第5話 疑惑の影
アルヴィンに真実を打ち明けた翌朝。
エルフィーナは、いつもより早く目を覚ました。
胸の奥にあった重石は、ほんの少しだけ軽くなっている。
それでも、安心はできなかった。
――メリッサ様には、お気をつけください。
昨夜のアルヴィンの言葉が、何度も脳裏をよぎる。
◇
執務室へ向かう途中、廊下の角で足が止まった。
「おはようございます、ラインハルト様。」
メリッサだった。
今日も穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その瞳は昨日よりも鋭く、自分を観察していた。
「おはよう。」
「少しだけ、お時間をいただけますか?」
断る理由も見つからず、エルフィーナは頷いた。
二人は庭園へ向かう。
色とりどりの花が咲き誇る中、メリッサは楽しそうに微笑んだ。
「懐かしいですね。この庭園。」
「……そうだな。」
「覚えていらっしゃいます?」
メリッサは足を止める。
「初めてお会いした夜会で、私が着ていたドレスのお色。」
心臓が大きく跳ねた。
知らない。
知るはずがない。
それはラインハルトとメリッサだけの記憶だ。
「……白、だったか。」
メリッサは首を横に振る。
「残念。」
少し笑う。
「藤色でした。」
空気が重くなる。
「では、もう一つ。」
逃がさない。
そんな視線だった。
「私が一番好きなお花は?」
エルフィーナは唇を結ぶ。
「……薔薇。」
「違います。」
メリッサは優しく微笑んだ。
「鈴蘭です。」
その笑顔が、かえって恐ろしかった。
「ラインハルト様は、以前なら間違えませんでした。」
言葉を失う。
その時だった。
「失礼いたします。」
アルヴィンが静かに歩み寄る。
「殿下。本日の政務会議のお時間です。」
絶妙な間だった。
「……そうだったな。」
エルフィーナは小さく息を吐く。
「メリッサ。また改めて。」
「もちろんです。」
そう答えながらも、メリッサの視線は最後まで離れなかった。
立ち去る背中を見送り、小さく呟く。
「……やっぱり。」
その声を聞いた者はいない。
◇
執務室へ戻ると、アルヴィンが扉を閉めた。
「助かりました。」
「いえ。」
アルヴィンは静かに首を振る。
「ですが、もう時間の問題かもしれません。」
エルフィーナは苦笑する。
「やはり、気づかれているのね。」
「メリッサ様は勘の鋭いお方です。」
少し間を置いて続ける。
「これからは、殿下しか知らない記憶を確かめてくるでしょう。」
「どうすれば……。」
「無理に答えようとなさらないでください。」
アルヴィンは穏やかに言った。
「嘘は、いつか必ず綻びます。」
「……ええ。」
エルフィーナは静かに頷いた。
◇
一方その頃。
ラインハルトは王妃教育の講義を受けていた。
「では、エルフィーナ様。」
教師が一冊の本を閉じる。
「西方三国と国交を結んだ年をお答えください。」
ラインハルトは固まった。
分からない。
「……申し訳ありません。」
教師は驚いたように目を瞬かせた。
「珍しいですね。」
「いつものエルフィーナ様でしたら、即答なさる問題ですが。」
胸が痛んだ。
続く礼法でも。
歩幅を指摘される。
お辞儀の角度を直される。
カップの持ち方まで注意された。
どれも、自分は今まで気にも留めなかったことばかりだった。
「今日はお疲れなのでしょう。」
教師は優しく微笑む。
「ですが、エルフィーナ様なら、すぐ元に戻られます。」
その期待が、かえって苦しかった。
◇
講義を終えた帰り道。
慈善院へ立ち寄ると、子どもたちが笑顔で駆け寄ってきた。
「エルフィーナ様!」
幼い少年が袖を掴む。
「今日は絵本、読んでくれる?」
ラインハルトは微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……ごめんなさいね。」
少年は首を傾げる。
「今日は元気ないね。」
隣の少女も心配そうに覗き込む。
「前みたいに笑って。」
その一言に、胸が締めつけられた。
彼女は毎日、この笑顔を守ってきた。
勉強も。
礼法も。
慈善院も。
社交も。
誰にも見えない努力を積み重ねながら、それでも笑い続けていたのだ。
「エルフィーナ……。」
思わず、その名が唇から零れる。
今、彼女は自分の姿で王宮にいる。
きっと、自分より何倍も苦しい思いをしている。
窓ガラスに映るエルフィーナの顔を見つめながら、ラインハルトは拳を強く握り締めた。
「……必ず。」
その声は、自分自身へ向けた誓いだった。
「必ず、お前を元に戻す。」
◇
その夜。
メリッサは自室で、一枚の便箋を静かに折りたたんだ。
「王宮に勤める使用人からの情報で、これを調べてちょうだい。」
侍女が頭を下げる。
「何をでしょうか。」
メリッサは窓の外を見つめたまま、小さく微笑んだ。
「アルヴィンの動きと……」
一度言葉を切る。
「最近のラインハルト様。」
その瞳から、笑みだけが消えていた。
「何かが、おかしいもの。」




