第四章 明日へ続く世界 ー靴ひもー
「だから、あんたを蹴落としてやりたかった。あんたご自慢の陸上の試合で。クラス全員の、学校中の生徒が見守る前であなたに恥をかかせてやりたかったのよ」
ああ、この人は、私と同じなんだ。
「あんたなんて大嫌いよ。だから私は、気づかれないようにあなたの靴ひもを切った」
お姉ちゃんに憧れて、どうしてもその存在を超えられなかった私と一緒なんだ。
「みんなさぞ落胆したでしょうね。英雄のあなたが、実はただの役立たずで、クラスの足を引っ張ったんだから」
早紀は無言で静かにののかに歩いていった。
「なによ! どうなのよ! 何か言いなさいよ!」
ののかは虚勢を張りながら、静かに歩いてくる早紀の気迫に気圧されたて後ずさる。
「怒ってるの? 怒りなさいよ。当然でしょ」
ののかを教室の隅に追い込むと、ぴたっと早紀は止まった。
「何をするの? いいわ。何でもするがいいわ。みんなに私が何をしたのか良いふらせばいいのよ」
声が少し上ずっている。
「しない」
早紀は小さく声を発した。
「え?」
ののかは、ぱかんと口を開けて、間抜けた顔をした。
「そんなことしないよ。如月さん。私は、言いふらしたりしない」
「どうしてよ! 私は……」
「如月さん」
大声を出しているのはののかの方なのに、早紀の語りかけるような声にののかは押し黙った。
「私は、気づいてたんだ。あなたが靴ひもを切ったってことに」
「え?」
ののかは驚きに口を開けた。
「もちろん、試合が終わってからだけどね。いつ紐が切れたんだろうって考えたら、試合前、あなたが私の下にしゃがみ込んだ時に、少し違和感を感じたことを思い出したの。それで、あなたが犯人だって確信した。その直前には、靴紐を確認てしたし。切るんだったらそのタイミングしかない」
「そうなの……」
ののかの顔が恐怖で引きつる。
「でも私は、誰にも言いふらしたりしないよ。ただ、どうしてそんなことをしたのか、その理由をずっと知りたかった」
早紀は優しくののかの頭を撫でた。
いつか結衣がそうしてくれたように。
ののかが、かつての病んだ自分に見えたからだった。
ののかはぎこちなく、早紀のなすがままにされている。
「どうしてそこまで優しくしてくれるの? あなたの靴の紐をきったのは私なのよ?」
言葉には不安が滲んでいる。
「どうであれ、私が、コースに出る前に気がつかなかったことには変わりがない。陸上部でトップ張ってたのに、私はそんな初歩的なことにも気づかずにグラウンドに出てしまった。それが、私にとって、一番後悔してることなの。あれは、大事な試合に向かう準備が万全にできてなかった私のミス。試合の後に気づいたって、どうしようもない。あなたが私になにかをした、そんな違和感にがあったのにも関わらず、それを無視して試合に挑んだ私の責任」
「どうしてあなたはそんなことが言えるの?」
ののかは悲痛な顔で尋ねた。
どうせなら罵って欲しかったのだろう。
自分が一方的に嫌って、貶めた人間が、ここまで懐の深い人間だとは思わなかったに違いない。
自分の器の小ささに、自分の醜さに、ののかは気づかされていた。
どうせなら、思い切り罵って欲しい。
でないと、私はあなたを嫌いなままでいられない。
水野早紀。あなたが、優しい人間なはずない。
優しい人間ではあってはならない。
だって、それじゃあ、私は何一つ、あなたに勝てないじゃない。
ののかは自分でも気づかないままに、涙を流していた。
早紀も、本当なら、ののかを罵りたかった。
クラスメイト全員に、あれはののかのせいだったと言いふらしてやりたかった。
以前の早紀ならそうしていただろう。
ののかの弱みにつけこんで。
利用して。
でも、結衣に会い、結衣の優しさに包まれた今、かつてそうであったように、結衣のようになろうと心に決めていた。
憧れのお姉ちゃんになりたい。
それが今の早紀のすべての行動原理だった。
私と違うところは、結衣のような存在がののかにいなかったこと。
そう思うと、なんだか、ののかが可哀想に思えて来た。
「だって、それが私がなりたい私だから」
早紀は自分に言い聞かすようにそう言った。
「あなたって、本当に、嫌になるほど良い子ね。そういうところが大嫌い」
ののかは吐き捨てるようにそう言い、 「だけど……」 と続けた。
「なんだか、今のあなたは、好きになれそうだわ。以前のように無理してなくて、自然で、とっても素敵よ」
早紀はにっと笑った。
「ありがとう」




