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1915/1922

第1915話 教育番組~結婚論7~

 続きです。

 毒親なら結婚報告してもトラブルになりかねないので、その必要なし、と思うものの、僕個人について言えば、前世の親は毒親とは思っておらず、もし、この世界に一緒に来たなら、普通に接していただろう。


 でも、それ、今だから言える話だよね? い・ま・だ・か・ら。


 来たね。自己ツッコミ。

 その通り、今だから言える話だ。それはそう。


 若い時分は、勉強ばかりさせ、放置し、愛を与えず、酷い親と思ったものだが、今となっては負の感情はなく、むしろ、いい経験をさせてもらったと感謝している。勉強したので知識を得たし、放置されたことで、一人の時間が増えて内面を見る目を養われ、愛を与えられなかったので愛の大切さを知った。


 特に最後の愛の欠如の体験は大きい。それまでの過去世(僕が知る範囲)では愛が有ったので、有ることを普通のように思っていたが、無いと、こんなに辛いものだと分かり、今世の経験に十二分に活きている。


 あの経験があるから今の自分がある。 

 過去の経験のどれひとつが欠けていても今の自分は存在しない。


 当時は、嫌だな、憎らしいな、こん畜生め、と思っていても、年月の経過とともに、それが薄まり、みんな善い人になっていく。これこそが成長の証だ。逆に何十年経っても、負の感情を引きずるなら、そこがまさに自分の未熟な点となる。


 なので過去を振り返り、今でも負の感情を抱く人物がいたら、その人物に「ありがとうございます」の言葉を投げかけるといい。嫌な奴に感謝したくない、という抵抗があるだろうが、その人物というより、その人物の「魂」に届くようにすればいい。その人物(外側)だと抵抗感があるだろうが、魂となると、意外にそうでもなくなるはずだ。舞台上の嫌な奴(仮面をした姿)に感謝するのではなく、嫌な奴を演じた舞台裏の魂(仮面を外した姿)に感謝する。


 過去、いじめに遭い、いじめた人物に感謝するのは抵抗があるだろう。だが、いじめた人物は未熟さゆえ悪想念を制御できず、悪想念に動かされて、そうしただけであり、魂によるものではない。むしろ魂からすると霊性進化に反する行為で、止めに入っていた。心(魂)と想念は別物であり、本体である心(魂)に感謝すればいい。


 罪を憎んで人を憎まず、と言うが、

 悪想念(罪)を憎んで、心魂(人)を憎まずだ。

 より正しくは、悪想念も憎むべからず、だけどね。


 何を感謝するのか?


 それは成長の機会を与えてくれたことだ。実際、悪想念を善想念に転換させることにより、それを成すことができる。感謝できるということはそれだけで成長したということであり、成長したのであれば、それにまた感謝したくなる。


 成長→感謝→成長→感謝、の善循環が起きれば、しめたもの。


 行が進めば、感謝することに感謝したくなり、それにまた感謝したくなり、

 感謝が感謝を生み出す感謝の永久機関となるだろう。


 それは取りも直さず善想念発生器を意味し、

 悪想念発生器を卒業することを意味するだろうが、

 ぜひともそれを目指したい。


 行が進むと、

 どんな経験も後から振り返ると善い経験となり、

 どんな人も後から振り返ると善い人となる。

 

