第10話 ただの人間として
第10話 ただの人間として
朝食は何事もなく過ぎていった。調理者以外に、朝食のメニューが変更されたことを知っているのはミア一人。即席で作られたスクランブルエッグはいたって普通だった。絶品ではないが、まずくもない、ほどよく塩味のきいたよくあるスクランブルエッグ。唯一、ノアの皿にほんの少し混ざる白身だけが、今朝、確かに小さなイレギュラーがあったのだということを示していた。
ミアは一般家庭の朝食風景というものをよく知らない。だが、多分、今朝の朝食風景は、普通だったと思う。
カイトとセシルは、小さな木匙でスクランブルエッグを口に運びながら、今朝の鶏小屋の様子について盛んにしゃべっているし、ラウルは「そうか、それはよかったな」と相槌を打ちながら、大口を開けてパンを食っている。フィーナはまだ眠そうだがきちんと身なりを整えて椅子に座り、レイラからティーポットを受け取って、温かい紅茶を淹れている。オリビアは、そんなフィーナを見て「ジャムいる?」と気を回す。フィーナはジャムの瓶を受け取り、匙一杯分紅茶に混ぜた。 (レベッカは朝寝坊を決め込んでいたが、よくあることらしいので誰も起こさなかった。この医者だけやはり特殊な立ち位置にいる気がする。)
「今朝は大変だったみたいだね、ルーク。声かけてくれたら僕も探せたのに」
「あんまり焦ってたから、頭が回らなくて……よく考えれば、ノア兄ちゃんに頼めばすぐだったのにね」
「あ、でも、あのとき貯蔵庫にパンを取りに行ってたから、僕を探しても行き違ってたかもしれないな。とにかく、カイトが無事でよかったよ」
ノアは、何事もなかったように、パンをちぎって口に運ぶ。ルークもすっかり落ち着きを取り戻した様子で、他愛もない話をして笑っている。ノアとルークの会話がなんとなく気になって、ミアの視線は自然とそちらに向いた。
「あ、ミア姉ちゃん。パン、少し余ってるけどいる?」
「あー……遠慮しとくわ。そんな気分じゃないカモ」
「ミアさんの口から『遠慮』なんて言葉が出るなんて、今日は雨になるんじゃありませんこと?」
「昨日会ったばっかの間柄で知った口効きやがって。オレはケッコー繊細なの」
ミアとフィーナが視線を交わしたその時、突然周囲が薄暗くなった。何ごとかと窓を見ると、分厚い雲に覆われた空からは、ぽつぽつと途切れ途切れに水滴が落ちてくる。そうして数秒もしないうちに、バケツをひっくり返したような大雨になった。
「道理で、髪がうまくまとまらないと思いましたわ……」
「わたしは編んでるから関係ないけど、下ろしてると大変だよねえ。あーあ、雨かあ……今日は、畑のお世話をしようと思ってたのになあ……」
フィーナとオリビアはがっくりと肩を落とした。その様子を見たカイトとセシルも顔を見合わせ、がっくりと肩を落とした。
「あーあ、きょうはご本よんでもらうはずだったのになあ」
「セシルも、おえかきするはずだったのになあ」
「それは両方、部屋でできるやつだな」
わかっているようでよくわかっていない子どもたちにツッコミを入れ、ラウルは子どもたちの口の周りについた食べかすをぬぐった。
「この雨はしばらく続きそうね。今日は家の中で大人しくしていましょう」
何もない空中を眺めていたレイラがそう言うと、なんとなく朝食はお開きの雰囲気になり、食べ終えた者から順々に、食器を重ねて台所へと向かっていった。
暇だ。とてつもなく暇だ。
今朝は、ラウルが皿洗い当番。フィーナ(と、補助役のレイラ)は洗濯当番。それ以外は、本来、畑仕事や家畜小屋の清掃だったそうだが、この雨模様ではなにもできず、ミアはただただ暇を持て余している。カイトとセシルは皿洗いをするラウルの側で、「たまごができたから、つぎはおさらはこびをする!」と張り切っている。ラウルは、「それは頼もしいなあ」と笑いながら、大きな尾を出すと、皿洗いをしながら左右にぶんぶん振り始めた。たちまち子どもたちは目を輝かせ、先ほどのお手伝い宣言はどこへやら、その尾にちょっかいをかけて遊び始めた。
昨日から思っていたが、ラウルの子どもの扱いのうまさは一体どうしたことだろう。命のやり取りが日常の血なまぐさい傭兵が、なぜこうも家庭的なのか。ミアがこれまで市場で見てきた傭兵という人種は、たいてい荒くれもので、子どもが寄ってこようものならぶん殴っているイメージだったのだが。それとも、やつらも市場から一歩外に出ると、ラウルのような犬っころになるのだろうか。いや、実はこの中に、ラウルの実子がいるのではないかという仮説も立ててみたが、こんなに暑苦しい顔面をしている子どもはいないので、早々にその仮説は立ち消えとなった。
