第二章 囚われの記憶 ー先輩ー
土曜日の練習メニューは、インターハイ選抜メンバーを中心にしたものになった。
グラウンドの使用権は優先的に彼女たちに回され、他の部員はそのサポートと、ひたすら走り込みを行うことになっていた。
午前中の部活が終わり、部員たちが部室で休憩をするなか、早紀と柚木だけが自主的にグラウンドに残って練習していた。
キャプテンとなることが決まってからも、早紀は不安でたまらなかった。
不安をぬぐい去りたくてひたすら練習に励んでいた。
休み時間も、一人でひたすら走り込んだ。
そんな早紀が心配で、柚木もよくそれに付き合って二人で練習をした。
「ちょっと、休憩しようか」
柚木が早紀に声をかけ、ようやく早紀は走るのをやめた。
グラウンドの隅に据え付けられたベンチに二人は並んで腰を下ろした。
日よけと雨よけの屋根もついたそのスペースは、結衣の時代に陸上部のために据え付けられたものだった。
その時代、全国で結果を残した陸上部のために学校は様々な施設を新築、増設した。
百人を超える部員を収納できる広い部室もその一つだ。
結衣の偉業は、後輩の早紀たちにも恩恵を与えていたのだった。
それを感じるたび、誇らしい気持ちよりも早紀は暗い気持ちになった。
私はお姉ちゃんを超えることはできない。
その気持ちは常に早紀を責めた。
「頑張るね早紀は」
汗を拭きながら、柚木は明るく話しかける。
「早紀を見てると、結衣先輩のこと思い出すよ。一生懸命に練習する姿とか、ほんとに先輩そっくりだよね」
その言葉は、早紀にとっては意外だった。
「お姉ちゃんがですか?」
早紀に取って結衣は完璧超人で、その結衣がだれよりも練習していたことはとても意外だった。
「そうだよ。先輩は誰よりも努力してた誰よりも頑張って、そして誰よりもすばらしい結果を出してた。そんな先輩を、私は心から尊敬してるよ」
「お姉ちゃんがそんなに練習してたなんて、意外です……」
「そう?」
柚木は面白そうに笑った。
早紀の知らない結衣の一面について語ることが楽しくて仕方ないというような感じだった。
「お姉ちゃんは、練習なんてしなくても何でもできると思ってました。なんでもできて、なんに対しても答えを持ってて……」
「そんなことないよ。それに、先輩はとっても心配性なんだよ。特に、早紀のことに関してはね」
柚木の言葉に、早紀は思わず声を荒げた。
「そんなこないです。お姉ちゃんは、私のことなんかどうでもいいんです」
ぶっきらぼうにそう言い捨てた。
「あんたねえ……」
柚木はため息をつきながら、首からかけたタオルで汗を拭うと、何かを思い出すようにじっとグラウンドをみつめた。
「結衣先輩は、あんたのこと、ほんとに心配してたんだよ。私が羨ましくなるくらい」
予想もしえなかった言葉に、早紀は柚木の横顔を凝視した。
「えっ?」
だって、お姉ちゃんは私のことなんか見てくれていなかった。
お姉ちゃんは、私のことなんか邪魔だと思っていた…はずだ。
だって、そうじゃなかったら、私は今までお姉ちゃんを傷つけていたことになる。
そんなはずはない。
私を傷つけたのはお姉ちゃんのほうだ!
様々な感情が、一気に早紀の心に吹き荒れた。
「一回、早紀が風邪引いて小学校で倒れたことあったでしょ? ちょうどご両親が家をあけていたみたいで、結衣先輩のとこに連絡がきたの」
それはまだ、両親が離婚する前の出来事だった。
子供ながらに早紀もよく覚えている。
私は高熱を出して、学校で倒れた。
かなりの高熱だったから、救急車で運ばれて、けっこうな騒ぎになったものだ。
もっとも、早紀は学校で倒れたときから気を失っていたため、詳細についてはほとんど覚えていないのだが。
「結衣先輩、急いで病院に飛んでいこうとした。でもその日は県大会当日で、連絡がきたときは、ちょうど先輩の出場する女子二百メートルの決勝が始まる前だった。決勝を辞退して病院へ意向とする先輩を、みんな止めたのよ。せめて決勝を走ってから行ってあげてくださいって。でも、先輩は笑って断ったわ 『結衣には私しかいないから、一秒でも早く安心させてあげたい。』 ってね。団体の優勝は決まってたし、個人での結果にはあまり興味ないからって。結局強引に先輩たちが出場させて、その後のインターハイで優勝することになったんだけど」
淡々と語られる、早紀の知らなかった姉の姿。
それは、早紀の心を激しく揺さぶった。
動機がだんだん早くなってくるのを感じる。
「それにね、結衣先輩ほんとは陸上部に入部するつもりじゃなかったんだよ。放課後には用事があってすぐに帰らないといけなくて部活する時間がないからって。あなたに会うために早く帰りたかったんでしょうね。まあ先輩方が必死に説得して入部してもらったんだけどね」
そう、だったんだ。
「だからね、早紀」
柚木先輩は突然言葉をきり、早紀をすっと見据えた。
「逃げるなよ、早紀。現実から逃げるな。あんたは陸上部のエースで、みんなに頼られてる。それは、先輩の妹だからなんかじゃない」
「先輩……」
それしか言葉が出てこなかった。
言葉の代わりに、涙が溢れた。
柚木先輩は優しく微笑みながら立ち上がり、首のタオルでそっと顔を隠してくれた。
早紀は、柚木の腕の中で静かに泣いた。




