第7話 心地よい温度
第7話 心地よい温度
なんとなくすぐに戻る気になれなくて、ミアは居間で暇を持て余していた。既に他の住人は各々の部屋に戻ったらしく、あんなに騒がしかった居間は静寂に包まれている。暖炉の上に飾られた鹿の剥製と目が合って、ミアはそっと目を逸らした。本当にここ、貴族の屋敷だったんだな。
「おやあ?夜更かししてる不良娘がいるねえ」
急に声をかけられて、持っていたコップを落としかけた。暖炉の埋火に照らされ、暗闇の中に眼鏡だけが鈍く光っている。ぬるま湯一号、レベッカ医師であった。
「……驚かせるなよ」
「そりゃ、こっちの台詞さ。オリビアちゃんが心配してたよお。『ミアちゃんが帰ってこない。お手洗いを探して迷子になったのかもしれない』って」
それで代わりに探しに来たってわけ、と、レベッカは目元に落ちてきたほつれ髪をよけながら言った。用足しという緊迫した状況で誰にも場所を聞けず迷子になっているなんて、オリビアの中のミア像はどうなっているのだ。ラウルでもレイラでもなく、いかにも適当そうなレベッカに捜索を依頼しているあたりからも、オリビアが少々ずれていることが窺える。
「せっかくだし、ミアちゃんの身体の具合でも診察しようかねえ。どうせ、フィーナちゃんと喧嘩したばっかで帰りづらいんだろ?」
「別に、風呂上がりに水飲んでただけだし。足裏も死ぬような傷じゃないから見せねえ」
さっさと退散しようとしたが、レベッカは後ろ手に居間の扉を閉めて退路を塞いでしまった。
「いや、その件は正直心配してないんだけどさあ。ラウルくんかレイラちゃんが、その場で応急手当してくれただろうし、どうやら擦りむいただけみたいだからねえ。健康診断の口実にしただけだよ」
「そんなに細かく共有してんのかよ……ラウルのやつ、ほんとにプライバシーって概念がねえんだな」
「あれ?言ってなかったっけ。あたしが透視したんだよ」
今日の天気の話をするようにあっけらかんとした口調だったので、ミアは一瞬、何を言われたのかわからず、レベッカの発言を聞き流した。それからじわじわと、疲れた頭にその言葉が浸透していき、意味を完全に理解したとき、ミアの喉から素っ頓狂な声が飛び出た。
「……はあ⁉⁉⁉」
「しぃー……声が大きいよお。子どもたちはみんな寝ちまったんだから、起こしちゃ可哀想だろう」
レベッカは困ったように眉をひそめ、人差し指を唇に押し当ててきたので、ミアは即座にその手を振り払った。今気にするべきは、ベッドでぐっすりの子どもたちのことではない。
「オレの身体を透視って……なに勝手に覗いてんだ!プライバシーの概念がないのはお前じゃねえか!」
「人を覗き魔みたいに言わないでおくれよう。見ようと思えばいつでも見れるけど、必要な時にしか能力は使わないことにしてるんだから。例えば今日みたいに、明らかに健康状態に問題がありそうな子が帰って来たときとか、子どもが行方不明になったときとか。医者としても大人としても、見過ごせない問題だろう?」
一応、レベッカなりの理屈はあるらしい。だが、勝手に身体の内側を覗かれて、気分がいいはずがない。苦虫を嚙み潰したような顔のミアを見て、さしものレベッカも、自分の行為がいかに人を不快にさせたかを自覚したのだろう。それまでの飄々とした態度はなりをひそめ、声のトーンが一段下がった。
「でも、勝手に見ちゃったことは謝るよ。ミアちゃんの気持ちも考えずに、無遠慮に踏み込んじまってごめんよ」
即座にレベッカが謝罪をしたので、ミアは怒鳴ることも皮肉を言う機を逸して、曖昧にうなずいてしまった。「先生」と名の付く人間は、医者にせよ学者にせよ、大抵横柄で、自分の非を認めない存在ではなかったのだろうか。こうも簡単に頭を下げられると、どうも調子が狂う。
「こんな話の流れで悪いんだけど、ミアちゃんの身体を診察させてもらってもいいかい?やっぱり見ちゃった以上、気になるところはたくさんあるからさ」
色々と説明されても、見えないはずのものを見る力を恐ろしいと思う気持ちは変わらない。
しかし、ラウルいわく優秀な医者から「気になるところ」を指摘されたうえで無視を決め込めるほど、ミアの肝は太くなかった。ミアは、存外常識的なところのある不良であった。
「……仕方ないな。少しだけだぞ」
「ご協力感謝するよ。居間じゃ道具も何もないから、医務室までご同行願えるかい?」
医務室に入るとまず目についたのは、大量の瓶と薬草が並んだ薬棚、医学書らしき分厚い本が並ぶ本棚、それから、いかにも高価そうなガラス器具だった。何に使うのかはよくわからないが、多分、薬を作るのに使う道具なのだろう。空間を区切る大きな布をくぐると、ベッドが一台。側には使い込まれた机と椅子があった。ミアは医務室というものを見たことがない。ただ、医務室の机の上に、大量の酒瓶が散乱しているのはおかしいということだけは分かった。