 さらに行が進むと、大して時間経過を経ず、

 少し前にした経験が善い経験となり、

 少し前に会った人が善い人となる。


 さらにもっと行が進むと、まったく時間経過を経ず、

 今した経験が善い経験となり、

 今会った人が善い人となる。


 今の自分はその域にまだまだ達していないが、

 これまでした経験と会った人に対し、悪い感情ではなく、

 善い感情を持つよう努めている。


 努めは勤めであり、修行そのもの。

 行が進めば、苦が減り、楽しくなっていく。


 この世に芯(心)から悪い人はいない。

 ただ自分が発した悪想念に囚われ、悪人を演じているだけだ。

 それが分かれば、人を憎んだり、怒ったりすることがバカバカしくなる。


 ただ、あれなんだよね。行が進むのは善いことだが、進めば進むほど、現世との乖離が生じ、トラブルになりやすくなる。例えば、憎しみや怒りを無くすのは善いことだが、極度に無くすと、どんな災難に遭っても憎しみや怒りを覚えずの極楽とんぼとなり、まわりから変な人扱いされるようになるかもしれない。まだ、「何をしても怒らない」と聞いて、面白がって怒らようとする輩が現れるかも。


 それから、親兄弟に不幸があろうが、住んでる地域や国の状況が悪くなろうが、何とも思わなくなるので、まわりから「おかしい」「気がふれた」と思われるかもしれない。どうも現世の多くの人々は、憎むべき時に憎め、怒るべき時に怒れ、という固定観念(常識)があるようだ。なので、それに反する行い、つまり、いかなる時も憎まない、怒らない、を貫くと、常識から外れ、変人か狂人のような扱いを受けるようになる。


 だが、本当の変人、狂人はどちらであろうか?


 それはよくよく心して考えるべき事柄だ。現世は修行場であり、悪想念の制御が不十分な人が大部分だが、それにより、制御の進んだ人は浮いた存在となり、まわりから距離を置かれることがある。昔は、そういう人が人里を離れて庵に引きこもったり、出家したのだろう。あの当時は人権意識が薄かったので、変人、狂人と思われただけで命の危険すらあった。何かあったら「あいつのせいだ」となり、証拠もないまま処刑されたりね。


 今は、変人や狂人と思われても、生きていけるから、

 その点は随分いい世の中になった。


 お釈迦様は国も家族も捨てて出家したが、その時点で、その行為を何とも思わなくなっていたのだろう。普通の感覚なら国や家族が心配で出家どころではないはずだが、心配や恐れや不安といった悪想念を制御できるレベルに達し、さらにそれを強化するため、さっさと出家してしまった。王子の出家とあって、まわりから「気がふれた」と思われただろうが、本人からすると「目覚めた」ということなんだろう。


 現世では、悪(災難や災害や不幸など)に対し、

 悪(憎しみや怒りや不安や絶望など)を抱いていい、という、

 正当悪(社会的に許される悪)のようなものが根付いている。

 それは刑罰や復讐を許容してるところからも明らかだ。

 

 罪を憎んで人も憎む。これが現実であり、

 それを抑えるため、罪を憎んで人を憎まず、となった。

 ただ、これは空論であり、罪を憎めば人を憎むようになる。

 大事な人を殺されて、殺人(概念)を憎み、犯人(現物)は憎まない? 

 いやいや無理だって。


 なので、親などを殺され、仇討ちしたいと表明すれば、

 多くの人から共感を得、そんな気はさらさらないと表明すれば、

 薄情者、人の心はないのか、と反感を持たれるだろう。


 かく言う僕も大切な家族に何かあったら正気を保つことはできない。そういう意味では修行不足だ。でも、それでいい。そこは変えたくない。それに僕は悪のすべてを否定しておらず、社会的に許される悪(正当悪)とは違うが、生きるために必要な必要(必要悪)は許容している。僕が生きるには家族が必要であり、家族に何かあって、心を動かすことは息をするのと同じぐらい自然なことだ。


 究極の目標 悪想念の完全制御(できるか不明)

 現世の目標 悪想念の制御(必要悪を除く)


 自分の中では、このように分けて整理している。

 悪想念の完全制御は現世では過剰善であり、高級霊界に行ってからだ。

 とか言いつつ、現世の目標達成もなかなか大変だ。


 さて、講義に戻ろう。


 ここまでいろいろ話してきたが、これも言っておかないとな。


「相手を選ぶ際、くれぐれも外見だけで判断しないように。

 顔が綺麗だからといって、心が綺麗だとは限らないからね」


「それは巷でよく言われていることですね」


「そう、世間でよく言われていることだが、実際、自分がその立場に立つと、外見でコロッとやられてしまうことがあるから、何度も反芻して肝に銘じておくべきだ。外見は外見、中身は中身、別々に考えないとね」


