第3話 いい足のお嬢さん
第3話 いい足のお嬢さん
山を越えてしまえば、早かった。距離という観点から言えば、昨日以上に険しい道のりに思えるのだが、それなりに大きな街に続く街道だけあって道は平らに整えられているし、街まで着いてしまえば店も豊富にある。荷車を借りたことで、〈アルカの家〉への旅は一気に楽なものになった。
「ああ~!生き返る!」
ずっと背負っていた重い荷物を下ろして、ミアは大きく伸びをした。重い荷物は、手足をぶらぶらさせる自由を奪う。重いということはそれだけで罪である。ラウルとレイラにとっ捕まって以来味わっていなかった解放感を味わい、ミアは、久々にいい気分だった。ミアは、荷台にすべての荷物を放ってしまうと、緩やかな下り坂に向かって走り始めた。朝の清浄な空気を肺に満たしながら体を動かすのは、なんと気持ちのいいことだろう。冷たい風を全身に受けて走るとき、ミアは、自分はどこにだって行けるのだ、という万能感を感じる。この世のしがらみの一切から解き放たれ、そこにあるのは、すべてから切り離された、何者でもない自分だけ。貧困も孤独も関係ない。そのときミアは、感じるままに、ただ生きればいいのだ。だから、ミアは走ることが好きだ。
しかし、楽しい時間もそう長くは続かなかった。緩やかな下り坂を一気に駆け下る途中、突然靴がすっぽ抜けてしまったからである。片足が急に軽くなったと思ったら、次の瞬間には足の裏に鈍い痛みが走った。しかし、ここは急な下り坂である。本能のままにスピードに乗っていたミアは転ばないようにするのが関の山で、結局、坂の終わりまで裸足で走り切るしかなかった。ようやく止まって足の裏を確認すると、すれて軽く血がにじんでいた。
「あーあー、なにやってんだか……見せてみろ」
岩に腰掛けるミアにあわせてしゃがんだラウルは、濡らした手拭いでミアの土と血で汚れた足を拭うと、薬草をすりつぶした緑色の汁を塗り込んだ。ミアはつっと顔を歪め、軽くラウルの身体を蹴飛ばした。ラウルは体勢を崩し、片手をついて受け身をとった。
前々からミアの靴は、一応靴という形を保てているに過ぎない代物だった。その状態で、能力者同士の本気の逃走劇を演じ、さらに山越えの旅をしてきたのだ。靴底などほとんど外れてしまっていて、いっそない方が歩きやすいのではないかと思うほどだ。
「この靴はもう潮時ね」
坂の途中に落ちている靴を回収したレイラは言い、荷台の方向をくるりと変えた。向かった先は、街のはずれにある小さな靴屋だった。
「どうせ倍にして返せとか言うんだろ、いらねえって」
「私たちを何だと思ってるのよ」
「ごめんくださーい」
入店拒否するミアをよそに、ラウルは慣れた様子で店の奥に声をかける。二度、三度、そうして声をかけて、ようやく店の奥から出てきたのは、腰の曲がった白髪の老人だった。どこか悪いところがあるのか、頬がこけ、目がぎょろりと大きく見える。
「なんだ、ラウルかね。見ない子を連れているが、また新しい子を拾ったのかい?」
「今回も、なりゆきというかなんというか……こいつに合う靴を見繕ってほしいんだが……」
「だからいいって」
まあそう言わずに見せてみなさい、と断る間もなく、老人はミアを台に導いた。抵抗しようと思えばできたが、推定病人を突き飛ばすのはさすがに気が引けたので、おとなしく従うしかなかった。
老人はミアのボロ靴を脱がすと、真剣なまなざしでミアの足を触診し始めた。ひんやりとした感触が触れた瞬間、思わず足を引こうとしたが、老人の節くれだった手は驚くほど静かで、見知らぬ大人に触られているのに、不思議と嫌悪感が湧かなかった。
「お嬢さん、いい足をしとるね。どこまででも走っていけそうな身軽な足だ」
大きい目を更に見開いてミアの引き締まった足を観察していた老人は、視線をあげた。
「それなのに、この靴がお嬢さんの良さを殺しとる」
男物の重い革靴を無理やり履き続けて妙な癖ができ始めとる、方向転換なんかで踏み込むときにつまずきやすいんじゃないかい、と、老人はミアの癖をさらりと言い当ててみせた。あっけにとられるミアを見て、老人は目を細めた。
「当たりみたいだの」
老人は満足げに頷くと、店の奥にひっこんでいった。ほどなく戻ってきたその手には、赤みがかった革靴が一足抱えられていた。底は頼りないくらいに薄く、老人の手の上でくしゃっと倒れている。
「イチから作るのは時間がかかるでな、ひとまずはこれでええじゃろ」
お嬢さんの赤髪に合わせてみたぞい、と直接手渡され、受け取らないわけにはいかなくなった。まあいい。履くだけ履いて、気に食わないと押し返せばいいのだ。
渋々、革靴に足を滑らせる。
妙な感覚だった。
