第5話 できることできないこと
第5話 できることできないこと
皿洗いなどという面倒な作業を日に何度も義務付けられるなんて、共同生活とはなんと不自由なことだろう。食い終えた皿なんて、その辺に捨てるか、せいぜい野良犬に舐めさせるものだ。屋台の串は地面に放ればいいし、盗んだパンを包んでいた紙切れなど風がどこかへ持っていく。うまいもので腹を満たし、食後のけだるさに導かれるままに横になるのが、この世で最も幸福な時間の一つだというのに、下らない労働を課せられては、それもかなわないではないか。
それでも、レイラが命じた以上、従わなければ、それ以上の面倒が待っていることは目に見えていた。命令に逆らって、早々に〈アルカの家〉から追い出されるくらいなら、この程度の屈辱は甘んじて受け入れよう。ここは焦げシチューが定番メニューなのだとしても一応は毎日飯が食えるし、雨風をしのげる屋根がある。あの市場でその日暮らしをするより、よほどましな環境であることは、この短い時間過ごしただけでも分かる。たとえ、気に食わないオジョウサマの癇癪に巻き込まれた形であったとしても、この環境に免じて、この不当労働は許してやろうではないか。ああ、オレってば、なんて寛大なんだろう。
「……なにをにやついているの。さっさと片づけますわよ」
フィーナが不機嫌を隠そうともせず、刺々しい声で言った。なにさ、人がせっかく許してやろうとしてたのに。絶好の機会を自らふいにしたこのオジョウサマと和解することは、この先もないだろう。
大人三名に、子ども四名、幼児二名。今日からはそこにミアも加わって、合計十名。品数自体は少なくとも、大所帯なので、洗わねばならない食器は大量だった。
木椀に、匙に、パンくずのこびりついた平皿。大小さまざまなコップ。焦げ付きシチューの残骸がへばりついた大鍋など、一目見るだけで気が滅入る。
「これ全部洗えって?」
「洗い桶は棚の中。水は外の井戸から汲みなさい。鍋の油汚れは、灰でこすって落とすこと」
手早く指示を済ませたレイラは、二人の間をとりなすこともなく行ってしまった。
残されたのは、汚れた食器の山と、つい先ほどまで派手に火花を散らしていた初対面の少女二人。気まずい沈黙の中で、カシャカシャと食器がぶつかる音だけが響く。
「……おい、もっとそっち寄れよ」
「水場はここだけなんですから、我慢してください。本当にわがままですのね」
水の中に一枚ずつ皿をつけ、丁寧に布でぬぐっていくフィーナをよそに、ミアは洗い桶の中に入るだけ皿を入れて、まとめて食器を洗い始めた。たちまちミアの洗い桶は白く濁ったが、朝までかかりそうなフィーナの何倍も早く、食器の山が消えていく。
「もっと丁寧に洗ってくださいまし!明日の朝も、この食器でみなさん食事をするのですよ!」
「シチューがついたままの皿で食うよりよっぽどいいね。お前、ホントに家事一つしたことないオジョウサマなんだな」
ありったけの皮肉を込めて言い返した。少なくとも、食器洗いのこの場面においては、フィーナよりも優位に立てる。いちいち突っかかってくる苦労知らずのオジョウサマが苦戦している隣で、軽々仕事を片付けていくのを見せつけるのは、実に気分がいい。
すぐに顔を真っ赤にして反論してくると思ったが、意外なことに、フィーナはしばらく黙っていた。
「……ええ。わたくしは、大貴族の令嬢として何不自由なく育てられました。毎日、一流の料理人が豪勢な食事を作ってくれましたし、掃除も洗濯もメイドがやってくれました。それどころか、ドレスさえ自分で着たことがなかったのです。訳あって、この〈アルカの家〉に来るまで、わたくしは家事なんて、一度だってしたことはありませんでした。だって、する必要がなかったんですもの」
突然始まったフィーナの昔語りに、ミアは顔を顰めた。そんなことは聞いていない。お貴族様の優雅な日々の回想など、だれが聞きたいものか。
ミアが顔をしかめているのにも気がつかず、フィーナは話し続ける。
「わたくしに求められたのは、令嬢に相応しい高貴な立ち居振る舞い、ウィットに富んだ会話術、一流を見分ける審美眼。美しく舞い、可憐な声で歌う、社交界の花・フィオレンティーナ嬢であること。わたくしは、努力し続けました。家族からの期待に応えるためだけではありません。努力できる自分が好きだったからです。こう言っては何ですが、わたくしは非常に優秀な人間だったと自負しております」
そこまで言い切って、フィーナの口から細く息が漏れた。
「……ここでは、何一つ通用しませんでした」
フィーナは長い時間をかけて洗っていた皿を水からあげ、皿の縁にわずかに油がついているのを認めると、もう一度水の中に皿を滑り込ませた。