 知ることと、できることは違う。


「容姿だけで選んだ場合、人はおのずから年を取ると容姿が変わるから、後々、こんなはずではなかったとなりかねない。年を取って容姿が変わるのは当然のことだが、それがずっと続くかのように勘違いする人がいたりする。その点、中身で選んだ場合、衰えることはないから、その心配がない。末永く結婚生活を続けたいなら、外見より中身で選ぶべきだ」


「中身は外見に表れませんか?」


 いいツッコミだ。


「うむ、確かに表れることはある。特に表情にね。だけど、表さない人もいるから要注意だ。外見も情報の一部になるが、あくまで一部ということを弁えてほしい」


「表情はどこを見れば、いいのでしょうか?」


「先ず、何といっても目付きだね。目は口程に物を言う、の通り、性格のきつい人、攻撃的な人は睨み付けるような目をするから、すぐ分かる。見下す人、冷たい人なども目に出やすい。あと、冗談などを言っても、まったく笑わない人も要注意だ。性格が真面目だったり、緊張して笑わない、ということもあるだろうが、何度も会っているのに、まったく笑わないとしたら、何か理由があるかもしれない。そういう場合は確認するといいだろう」


「確認ですか? 『どうして笑わないんですか?』と聞くんですか?」


「いや、唐突に聞くと変だから、例えば、二人で道化師のお笑い番組を観て、

 それでまったく笑わない時とかね。それなら不自然じゃない」


「なるほど、それは良い手ですね」


「まぁ、蓼食う虫も好き好きで、笑わない方がいいという人にとっては、その方がいいだろうがね。ただ、笑いのある家庭を求める人にとっては重要なポイントだ。それと、笑い一つでいろいろ推し量ることができる。品が有るか無いか、どんなところが笑いのツボなのか、どんな笑い方をするのか、自分が笑えるところで相手も笑えるか、とかね」


 前の世界の結婚式の定番ソングで「共に歩き、共に探し、共に笑い、共に誓い」と歌う曲があるが、この中にも「共に笑い」が入っている。自分はやはり共に笑える人がいい。内心面白くなくても、相手が笑えば、それに合わせて笑い合える夫婦がいい。


「また、パートナーが、苦しんでる時、困ってる時、涙を流してる時に、寄り添い、その気持ちを共有しないとね。もし、それをせず、我関せずをやったら、百年の恋もいっぺんで冷めるだろう」


 パートナーが心配するなら、自分も心配し、心配を共有する。ひと時、心配の悪想念が増えるが、それを乗り越えると、愛情の善想念が増す。必要悪は善に近く、善に転換しやすいから、ネガティブに捉えることはしない。


 悪を必要悪のレベルにまで下げ、善に転換する。この過程で人は成長する。


「同棲すれば、距離が近くなる分、相手の細かい感情の機微に触れることができるようになる。そのひとつひとつをよく見ることだ。もちろん自分もきちんと見せてね」


「双方向なわけですね」

「そうそう、対等な立場、双方向だ」


 パネルを提示する。


□--------------


 結婚とは一緒に生活すること


□--------------


「今更言うまでもなく、当然のことだが、これは本当に大事なことだ。どんなに好きであっても、一緒に生活できなければ、結婚は成り立たない。具体的に言うと、自分と相手の生活習慣が合うことがポイントになる。共に起き、共に食べ、共に働き、共に遊び、共に産み、共に育て、共に生活することができるかだ。人生の基本設計と言ってもいいだろう。先々まで合うかどうかも確認する必要がある」


