第8話 祭司長
国王の私室へ向かうアルヴィンの足取りは、いつもと変わらず静かだった。
しかし、その胸の内では心臓が激しく鼓動を打っている。
もしここで口を滑らせれば。
エルフィーナも、ラインハルトも守れない。
「入れ。」
重い扉の向こうから、国王の声が響く。
アルヴィンは一礼し、部屋へ足を踏み入れた。
「ラインハルトの様子については聞いているな。」
「……はい。」
「お前は一番近くで仕えている。何か気付いたことはあるか。」
一瞬、空気が止まる。
アルヴィンはゆっくりと言葉を選んだ。
「婚約破棄以降、殿下がお悩みになっていることは感じております。しかし、それ以上は私がお話しすべきことではございません。」
「……そうか。」
国王は静かに立ち上がる。
「では質問を変えよう。」
ゆっくりと歩み寄り、アルヴィンの前で足を止めた。
「お前は何かを隠しているな。」
その一言に、背筋を冷たい汗が伝う。
「陛下……。」
「長年お前を見てきた。嘘をついている顔くらい分かる。」
国王の視線は鋭かった。
「ラインハルトを守りたい気持ちは理解している。」
「だが、それが王家を危険に晒すなら、私は父ではなく王として裁かねばならぬ。」
長い沈黙。
やがて国王は静かに背を向けた。
「今日はもうよい。」
「……ですが、覚えておけ。」
「真実は、いずれ必ず明らかになる。」
アルヴィンは深く頭を下げた。
「御意。」
部屋を出た瞬間、張り詰めていた息を静かに吐く。
(時間がない……。)
◇
一方その頃。
ラインハルトは図書館で見つけた伝承が、頭から離れなかった。
婚約破棄の夜。
エルフィーナは涙を流し、庭園の奥へ歩いて行った。
そして、自分はその直後に意識を失った。
さらに慈善院で庭師の老人が話していた。
『あの夜、聖獣像の辺りが光っていた気がするんです。』
あの時は気にも留めなかった。
だが今思えば、あまりにも出来すぎている。
「……聖獣像。」
偶然とは思えない。
図書館で見つけた伝承。
そして破り取られた最後のページ。
答えは、王家の祭祀を司る祭司長だけが知っているのかもしれない。
ラインハルトは王宮の外れにある古い祭殿へ向かった。
◇
「ようこそお越しくださいました、エルフィーナ様。」
祭司長は穏やかに微笑んだ。
「聖獣の伝承について、お尋ねしたい。」
その言葉に、祭司長の表情が僅かに変わる。
「……図書館の本をご覧になりましたね。」
「破り取られたページも知っているのか。」
祭司長は祭壇の奥から古い木箱を取り出した。
中には、一枚の羊皮紙が納められていた。
描かれていたのは、聖獣像の前に立つ男女。
「これは代々、祭司長だけが受け継いできた記録です。」
羊皮紙には古い文字が並ぶ。
『互いの立場を通して、相手の重さを知った時、聖獣の試練は終わる。』
その下には、さらに続きがあった。
『その願いが満ちし時、二人は聖獣の祭壇へ導かれ、最後の裁きを受ける。』
「祭壇……。」
ラインハルトは小さく呟く。
「裁きとは何だ。」
祭司長は静かに首を横へ振った。
「そこまでは、私にも分かりません。」
「ですが、一つだけ伝えられております。」
祭司長の目が真っ直ぐラインハルトを見つめる。
「約二百年前にも、同じ出来事がございました。」
「その二人は戻れたのか。」
「記録は残っておりません。」
静かな沈黙。
祭司長は続ける。
「ですが、最後にこう記されています。」
『心が偽りであれば、聖獣は二人を元へ戻さない。』
ラインハルトは羊皮紙を見つめた。
自分は今、罪悪感だけで動いているのか。
それとも、本当にエルフィーナという一人の人間を理解したいと願っているのか。
答えは、まだ見えなかった。
◇
祭殿を後にしたラインハルトは、夕暮れの回廊を静かに歩いていた。
祭司長から聞かされた言葉が、頭から離れない。
――互いの立場を通して、相手の重さを知った時にのみ、元の姿へ戻る。
その試練は、まだ終わっていない。
自分はエルフィーナの苦しみを知った。
だが、彼女はどうだろう。
王子という立場の重さを、今も一人で背負っている。
会わなければならない。
互いに話さなければ、何も始まらない。
そう思いながら庭園へ足を向けた、その時だった。
茂みの向こうから、小さな声が聞こえた。
「……急いでちょうだい。」
思わず足を止める。
聞き覚えのある声だった。
メリッサだ。
ラインハルトは木陰へ身を寄せ、息を潜めた。
「アルヴィンは、最近ずっとラインハルト様のお側におります。」
侍女が小さく報告する。
「夜遅くまで執務室へ残り、人払いまでしているとか。」
「そう。」
メリッサは静かに頷いた。
「やはり、私の勘は間違っていなかったのね。」
その瞳には、もう以前の穏やかさはない。
「ラインハルト様は変わってしまわれた。」
「まるで……別人。」
侍女は不安そうに周囲を見回した。
「ですが、本当にそのようなことが……。」
「あるわ。」
メリッサは迷いなく言い切る。
「でなければ説明がつかないもの。」
ラインハルトは息を呑む。
ここまで気づいていたのか。
「では、陛下へご報告を?」
侍女の問いに、メリッサは小さく笑った。
「いいえ。」
「まだ早いわ。」
その笑みは、美しく、それでいて冷たかった。
「証拠もないまま話しても、ただの思い込みで終わってしまう。」
「私はそんな失敗はしない。」
扇を閉じる音が静かに響く。
「誰もが否定できない証拠を集めるの。」
「そして――」
一歩、夕日に向かって歩き出す。
「すべてが揃った時。」
「入れ替わっていた事実も。」
「アルヴィンが隠していたことも。」
「エルフィーナがラインハルト様の姿で王宮にいたことも。」
「全部まとめて陛下へお伝えする。」
侍女は小さく息を呑んだ。
「そうすれば……。」
「ええ。」
メリッサは静かに微笑む。
「王家を欺いた罪は、すべてエルフィーナが背負うことになる。」
ラインハルトの拳が震えた。
「そして私は。」
メリッサは夕焼けを見上げる。
「誰よりも早く異変に気づき、王家を救った者として認められる。」
口元に浮かんだ笑みは、どこまでも美しかった。
だからこそ恐ろしい。
「王妃になるのは、この私。」
「最初から、そのためにここまで来たのだから。」
ラインハルトの背筋を冷たいものが走る。
婚約破棄だけでは終わらない。
メリッサは、エルフィーナを完全に失脚させようとしている。
その事実を知った瞬間、ラインハルトは強く拳を握り締めた。
――もう、彼女を一人では戦わせない。
その決意だけが、静かに胸の奥で燃え始めていた。




