人間から見て、確かにエルフは美形が多い。この世界の人間も前世の西洋風な顔立ちで、美形が多いが、それと比しても、さらに美形だ。ただ、僕は昔から容姿にこだわりがなかったので、うっとりすることはなかったし、そこは重視しなかった。体が健康で、ちゃんと動くなら、それで十分。逆説的だが、見るべきところは、目に見えるところじゃない。
「『顔が綺麗ですね』と言われて喜ぶとしたら、それは『その喜ぶ人が外見を自分だと思っている』ということになる。その意味が分かるかい? AがBに綺麗だと言うことは、Bがそう言われて喜ぶ相手だとAが思っている、ということなんだ」
ルッキスト(外見至上主義者)に外見を褒められるということは
誉められる人もルッキストから見て、ルッキストに見えるということ。
これは人によって不名誉なことだろう。
「……まぁ、そうですね」
「人は容姿を褒められても嬉しく思うとは限らない。というのは、それはその人を、容姿を気にする人だとみなしたことを意味するからだ。中身より外見を気にする人とね。ルッキズムの人に対して外見を誉めることはプラスに取られるが、そうでない人に対してはマイナスに取られかねない。『自分は外見を気にする人じゃない、そんなことを言うな』とね」
僕個人なら、このようなことを言われても、ポジティブに解釈できるが、
世の中には言われたことをそのまま取ったり、ネガティブに解釈する人がいる。
「だから誉めるなら外面的なことより内面的なことにした方がいい。例えば、テストで良い成績を取り1位になったとしよう。すると多くの人は1位という外面的なことばかり注目し、そこばかり誉めるが、本当に誉めるべきは順位ではなく、それを成すために行った努力の方だ。だから『1位を獲って凄いね』ではなく『よく頑張ったね』の方が好ましい。それに、これなら1位を獲れなくても、皆に通じるからね。2位でも3位でも、下の結果でも」
テスト結果は上位者だけのオープンであり、下位者はオープンしないが、仮に最下位であっても、努力して、そうなった場合はある。前の世界のとある進学校では、100点満点で平均87点、最下位が68点なんてケースがあったが、持って生まれた才能で楽々100点取る生徒より、それ以上に努力して68点取る生徒の方を誉めてあげたい。
「本人の努力でどうしようもないことを誉めるということは、間接的に努力を軽視することになる。誉めるなら、生まれついてのものではなく、努力によって成しえたこと、努力そのものにした方がいい。努力を厭わない精神性をこそ誉める」
誉めて伸ばす、というのは教育の王道的手法だが、そこには誉め方というのがある。良くないのはやはり容姿を誉めることだ。「綺麗だね」「美人だね」と誉めれば、誉められた方はそう思うようになり、その結果、まわりを見下すようになる。「頭がいい」もそう。天狗にしてしまう。誉めるなら結果ではなく過程に対してするべきだ。
外見的形状から美人と言われたら、
周波数の高い人は不快に感じ、周波数の低い人は心地よく感じるだろう。
いずれにしても問題が生じる。
前者は本当の自分を見て欲しいと思い患い、後者はタカビーを拗らせる。
最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。
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