オリビアは、部屋においてあった作りかけの刺繍を持ってきて、窓際で黙々と針を刺している。ミアには、なんという植物なのかとんとわからないが、オリビアはとにかく花柄が好きなようだ。ハンカチらしき正方形の布に、数種類の糸を組み合わせて、花と葉とを描いていく。よくもまあ、そんな細かい作業に没頭できるものだ。オリビアは比較的話しやすいが、珍しく集中しているようだし、先ほど「オリビアに手を出したらぶち殺すぞ」というようなことを言われたばかりなので、今日のところは絡みに行くのはやめておくべきだと判断した。
医務室からいびきが聞こえてくるから、レベッカもだめ。となると、残るはルークなのだが、先ほどから机いっぱいに地図のようなものを広げて、ノアと覗き込んでいるので、どうにも声をかけづらい。ノアがいるというだけで気が重いし、第一、ミアは地図なんぞ見たこともない。読めないものを覗き込んだところで時間の無駄なので、ミアはソファに寝転んで、二人の会話を盗聴することにした。
「――それで、ここがヴェルディア王国とノルデン王国の国境、サヴェル川。春になると巨大なサヴェルサケが大群になって帰ってくるって話が有名だね。川が銀色に輝いてこの世のものとは思えないくらい綺麗だって、昔、旅芸人が話してるのを聞いたことがある」
「銀色の川は見たことないけど、ノルデンでは春になると、市場でサヴェルサケが売られてたよ。おれもカイトも、よく食べてた。チーズと一緒に焼くとおいしいんだ。あとは、燻製にして冬の蓄えにしたり」
ノアの声がほんの少し高くなる。
「へえ……僕はヴェルディアから出たことないから見たこともないけど、すごく大事な魚なんだね。ノルデンってずっと寒いんだろ?」
「うん。一年の半分が冬なんだ。特に寒い日の夜は、母ちゃんがホットミルクを作ってくれた。はちみつがはいってて甘いやつ。あとは――」
なるほど。地図を見ながら、世界のことをお勉強しようという試みらしい。いかに無学なミアといえども、このあたりで三大大国と呼ばれる国々――ヴェルディア王国、ノルデン王国、カストリオン帝国――のことくらいは知っていたので、盗み聞きでも何とか話の内容は理解できた。
ただ、どうも、ミアの知っているノルデン王国と、実際のノルデン王国には大きな隔たりがあるようだった。ミアが知るノルデン王国は、鉱山資源と職人の技術に支えられる金持ちの国だった。
ノルデン産宝石といえば、王侯貴族がいくら積んでも手に入れたいと絶賛する最高級品だ。ヴェルディア王家に名を連ねるとある貴婦人が、ノルデンの宝石に魅了されて借金を増やし、とうとうその身ひとつで夜逃げしたという逸話があるくらいである。実際にあの市場でも、ときたま「ノルデン産宝石をたんまり使った首飾りを仕入れたやつがいる」と噂が立つと、普段とは客層ががらりと変わり、商人を装った馬車などが出入りするようになった。そういう偽装馬車からかっさらう品物は高く売れたので、市場の連中はこぞって偽装馬車を襲った。あんな市場に、本当に最高級の首飾りがあったのかは定かではないが、ともあれ「ノルデン産」のブランド力はすさまじいのである。
そんな高価な宝石や、高品質な鉄鉱石が産出され、高い技術を持つ職人を数多く有するノルデンでは、さぞやいい暮らしをしているのだろうと思っていたのだが、庶民には関係のない話のようだ。ルークの話を聞く限り、ヴェルディアよりつつましやかな暮らしをしている印象さえある。つくづくルークは苦労人だな、と改めて思った。
「ヴェルディアは?全部、この辺りみたいに木がいっぱい生えた山なの?」
「いいや。ヴェルディアはすごく広いから、地域によって暮らしが全然違う。山で狩りをして生活する人もいれば、広い野原で麦を育ててる人もいる。南の方は海が広がってるから、魚を取ったり、外国と貿易――珍しいものを売り買いして生活したり。広いからいろんな作物がとれるし、人も多いから文化も発達してるんだよ。僕はフィーナほど、文化については説明できないんだけど……」
ほら、とノアは、ルークに地図を見るように促した。
「ここは大きな川で区切られてて、ここは山脈。こっちは、森が国境になってる」
一か所一か所指さしながら説明していく途中で、ノアはふと手を止めた。
「……これ、何十年前の地図だろう。カストリオン帝国がこんなに小さい……」
