第3話 新しい婚約者
政務会議を終えたエルフィーナは、静かに息を吐いた。
朝とは違う空気が、廊下を歩く重臣たちの間に流れている。
「さすがは殿下」
「まさか治水計画の欠陥まで見抜かれるとは……」
聞こえてくる囁きに、胸が痛んだ。
――その知識は、本当は私が何年も積み重ねてきたもの。
けれど、今はラインハルトという姿だからこそ、誰もが耳を傾ける。
嬉しいはずなのに、素直には喜べなかった。
新たな婚約者となったメリッサは、王妃教育の日程や今後の公務について打ち合わせるため、オルグレン公爵家から王宮へ招かれていた。
「殿下、お客様がお待ちです」
アルヴィンに案内され応接室へ向かう。
扉を開けた瞬間、柔らかな香水の香りが漂った。
「ラインハルト様!」
メリッサだった。
花が咲くような笑顔で駆け寄ってくる。
「今日もお会いできて嬉しいです」
そのまま自然な仕草で腕へ手を伸ばした。
エルフィーナは反射的に一歩退く。
メリッサの指先が空を掴んだ。
「……え?」
部屋の空気が止まる。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」
メリッサは笑顔を崩さない。
けれど、その瞳だけがじっとこちらを見つめていた。
「い、いや……」
咄嗟に言葉が出ない。
婚約者だった頃、ラインハルトが自分にこんな風に触れたことは一度もなかった。
だから身体が勝手に避けてしまったのだ。
「ラインハルト様?」
不思議そうな声。
その時だった。
「……殿下?」
後ろに控えていたアルヴィンが、小さく呟いた。
その声には、確かな違和感が滲んでいた。
エルフィーナは慌てて表情を整える。
「少し考え事をしていた。失礼した。」
メリッサは小さく頷いたものの、その視線はなおも探るようだった。
「今日はいつもとご様子が違うようですが何かりましたか。」
「そうだろうか。」
「ええ。なんというか……どこか別人のようです。」
胸が小さく痛む。
これ以上ここにいては、きっと何かを見抜かれてしまう。
「今日は公務が残っている。また改めて時間を作ろう。」
「……はい。」
メリッサは笑顔で頭を下げた。
しかし部屋を出る直前、一度だけアルヴィンと視線が交わる。
二人とも何も言わなかった。
それでも互いに、同じ違和感を抱いていることだけは伝わっていた。
◇
一方その頃。
ラインハルトは、この日もエルフィーナとして慈善院へ向かっていた。
庭では子どもたちが元気に駆け回っている。
「エルフィーナ様!」
数人の子どもが一斉に駆け寄ってきた。
ラインハルトは困ったように笑う。
「元気そうだな……ええと、リーナ。」
少女がきょとんと目を丸くした。
「私、リーナじゃないよ?」
「……え?」
「ミアだよ!」
周りの子どもたちも顔を見合わせる。
「エルフィーナ様、人の名前を間違えたことないのに。」
「今日は変だね。」
その何気ない一言が、胸に深く突き刺さった。
侍女が優しく言う。
「エルフィーナ様は皆さんのお名前だけでなく、お誕生日や好きなお菓子まで覚えていらっしゃるんですよ。」
「全部……?」
「はい。一人も間違えたことはございません。」
ラインハルトは言葉を失う。
自分は王子として、彼女が慈善院へ通っていることすら深く知らなかった。
なのに彼女は、何十人もの子どもたち一人ひとりを大切にしていた。
「ごめん……ミア。」
そう言って頭を撫でると、少女は嬉しそうに笑った。
「今日は疲れてるんだね。」
その無邪気な笑顔が、余計に胸を締めつけた。
◇
夕暮れ。
屋敷へ戻ったラインハルトは、机の引き出しから一冊の手帳を見つけた。
ページを開く。
『ミア いちごの焼き菓子が好き』
『リオン 最近、咳が続いているので薬草茶を持って行く』
『今月は北部の視察。帰りに慈善院へ寄る』
一人ひとりの名前が、細かな字でびっしりと書かれていた。
最後のページには、少し滲んだ文字。
『もっと頑張ろう。いつかラインハルト様の隣に立って恥ずかしくない人になりたい。』
ラインハルトは、その一文から目を離せなかった。
「私は……何を見ていたんだ。」
初めて、自分の胸に後悔という痛みが芽生えた。
◇
夜。
執務室で書類を閉じたエルフィーナのもとへ、アルヴィンが静かに現れた。
「失礼いたします。」
「どうした。」
アルヴィンは部屋を見回し、誰もいないことを確かめる。
そして静かに扉を閉めた。
「殿下に、一つだけお聞きしたいことがございます。」
エルフィーナの鼓動が速くなる。
アルヴィンは真っ直ぐその瞳を見つめた。
「本日の政務、そしてメリッサ様へのご対応……。」
一歩、距離を詰める。
「以前の殿下なら、決してなさらないことでした。」
静寂が落ちる。
やがてアルヴィンは深く頭を下げ、小さく口を開いた。
「どうか、お答えください。」
その声は震えていた。
「――あなたは、本当にラインハルト殿下でいらっしゃいますか。」
エルフィーナの喉が小さく鳴った。
――もう、ごまかせない。