「酔っ払いに身体預けなきゃいけない人間の気持ちって考えたことある?」
「ここは医務室兼あたしの私室なんだよ。患者がいれば医務室、いなけりゃ私室。自分の部屋で晩酌するのは普通だろ?昨晩呑んで以来だから、今はしらふさ」
だから安心おし、とミアをベッドの縁に腰掛けさせると、レベッカは、薄い寝間着の袖をめくって、ミアの細腕をあらためはじめた。
「透視するんじゃねえの?」
「いやだねえ、まずは医者として鍛えたこの目で見るさ。透視はあくまでも補助」
レベッカは手足の触診に始まり、喉やら腹やら、ミアの全身をくまなく診察していった。なにかぶつぶつ呟いていたが、聞いたところでわからないので、あえてこちらから質問することはなかった。
「……うん。今すぐ命にかかわるようなことはないね。でも、今後は、怪我をしたら隠さず見せなよお。小さな傷でも、悪いものが入ってぽっくりなんてこともあるんだから」
「……気になるところがたくさんあるんじゃなかったっけ?」
「そりゃあるさ。それこそ、数えきれないほど。でも大体は、バランスよく食って、安全な場所で心と身体を休めりゃ、じき良くなることなんだから、わざわざ脅すこともないだろう?治療方針は、〈アルカの家〉で普通に暮らすことだね」
こういう身体を一発で治す特効薬はないのさ、と笑いを含んだ声で言いながらも、その声は少し複雑な響きを持っているように感じた。
「オレ、野菜よか肉食いてえんだけど」
「それ!それだよお!ミアちゃん、肉とかパンとかばっか食ってたろ。それも、食える時に食い溜めする感じで!おかげで胃腸はぼろぼろだし、血も薄い。骨も何か所か折れた跡がある。野菜避けるの禁止だからね、あとヤギ乳も残さず飲むこと!」
それまでの緩い雰囲気が一転し、口うるさい母親のような勢いで詰め寄ってきたので、ミアは気圧されてしまった。さらっと、骨折したことも、これまでの生活も当ててくる。胃腸がどうとか、血がどうとかはよくわからないが、おそらくそれも事実なのだろう。透視能力なのか、医者としての経験なのか、その両方なのかわからないが、レベッカの目は確かなようだった。
もともと、出されたものを残すような贅沢な価値観は持ち合わせていないので、ミアは素直に頷いた。レベッカは、ミアが頷いたのを認めると立ち上がり、薬棚を漁り始めた。
「でも……さ、今来てくれて、本当によかったよ。あと数年遅かったら、確実に病気になっていたし、大事な足も壊れちまってるところだ。そういうことがわかったから、ラウルくんたちはミアちゃんを拾ったのかねえ。あの二人も、いつ死んでもおかしくない生活してたからさ」
ミアの硬くなった足裏に、強烈な臭いを発する薬を塗りながら、レベッカは言った。
「ミアちゃん、頑張って生きてきたんだねえ」
レベッカは慣れた手つきで包帯を巻き、これでおしまい、と足の甲を軽く叩いた。ただ読み取れる事実だけを拾い、一連の治療行為は、流れるように進んでいった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
もう遅いからお戻り、フィーナちゃんたちももう寝てるからさ、とレベッカはミアを送り出した。
妙な医者だと思った。でも、最初ほど嫌な感じはしなかった。確かな足取りで階段を上り、女子部屋の前に立つと、扉からは静かな寝息が漏れ聞こえてきた。フィーナたちが眠っていると言ったのは、透視能力なのか、大人としての経験なのか、その両方なのかよくわからないが、わからないままでもいいような気がした。
ドアノブに手をかけたそのとき、後ろから誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
「よかった、まだ起きてた。わざわざ起こすほどのことじゃないからねえ」
小走りで追って来たレベッカは、声を潜めてそう言い、布を巻きつけた硬い塊を押し付けた。腕の中に抱えることになったそれは、じんわりとぬくもりを発していた。
「湯たんぽ。ミアちゃん、冷え性の気があるみたいだからねえ。ミアちゃんの最初の課題は、緊張でカチコチの身体をほぐすことだよお」
布をはがしてみると、平たい陶器が顔を出した。風呂の残り湯を入れたものだそうだ。レベッカは二言三言使い方を説明すると、「おやすみ」と階段を下って行った。
ミアは、眠っている同室の三人を起こさないように静かに梯子を上り、何枚か重ねられた毛布に身体を滑り込ませた。毛布は薄かったが、何度も洗われたのか、すっかり柔らかくなっていた。ミアは、肩まで毛布を引き上げ、身体を丸めると、その腹に湯たんぽを抱え込んだ。やはり、ぬるま湯が一番心地いいなと思い、ミアは目を閉じた。