「えっ、共に産むんですか?」


「実際に産むのは女性だが、男性もその気持ちでいろ、ということだ。それをせず『産むのは女性の仕事』という身勝手な意識だと相手に伝わり、愛情が冷めることになる。出産後、妻が急に冷たくなったなら、それは妊娠中の夫の態度が原因の可能性が高い。鈍い男性は『何もしてないのに』と思うだろうが、何もしないことが問題だ」


 未熟だと不作為(放置)の悪に気付かない。僕の親もそうだったが、すべき時にすべきことをしないと悪になる。その悪を見せてくれたお陰で、僕はすべき時にすべきことをするようになった。


「なるほど……為になります」


 と、ギロン王子は視聴者目線で、今知ったかのように言っているが、

 この話はプライベートで彼に話をしている。相変わらず、役者だね。


「共に、ということですが、合わない場合もありますよね」


「うむ、現実問題、そうだね。なるべく合っていた方がいいが、そうは言っても、別人格であり、完全に合うことはない。なので許容できるところ、そうでないところの振り分けをし、二人で摺り合わせるといい。先ず前提として合わない点があって当たり前。それを二人でどう調整し、どう乗り越えるかだ」


 一息つく。


「例えば、二人がある件について違う考えで、湖面のこちら側と向こう側にいるとしよう。その場合、歩み寄る必要があるが、一方がボートに乗って反対側に行き、もう片方が何もしないのはよろしくない。互いにボートを出し、湖の中央付近で会うのが良いだろう。ケースにより、半々ではなく、七三だったり、三七だったりするが、このやり取りで夫婦関係は築かれていく」


 そろそろ時間だな。締めにこれを言っておこう。

 

「ここまで結婚について、いろいろ話してきたが、補足したいことがある。それは結婚するにしても、しないにしても、自分は親が結婚したから生まれてきたということだ。親もその親から、その親もさらにその親から、という形で代々結婚が続いて僕らはここに存在している。つまり結婚によって僕らは今ここに存在しているということだ。なので、結婚について否定的に考えることは自らの存在まで否定することにつながる。最終的に結婚するかどうかは個々人の判断によるところだが、結婚のお陰で、生かせてもらっていることをよく認識してもらいたい。そして、そうさせてくれた両親や先祖に感謝するべきだ」


 僕らは現世で修行できるという実に有難い機会を得ているが、それは現世で先人たちが脈々と縷々(るる)命を繋いできてくれたお陰でもある。そこに思いを馳せれば、自然と感謝の念が湧き上がり、この流れを今後も残したいとなるだろう。


 もちろん、個人の考えや諸事情により、結婚せず、もしくは結婚しても子供を持たない場合もあるだろうが、その場合は自分の代わりに子供を産み、育てる夫婦に感謝するべきだ。


 自分の代わり? 他人の子供でしょ。


 と思うかもしれないが、さにあらず、子供は社会全体の宝だ。年を取って引退した時、現役世代がいないと大変なことになるが、そうならないで済むのは他の夫婦が子供を生んでくれたお陰。独り身のまま60才を過ぎ、それまでの貯えで生活するにしても、その生活ができるよう支えてくれるのは若い現役世代だ。


 誰が食料を生産し、誰が生活物資を供給し、誰が治安を維持し、誰が国家を運営してくれるのか。それは、結婚した夫婦が産んでくれた子供たちだ。結婚しないことは個人の判断として許容する。そういう生き方もある。だが、結婚で支えられた社会システムに乗りながら、結婚を否定するのはナンセンスだ。それは神輿に担がれながら、担いでくれる人にムチを打つようなもの。恩を仇で返すようなことはしない方がいい。


 だから、結婚しない方がいい、と多くの人に触れ回ることは、大袈裟でも何でもなく、国の滅亡に加担してるのと同じことだ。個人的な判断で結婚しないのはいい。でも、それを他人に勧めるべきではない。政治に関わった身として、そう思わざるを得ない。人あっての国だ。

 最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。

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