第4話 告白
「――あなたは、本当にラインハルト殿下でいらっしゃいますか」
その一言が、静かな部屋の中に落ちた。
エルフィーナは、しばらく何も言えなかった。誤魔化す言葉はいくらでも浮かぶのに、どれも喉の奥で凍りついてしまう。アルヴィンの瞳は、揺らがなかった。まっすぐに、こちらの答えを待っている。
――もう、隠しきれない。
「……もし」
声が、震えた。
「もし、私が違うと言ったら、お前はどうする」
アルヴィンの喉が、小さく動いた。
「殿下を害するつもりなら、然るべき場所へお連れするしかありません。ですが」
一拍、置いて。
「その相手が、エルフィーナ様であるならば――話は別です」
心臓が、跳ねた。
「……気づいて、いたのか」
「確信は、ございませんでした。ですが」
アルヴィンは、静かに目を伏せた。
「政務会議での治水の話。あの資料は、殿下がご覧になったものではございません。以前、エルフィーナ様が夜遅くまで書庫に残られて、写し取っていらしたものです」
「見て、いたのか」
「……はい」
「毎晩、書庫の灯りだけは消えませんでした」
アルヴィンは静かに目を伏せた。
「皆がお休みになった後も、エルフィーナ様はお一人で資料を書き写し、王国の歴史書を読み、翌日の講義に備えていらっしゃいました」
その声音には、深い後悔が滲んでいた。
「何度も、お声を掛けようと思いました」
「ですが私は殿下の侍従です。婚約者であるエルフィーナ様に軽々しく近づくことは許されませんでした」
拳をそっと握り締める。
「だから、遠くから見守ることしかできなかったのです」
「……せめて、どなたか一人でも、その努力に気づいてくださればと願いながら」
その声には、隠しきれない苦さが滲んでいた。
「私は、殿下の側近としてお仕えする傍ら、時折、エルフィーナ様の書庫でのお姿を見ておりました。誰にも気づかれぬよう、ひっそりと。それが、私にできる、せめてものことでしたので」
エルフィーナは、言葉を失った。五年間、誰も見ていないと思っていた努力を、一人だけ、静かに見守っていた人がいた。
「……本当に、私だと分かって、聞いたのか」
「はい」
アルヴィンは、深く頭を下げた。
「もし違ったら、と、幾度も自分に問いました。それでも、聞かずにはいられませんでした」
沈黙が落ちる。窓の外では、夜風が木々を揺らす音だけが響いていた。
「アルヴィン」
エルフィーナは、ゆっくりと息を吐いた。もう、覚悟を決めるしかなかった。
「聖獣像の光を浴びた夜から、私は――ラインハルト様と、中身が入れ替わってしまったの」
言葉にした瞬間、体の力が抜けるような感覚があった。誰かに、初めて打ち明けられたことへの、安堵だった。
アルヴィンは、驚いた様子も見せず、ただ静かに頷いた。
「……やはり」
「怖くない、の?」
「エルフィーナ様が、エルフィーナ様であることに、変わりはございません」
その言葉を聞いた瞬間だった。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れた。
ぽたり、と一粒の涙が机へ落ちる。
「……私」
慌てて拭おうとしても、次の涙が頬を伝った。
「誰にも……気づいてもらえないと思っていました」
婚約してからの五年間。どれだけ努力しても、褒められることはなかった。だからもう、誰も見ていないのだと思い込んでいた。
「見ていてくださる方が……いたのですね」
アルヴィンは何も言わない。ただ静かに頭を垂れ、その涙を受け止めていた。
「このことは、私だけの胸に留めておきます。ですが」
アルヴィンの声が、わずかに硬くなった。
「メリッサ様には、お気をつけください。あの方は、殿下の――いえ、エルフィーナ様の変化に、誰よりも敏感でいらっしゃいます」
「……ええ」
エルフィーナは、小さく頷いた。今日、応接間で見た、あの探るような瞳を思い出す。
「もう一つ、お伺いしても」
「何」
「元の姿に戻る方法は、何かお分かりですか」
エルフィーナは、首を振った。
「分からない。何も」
言葉にすると、改めて不安が押し寄せてくる。このまま、二度と戻れなかったら。ラインハルトとして生き続けなければならないとしたら。
「できれば、ラインハルト様と会って話しをしたいのだけれど」
エルフィーナは、入れ替わり後から会う事ができていないラインハルトについて尋ねた。
しかしアルヴィンからは、「王命で管理下にに置かれているため、今は簡単にお会いする事ができません。何とか連絡がとる方法がないか探してみます。」と、申し訳なさそうにこたえた。
「……とにかく、今できることをするしかない」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
*
その頃、客館では。
ラインハルトは、手帳を閉じることができずにいた。何度も、何度も同じページを読み返していた。
『いつかラインハルト様の隣に立って恥ずかしくない人になりたい』
その一文の下に、日付があった。婚約が決まった、まさにその翌日だった。
「……馬鹿だ」
思わず漏れた声は、自分自身へ向けたものでもあった。
「どうして、一人で抱え込んだ」
ページを握る指先に力が入る。
「どうして……私に言わなかった」
しばらくして、小さく自嘲するように笑った。
「……いや」
「言えるわけが、なかったのか」
一度も、その努力を知ろうとしなかったのは自分だった。彼女は助けを求めなかったのではない。求めても届かないと、諦めていただけだったのだ。
翌日、ラインハルトはエルフィーナとして、講師との面談に臨むことになっていた。案内された部屋には、初老の女性教師が待っていた。
「エルフィーナ様、本日は外交儀礼の続きから始めましょう」
「……あ、はい」
「あら、いつもと様子が違いますね。復習からいたしましょうか」
ラインハルトは、差し出された教本の分厚さに、思わず息を呑んだ。
「では、復習をいたしましょう」
教師は穏やかに問いかける。
「第二王国第一王女のお名前をお答えください」
ラインハルトは教本へ視線を落としたまま固まった。
「……申し訳ありません」
答えが出てこない。
教師は驚いたように目を瞬かせた。
「エルフィーナ様が、お忘れになるとは珍しいことですね」
胸が痛む。彼女は、この膨大な知識をすべて覚え、努力で身につけてきたのだ。今の自分には、その足元にも及ばなかった。
これを、彼女は五年間、こなし続けてきたのか。
ページをめくる手が、震えた。自分がどれほど多くのものを、当たり前のように享受していたのか――その重さが、今になって、ようやく肩にのしかかってきていた。




