第2話 王子の朝
黄金の髪。
澄んだ蒼い瞳。
いつも遠くから見つめていた婚約者の顔が、困惑に揺れている。
昨夜の記憶が一気に押し寄せた。
婚約破棄。
メリッサの笑み。
聖獣の石像。
そして、眩い光。
「本当に……入れ替わったの……?」
夢ではない。
頬をつねると鋭い痛みが走る。
現実だった。
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「殿下、お目覚めでしょうか」
アルヴィンの声。
エルフィーナは思わず背筋を伸ばした。
「あ……ああ、入ってくれ」
返事をした瞬間、また胸がざわつく。
この声は、やはり自分ではない。
扉が静かに開いた。
「おはようございます、殿下」
侍従アルヴィンは一礼した。
その姿を見た瞬間、エルフィーナは反射的に言ってしまう。
「顔を上げてください」
アルヴィンがゆっくりと顔を上げた。
その目が、一瞬だけ細められる。
「……殿下?」
「え?」
「いえ」
彼は何かを考えるように首を傾げた。
「本日のご予定でございます。三十分後より政務会議、その後は北部領主との会談、午後は騎士団視察となっております」
「政務……会議」
「はい」
ラインハルトは、毎朝こんなにも多くの公務をこなしていたのだろうか。
そう思った瞬間、自分がいつも作っていた資料が頭に浮かぶ。
王妃教育の一環として、夜遅くまで読み込んできた報告書。
婚約者になってから五年間、一度も無駄だと思ったことはなかった。
「承知した」
自然と口が動いていた。
◇
会議室には重臣たちが揃っていた。
ラインハルトが席に着くと、誰もが軽く頭を下げる。
「では北部の治水について――」
老大臣が地図を広げる。
「今年も例年通り進める予定ですが……」
その瞬間だった。
「お待ちください」
思わず声が出た。
会議室が静まり返る。
「殿下?」
「昨年提出された報告書では、上流の堤防に亀裂が確認されています。このままでは春の雪解けで決壊する恐れがあります」
老大臣が目を見開いた。
「な、なぜそれを……」
「補強工事を先に進めるべきです。費用は西部の予算を一部回せば賄えます」
誰も言葉を発しない。
静寂が広がる。
やがて一人の大臣が小さく呟いた。
「殿下が……資料をご覧になっていた?」
アルヴィンだけが、何も言わずエルフィーナを見つめていた。
その視線は驚きよりも、確信に近かった。
◇
同じ頃。
王城から少し離れた場所にある、王家管理の客館。
婚約者として王家へ迎えられて以来、エルフィーナが王妃教育や公務のために滞在していた館だった。
婚約は破棄された。
だが、王はすぐに結論を下さなかった。
「不正の真偽が判明するまで、エルフィーナ・ヴェルシュタインは王宮の客館で王家の管理下に置くこととする」
「これまで受けていた教育、講義、剣術の稽古については従来どおり継続せよ」
「これは王命である」
婚約者ではなくなっても、真実が明らかになるまでは、まだ裁きは下されていない。
エルフィーナは王宮の管理下で、客人として日々を送ることになった。
客館の一室で、ラインハルトはゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井。
いや、正確には見覚えがある。
何度かエルフィーナを迎えに訪れたことのある客館の一室だった。
体が妙に軽い。
白く細い手を見下ろした瞬間、昨夜の出来事が一気によみがえる。
「……まさか。」
鏡台へ駆け寄る。
映っていたのは、自分ではなく、エルフィーナの姿だった。
ラインハルトは見知らぬ寝室で目を覚ましていた。
「……何だ、これは」
細い腕。
長い髪。
鏡にはエルフィーナが映っている。
昨夜の出来事を思い出し、思わず息を呑んだ。
そこへ侍女が部屋へ入ってくる。
「おはようございます、エルフィーナ様。本日も客館から稽古へお向かいになるお時間です。」
「稽古?」
「はい。本日は剣術からでございます」
ラインハルトは首を傾げた。
「毎日やっているのか?」
侍女は不思議そうに微笑む。
「もちろんでございます。エルフィーナ様は婚約者に選ばれた日から、一日も休まれたことはございません」
「……一日も?」
「はい。その後は礼法、外交学、慈善院への訪問、王妃教育、夜会の準備がございます」
ラインハルトは言葉を失った。
そんな話は聞いたことがない。
いや、聞こうとしたことすらなかった。
「剣術場のご用意が整っております」
木剣を握る。
軽いはずなのに、思うように腕が上がらない。
「違う……」
一振り。
二振り。
三振り。
腕が震えた。
――カラン。
木剣が乾いた音を立てて地面へ落ちる。
指南役が思わず息を呑む。
「エルフィーナ様が……剣を落とされた……?」
ラインハルトは木剣を見つめたまま動けなかった。
この細い手で。
血豆を潰しながら。
毎朝、この剣を振っていたのか。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
自分は昨日まで、その努力を「当然」の一言で片づけていた。
初めて、自分が何も知らなかったのだと気づく。
そして同じ頃。
政務を終えたエルフィーナは、アルヴィンの視線が自分から一度も離れていないことに気づいていた。
まるで――
何かに気づき始めているかのように。




