第10話 礼拝堂の夜
翌日の夜。
エルフィーナは、アルヴィンに導かれ、東庭園の奥へと足を進めていた。
石畳を踏む音だけが、静かな夜に響く。
蔦に覆われた古い礼拝堂は、月明かりを浴びてひっそりと佇んでいた。
「この中で、ラインハルト様がお待ちです。」
アルヴィンは静かに扉へ手を掛ける。
「私は外で見張ります。もし誰かが近づけば、すぐ合図をいたします。」
「……ありがとう、アルヴィン。」
エルフィーナは小さく頷き、礼拝堂の中へ入った。
扉が静かに閉まる。
薄暗い堂内には、色褪せたステンドグラスから月光が差し込み、古びた長椅子を淡く照らしていた。
その中央に、一人の女性が立っている。
──自分自身の姿。
「……エルフィーナ。」
自分の声。
だが、その響きは間違いなくラインハルトだった。
「ラインハルト様……。」
婚約破棄の夜以来、初めて向かい合う。
たった数歩の距離が、果てしなく遠く感じられた。
ラインハルトは静かに歩み寄る。
そして深く頭を下げた。
「……すまなかった。」
その一言だけで、十分だった。
「お前がどれほど努力してきたのか、俺は何一つ見ようとしなかった。」
「お前の隣に立つ資格を奪ったのも俺だ。」
「本当に、すまない。」
エルフィーナの目に涙が滲む。
五年間。
ずっと欲しかった言葉だった。
「私……。」
声が震える。
「ただ、一度だけでも認めてほしかったんです。」
「王妃になりたいわけでも、褒められたいわけでもなくて……。」
「あなたの隣に立っても恥ずかしくない人になりたかった。」
ラインハルトはゆっくりと頷く。
「今なら分かる。」
「慈善院で子どもたちと接して。」
「お前の手帳を読んで。」
「王妃教育の重さも。」
「礼儀作法も。」
「全部、お前一人が積み重ねてきたものだった。」
静かな礼拝堂に沈黙が流れる。
ラインハルトは続けた。
「祭司長にも会った。」
エルフィーナは顔を上げる。
「祭司長に……?」
「ああ。」
「聖獣像について調べた。」
ラインハルトは図書館で見つけた古い文献と、祭司長から聞いた伝承を話した。
『互いの立場を通して相手の重さを知った時、聖獣は再び二人を祭壇へ導く。』
その言葉に、エルフィーナは息を呑む。
「……では、戻る方法は。」
「ある。」
ラインハルトは力強く頷いた。
「だが、その時がいつ訪れるのかは分からない。」
「それでも……。」
エルフィーナは小さく微笑んだ。
「希望はあるんですね。」
「ああ。」
ラインハルトも静かに頷く。
「きっと戻れる。」
その言葉に、エルフィーナの肩から少しだけ力が抜けた。
入れ替わって以来、初めて未来を信じられる気がした。
しかし、その表情はすぐに曇る。
「でも、メリッサ様は……。」
「ああ。」
ラインハルトの表情も引き締まる。
「証拠を集めている。」
「俺が庭園で聞いた。」
「入れ替わりを暴き、お前へすべての罪を着せるつもりだ。」
エルフィーナは静かに目を伏せた。
「やっぱり……。」
「時間は残されていない。」
ラインハルトは一歩近づく。
「だから、もう一人で抱え込むな。」
「今度は俺も一緒に戦う。」
そう言って、そっと手を差し出した。
エルフィーナも静かにその手を重ねる。
触れ合った瞬間、不思議な感覚が二人を包んだ。
自分の手なのに、自分ではない。
奇妙で、けれどどこか温かかった。
「変な感じですね。」
エルフィーナが思わず笑う。
「ああ。」
ラインハルトも苦笑した。
「俺の手を、お前が握っている。」
「お前の手を、俺が握っている。」
二人は小さく笑い合う。
その時だった。
――コツ。
礼拝堂の外で、小さな足音が響いた。
ラインハルトとエルフィーナは同時に顔を上げる。
「誰だ!」
ラインハルトが扉へ駆け寄ろうとした、その瞬間。
勢いよく扉が開いた。
「お下がりください!」
飛び込んできたのはアルヴィンだった。
彼は二人を庇うように前へ立ち、礼拝堂の外へ鋭い視線を向ける。
「そこです!」
暗闇の中を、小さな影が駆け抜けた。
アルヴィンは迷うことなく後を追う。
月明かりの庭園を駆け、回廊の角でその影へ追いついた。
「待ちなさい。」
低い声が夜気を裂く。
影はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
「……まあ、アルヴィン様。」
そこに立っていたのは、メリッサ付きの侍女だった。
驚いたように目を見開いているが、その表情はどこか芝居がかっている。
「こんな夜更けに、何をしている。」
侍女は困ったように頭を下げた。
「申し訳ございません。メリッサ様のお使いで庭園を歩いておりましたら、道に迷ってしまいまして……。」
アルヴィンは黙って侍女を見つめる。
視線は鋭い。
だが、侍女は動じることなく続けた。
「古い礼拝堂に灯りが見えましたので、人がいらっしゃるのかと思い……。」
「それ以上、中へ入ったのですか。」
「いいえ。」
侍女は首を横に振る。
「近づく前にアルヴィン様のお声が聞こえましたので、驚いてしまいました。」
あまりにも自然な返答だった。
証拠はない。
この場で拘束する理由もない。
アルヴィンは静かに息を吐く。
「夜の庭園は危険です。」
「お送りします。」
「ありがとうございます。」
侍女は丁寧に一礼した。
その顔には怯えた様子しか見えない。
しかし。
アルヴィンが背を向けた、その一瞬。
侍女の口元だけが、わずかに笑った。
◇
館へ戻る途中。
侍女は袖の内側へそっと手を入れる。
そこには、小さな革張りの手帳が隠されていた。
追いつかれる寸前、咄嗟に袖へ滑り込ませたものだ。
開かれたページには、走り書きで記されている。
――『ラインハルト様とエルフィーナ様が礼拝堂で密会。』
――『互いに謝罪。』
――『祭司長』『聖獣』『祭壇』という言葉を確認。
最後の一文だけは、急いで書いたせいで文字が乱れていた。
侍女は手帳を閉じ、小さく呟く。
「メリッサ様がお待ちです。」
「今夜のことを、一刻も早くお伝えしなくては。」
夜風が吹き抜ける。
礼拝堂では再び静寂が戻っていた。
だが、二人がようやく交わした希望の言葉は、少しずつ別の誰かの思惑によって、王宮全体を揺るがす新たな火種へと変わり始めていた。