「カストリオンって、戦争ばっかりしてる悪い国?」
「まあ、そうだね。この地図にあるガヴリールとかフェルミナって国は戦争に負けて、今はカストリオン帝国の属州になってるはずだ。こんなに古い地図は初めて見たな……最近じゃ、隣のノヴァンも併合されたって」
「属州」とか「併合」とかいう言葉がどういう意味なのか、ルークは知らない。だが、その言葉には不穏な響きがあって、なんとなく怖いことだろうと思った。
「悪い国が近くにあるなら、ここもなくなっちゃう?」
ノアはルークの不安を感じ取ったのだろう。少しでも安心させようと、ノアはいつになく多弁になった。
「……いや、多分そうはならないと思う。さっき少し話したけど、ヴェルディアは険しい山や深い森に守られてるんだ。だから、地理的に攻めづらいし、資源も人口も多いから物量でも圧倒できない。技術大国のノルデンや、商業国家のアルトリアとも同盟を結んでるし……正攻法じゃカストリオンに勝ち目はないんだ。確かにカストリオンから見て魅力的な土地であることは間違いないけど、今すぐ戦争を仕掛けてくることは――」
ルークは、一度に流し込まれた情報量の多さに、頭が茹で上がってしまったようだった。
「……つまり、そんなに心配しないで大丈夫ってこと」
難しいことしゃべってごめんね、とノアは地図を丸めた。
「それに、〈アルカの家〉は国がどうとかは関係ない場所だよ。ヴェルディア人の僕も、ノルデン人のルークも、みんな仲良く暮らしてる。世界がどうでも、僕らは僕らだ。どこの国の人間だとか、能力者がどうとかじゃなくて、僕は僕で、ルークはルークで、ただの人間として生きていけばいい」
そうできたらいいな、って思ってる、とノアは話をまとめ、椅子を引いた。
「部屋でトランプでもしようか。カイトやセシルもしっぽ遊びに飽きるころだろうし」
そう言ってノアとルークは、子どもたちを誘いに台所へと向かっていった。
「……戦争なんて、なければいいのに」
静かになった居間で、ひどく小さなつぶやきが漏れた。声の主は、オリビアであった。さっきまで絶えず手を動かしていたのに、刺繍枠を持ってうつむいている。オリビアは、自分が声を出したということにも気がついていない様子で窓の外に視線を向け、しばらくすると、再び針を刺し始めた。なんとなく、聞いてはならない言葉を聞いた気がして、ミアはソファから動かず、先ほどノアが言っていたことを思い返した。
ノアはいけすかないやつだが、「ただの人間として生きていけばいい」という意見には同意である。
ミアは、自分が何者から生まれたのかを知らない。最初の記憶は、路地裏で腹を空かせている記憶だ。最近は、ヴェルディアにある例の市場を根城にしていたが、あそこだって別に故郷というわけでもないから、この記憶はきっと別のどこかなのだろう。警備隊に追われるたびに狩場を変え、複数の狩場を転々としながら生きてきたので、ミアは自分が何人なのかもよくわからない。自分の能力についても同様だ。ミアは、ただ持って生まれた才能を使って生きているだけで、自分が能力者であるという認識自体希薄だった。ミアはミアという一人の人間でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。だから、ここの連中が、境遇や能力について隠したがる心理がまるで分からない。
ノアもそう思っているのなら、さっさと自分のことを明かしてしまえばいいのだ。自分のことを隠して、他者と距離をとり、それでもありのままの自分で生きたいなど、ちゃんちゃらおかしい。結局のところノアという人物は、理想として「自分は自分である」と語りながらも、そういう生き方ができない臆病者なのだろうと結論付けた。
「オリビアおねえちゃーん!みんなで、トランプやるんだって!セシルといっしょのチームでやろー!」
「はーい!今行くねー!」
オリビアが刺繍枠を持って立ち上がったので、ミアは慌てて寝たふりをした。そして、今まさに起きたのだという風を装って、目をこすった。
「あ、ごめんね、ミアちゃん。起こしちゃった?……ね、今からみんなでトランプやるんだけど、ミアちゃんも一緒にやらない?」
「おー……どうせ暇だしな」
「よかった!じゃあ一緒に行こ!」
先ほどの暗い声が嘘のように、オリビアはいつもの朗らかな笑顔で、ミアの手を取った。多分こいつにも色々あるんだろうな、と思ったが、ミアは素知らぬ顔で居間を後にした。