「わたくしは美しい叙事詩をいくつも知っています。けれど、子どもを泣き止ませる楽しい話を作ることができません。わたくしは一流の絹織物の見分けがつきます。けれど、穴の開いた服の繕い方を知りません。わたくしは、この家に来てから、自分は何もできないということを思い知りました」
「……へえ、そりゃお気の毒に」
布を握りしめてうつむいていたフィーナは、突然ミアの顔をきっ、とにらんだ。
「けれど、わたくしは、経験がないからといじけて、努力を放棄したりはしなかった!野菜を切るたび手が血まみれになろうと、お気に入りのシャツが皺だらけになろうと、それでも自分でやり続けた。みなさんは、そんなわたくしを嗤うことなく、優しく見守り、一緒にやろうと励ましてくださいました。
わたくしが努力し続けるのは、家族に見放されたわたくしを、それでも守ってくださるみなさんへお示しできる、たった一つの敬意の証だからです。……それに、そうでなければ、わたくしはわたくしでいられない」
フィーナは、理性的であれと己を律しているようだったが、抑えきれなくなったのだろう。堰が切れたような勢いで思いの丈を話しはじめた。その勢いに押され、話すはずではなかった本心まで漏らしかけたのに気づき、話を本筋に戻した。
「……あなたは、それを軽んじたのです。それだけではありません。誰にでも優しく、争いが苦手な人の沈黙を都合よく解釈し、当然のように受け取ろうとした」
フィーナのあまりの剣幕に一瞬ひるんだが、ミアはすぐにいつもの皮肉めいた調子を作って言い返した。
「……っは。長々と演説して、最後は説教かよ。要するに、あの三つ編みをかばってるだけじゃねえか。本人は平気だって言ってるのに、お前が止める権利あるのかよ」
真っすぐにミアを睨んでいたフィーナの瞳が揺れた。
「それは……」
「フィーナちゃん、ミアちゃん!お手伝いに来たよ!」
険悪ムードの台所に似つかわしくない、柔らかい声が唐突に飛び込んできた。扉の先には、きっちりエプロンを身に着けたオリビアが立っていた。手には乾いた布巾を持っている。
「二人だけじゃ大変でしょう?レイラさんは、仲直りしてもらうためにお皿洗いを頼んだんだろうけど、それじゃみんなでお話しする時間がなくなっちゃう。早く終わらせて、一緒にお部屋でお話ししよう?」
どうやら、オリビアには先ほどの会話を聞かれていないようだった。オリビアは、ミアの側につくと、洗い終えた食器を乾いた布巾で丁寧に拭いていった。近くで見ると、オリビアのエプロンは、ところどころに小花柄の刺繍が施されており、多少くたびれてはいたが、大事に使われているのがよく分かった。
「ミアちゃん、お皿洗い早いんだねえ。初めてだからお手伝いが必要かな、と思ったんだけど、余計なお世話だったみたい」
「……前に、市場で皿洗いの仕事してたことあるからな」
予想もしていなかった言葉に、フィーナは目を見開いた。ミアは濡れた布を床に放り、オリビアが持ってきた布巾に持ち替えた。
「オレが働いてたのが、そんなに意外か?警備隊に捕まる危険と隣り合わせの日々を過ごしたいやつがどこにいるんだよ。学がなくても、皿洗いくらいはできた。まあ、店の都合ですぐ切られたけど」
フィーナは何か言わなければと口を開きかけ、でも結局何を言っていいのかわからずに、押し黙った。
「そっかあ。じゃあミアちゃんは、〈アルカの家〉のお皿洗い大臣になれちゃうかもね」
オリビアはほほ笑んだ。野に咲く名もない花のように素朴で、人を安心させるような笑みだった。
オリビアは、ミアが洗った皿をきっちり拭いてしまうと、皿をいくつも重ねて食器棚に運んでいった。
と、そのとき、オリビアの小柄な体が、ふっと沈んだ。自分の分の皿を洗い終えたミアが、適当に放置していた布に足をとられたのが原因だった。幸い、オリビアは軽くつまずいただけで、全身を床に打ち付けるようなことはなかった。だが、うず高く積み上げられた皿はバランスを崩し、空中へと放り出された。
パリーンッ!
……という音が、鳴ることはなかった。甲高い音に備えて身構えていたミアが再び目を開けたとき目にしたのは、空中で静止する皿の群れだった。投げ出された瞬間の姿勢を維持したまま、微動だにせず、その場に留まり続けている。その異様な光景に、ミアは目を見開き、何も言えずに口をぱくぱくさせた。
「……ありがとう、フィーナちゃん。おかげで助かったよ。わたし愚図だから、きっと一人じゃなんにもできなかった」
「オリビアさんのせいではありませんわ。人間、だれしも失敗はありますもの」
フィーナが掲げていた手をさっと振ると、止まっていた皿は空中をふわふわと移動し、オリビアの手の上に、行儀よく収まった。
「おい、今のって」
フィーナは、居心地悪そうにミアの方を向き、隠しても無駄だと悟ったのか、ぽつりと言った。
「今のがわたくしの能力――念動力ですわ」