今まで、靴が自分に合うかなんて気にする余裕がなかった。石やがれきで足を切らなければ御の字。大きかろうが固かろうが、履けさえすればそれで十分だったのだ。けれど、この靴は違う。柔らかい革が、足の甲から踵までぴたりと添ってくる。指先が中で遊ばない。薄い革越しに、床板の継ぎ目がわかる。足がそのまま地面を掴んでいるようで、気味が悪かった。
老人に促され、ミアはそっと台から降りた。片足に体重を乗せ、踵を浮かせる。そして、つま先で軽く床を叩いた。
軽い。軽すぎて、逆に落ち着かない。
その場で跳ねる。いつもなら靴の中で足がずれて、着地後に踏み直しが必要になるはずだった。けれど、ずれない。膝を曲げ、横へ一歩踏みだしてみても、身体は思った通りの場所に収まっている。踏み込んでも、靴だけが遅れてついてくる感じがしない。
走れる。そう確信した。この靴なら、足が勝手に逃げていかない。思い通りになる。止まれる。
「……こんな薄いの、すぐ破れちまうだろ」
「破れたら直しにくればええがね。ワシは独り身のジジイだ。行きたい場所があるわけでなし、いつ来てもいるさ」
なんでもないことのようにひょいと眉を上げ、いったいいつ淹れたものなのか、机の上に放置されていた湯呑をすすった。
「お代はまけとくよ。あんたんとこの先生には、世話になっとるからの」
老人は、不器用に片目をつぶってみせた。いつも悪いな、とラウルは言い、使い込んだ革のポーチを漁り始めた。一連のやりとりを何も言わず見守っていたレイラは、支払いの段階になるとすっと荷台の方に姿を消し、市場で買ったはちみつ瓶を手に戻ってきた。そして、よかったらこれを、と老人に差し出した。
「おお、こりゃいい、ワシは無類の甘いもの好きなんじゃ。覚えていてくれたとは嬉しいのう」
老人はさっそく瓶を開けると、蜜棒にたっぷりはちみつを絡ませ、飲みかけの冷めた茶に混ぜた。大量のはちみつでどろっとした茶を飲む老人は幸せそうに頬を緩めた。
「せめて淹れなおせよ……」
ミアはあきれて、思わずツッコミをいれた。老人の皺だらけの笑顔を見ていると、頑なに施しを拒否するのがなんだか馬鹿らしく思えてきた。
「ラウルが勝手に支払いも済ませちまったし、この靴はオレがもらってやるよ。はちみつばっか舐めてくたばるんじゃねえぞ、ジジイ!」
ミアはそう言い放つと、くるりと背を向け、店の外へと歩いていった。相変わらず口が悪いな、と苦笑するラウルには、赤い革靴がずっと前からミアの一部であったかのように見えたのだった。
靴屋を後にした一行は、ひたすらに歩き続けた。想定外の買い物が発生したことで、予定が大幅にずれ込んだ。この調子だと、〈アルカの家〉に着くのは夜になるかもしれない。
ちらと横を見ると、山から流れる小川が夕日に照らされてきらきらと光っている。そのそばには、なんという名前なのか知らないが、小指の先ほどの小さな花が群生していた。村の子だろう。小さな子どもらがその花を摘んで、花冠を編んで遊んでいる。近くでは母親たちが、「今年は野菜が不作で困るわね」「うちの人まで取られたら、畑が回らないわ」などと世間話をしている。そのうち、子どもの一人が、できた、とはしゃいだ声をあげ、そこらじゅう茎がぴょんぴょんはみ出た花冠を見せに走った。母親は話をやめて、子どもに目線を合わせると、上手にできたわね、と小さな頭を撫でた。子どもは嬉しそうに頬を上気させた。
貧しい者同士が寄り集まって暮らしているのは同じはずなのに、ミアが根城にしていたあの市場とはずいぶん違う。普通の暮らしというものを垣間見て、なんとなくつまらないなと思った。
母親の一人が、何とはなしにこちらに視線を向け、荷台を引いて歩くラウル一行の姿を認めた。ミアと目が合うと、母親は露骨に顔をゆがめ、今日はもうおうちに帰りましょうね、と子どもの手を引いた。
「また新しいのが増えてるわ、いったい何を企んでいるのかしら」
「村の畑は不作なのに、あの〈化け物の巣〉には青々と葉が生い茂ってるって聞いたわ」
「前にあそこの子がかぼちゃを持ってきたことがあったでしょう?あんなの食べたら呪われるわよ、きっと」
一人が立ち去ると、他の母親たちも同じように続き、ひそひそと話をしながら村の方に帰っていった。すぐに川辺には静寂が戻った。
「なんだよアレ、感じわりー」
ミアはぺっと道に唾を吐きかけた。陰口には慣れていたが、今の母親たちが向けた視線は、ミアが今まで受けてきた軽蔑の視線とは明らかに質が違っていた。
「よくあることよ。できれば友好的にしたいけれど、私たちは能力者ですもの」
「よくあっていいのかよ」
「よくはない。ただ、ああいうのはどうしてもなくならない」
ラウルは振り返りもせず、淡々と答え、それきり黙り込んだ。いつもならミアの方を向いて聞いてもいないことまで話し出すのに、ラウルはここではないどこかを見ているかのように、怖いくらい真剣に一点を見つめていた。
靴屋のジジイは能力がどうとか言わなかったな、とふと思った。




