第7話 すれ違い
角を曲がる寸前、エルフィーナの足がふいに止まった。
胸がざわめく。
理由は分からない。ただ、壁一枚隔てた向こう側に、どうしても気になる気配を感じた。
「殿下?」
アルヴィンが不思議そうに振り返る。
「……いえ、何でもないわ。」
そう答えながらも、エルフィーナは無意識に壁へ手を伸ばしかけた。
一方その頃、回廊の反対側では。
ラインハルトもまた、同じ場所で足を止めていた。
「エルフィーナ様?」
護衛の声にも反応できない。
胸が締めつけられるような、不思議な感覚。
壁の向こうに、誰かがいる。
いや――。
会いたい人がいる。
だが、互いに一歩遅かった。
二人は気づかぬまま、反対方向へ歩き出していく。
◇
その日の午後。
ラインハルトの姿をしたエルフィーナは、国王に呼び出された。
「ラインハルト。」
低く響く声に、思わず背筋が伸びる。
「近頃、お前の様子がおかしいという報告が増えている。」
国王は机へ一枚の書類を置いた。
「政務での判断。」
「剣筋。」
「メリッサへの態度。」
「以前とは別人のようだ、と。」
胸が冷たくなる。
「能力が上がること自体は喜ばしい。」
国王は静かに続けた。
「だが、人は一夜では変わらぬ。」
鋭い視線が突き刺さる。
「私が知りたいのは一つだけだ。」
「お前は、本当に私の息子か。」
言葉が出ない。
国王は静かに問いを重ねる。
「十四歳の頃、私と二人だけで交わした約束を覚えているか。」
答えられない。
ラインハルトだけの記憶だ。
「……申し訳ございません。」
長い沈黙が流れる。
「今日は下がれ。」
その一言だけだった。
だが、その声には確かな疑念が滲んでいた。
◇
部屋を出ると、アルヴィンが待っていた。
しかし、その直後。
「アルヴィン。」
国王の側近が声を掛ける。
「陛下がお呼びだ。」
エルフィーナの鼓動が跳ねた。
アルヴィンも一瞬だけ表情を曇らせる。
「……承知いたしました。」
国王は、自分だけではなく、アルヴィンも疑い始めている。
エルフィーナは思わず小さく呟いた。
「お願い……。」
アルヴィンは安心させるように微笑む。
「ご安心ください。」
「私は、約束を違えません。」
深く一礼すると、そのまま国王の私室へ向かっていった。
◇
一方その頃。
一人になったラインハルトは、窓辺に立ち、婚約破棄の夜を思い返していた。
あの夜。
エルフィーナが涙を流しながら庭園へ歩いて行く姿を、確かに見送った。
そして――。
意識を失う寸前。
庭園の奥で、一瞬だけ眩い光が弾けた。
「あの光……。」
ただの見間違いだと思っていた。
だが、今なら分かる。
入れ替わったのは、その直後だった。
さらに思い出す。
庭師の老人が、何気なく口にした言葉。
「婚約破棄の夜、古い聖獣像の辺りが光っていた気がするんです。」
あの時は気にも留めなかった。
しかし、自分が体を失った夜と同じ場所。
偶然とは思えない。
「……確かめるしかない。」
ラインハルトは静かに立ち上がる。
向かった先は、王立図書館だった。
ラインハルトは王立図書館の奥深くにいる。
司書に案内され、人が滅多に近寄らない古い書架へ向かう。
「聖獣像について書かれた本はありますか。」
差し出された革表紙の本は、時代を感じさせるほど古かった。
ページをめくる。
そこには、涙を流す聖獣像の挿絵が描かれていた。
『真に価値を認め合い、互いの立場を通して相手の重さを知った時、聖獣の呪いは解かれる。』
ラインハルトは、その一文を何度も読み返した。
互いの立場を知ること。
それが条件。
だが、その下にはさらに小さな文字があった。
『その願いが満ちし時、聖獣は再び祭壇にて裁きを下す。』
「……祭壇?」
さらに読み進めようとした瞬間。
その先のページが、根元から破り取られていることに気づいた。
「肝心なところが……。」
司書が申し訳なさそうに頭を下げた。
「その先は、かなり昔に失われたと伝わっております。」
「他に知る者はいないのですか。」
「もし残っているとすれば……。」
司書は声を潜めた。
「王家の祭祀を司る祭司長様だけかと。」
「祭司長……。」
ラインハルトは小さく呟く。
ようやく見つけた、次の手掛かりだった。
◇
図書館を出た帰り道。
夕日に染まる中庭で、ラインハルトは立ち止まる。
互いの重さを知ること。
その条件は、少しずつ満たされ始めている。
エルフィーナが背負ってきた努力。
笑顔の裏で流した涙。
慈善院で積み重ねた日々。
礼法も、政務も、人との繋がりも。
どれ一つとして、当たり前ではなかった。
「……私は何も知らなかった。」
拳を静かに握る。
「だから今度は、私が戻す。」
その決意は、婚約者としてではない。
一人の人間として、初めて抱いた本当の願いだった。
その頃、王宮では。
国王の私室から出てきたアルヴィンが、小さく息を吐いていた。
何を問われたのか。
何を答えたのか。
その表情から読み取ることはできない。
ただ一つだけ。
王宮を包む疑惑の影は、確実に二人へ近づいていた。




