第4話 昼のサイレン
昼を過ぎると、スーパウロの空気は少し変わる。
市場に酒の匂いが混ざる。
声が大きくなる。
怒鳴り声と笑い声の区別が、少し曖昧になる。
屋台の主人たちは、それを気にしない。
慣れているからだった。
魚を並べる。
肉を焼く。
値段を叫ぶ。
子どもは走り回り、
犬は日陰で眠っている。
遠くでサイレンが鳴った。
誰も振り向かない。
市場の端では、アキヤマが将棋盤を広げていた。
子どもたちが盤を囲む。
「そこ取れる!」
「うわ待て待て!」
歯の欠けた少年が飛車を前へ出す。
アキヤマは盤を見る。
「角道が空いてる。」
「大丈夫だって!」
数手後、角は消えた。
周囲が笑う。
少年は机を叩いた。
「なんで分かるんだよ!」
アキヤマは静かに駒を戻す。
「形が崩れてた。」
市場の女が、その様子を見て笑った。
「先生、今日も人気だな。」
アキヤマは少し頭を下げる。
その時だった。
路地の奥で、乾いた音が鳴る。
パン、と。
風船にも似ていた。
市場の空気が止まる。
次の瞬間、誰かが叫んだ。
「伏せろ!」
銃声だった。
人が崩れるように走る。
屋台が倒れる。
果物が転がる。
怒鳴り声。
悲鳴。
犬が吠える。
二人組の男が、バイクで市場へ突っ込んできた。
後ろの男が拳銃を持っている。
発砲。
窓ガラスが砕ける。
誰かが転んだ。
誰を狙ったのかも分からない。
市場は一瞬で形を失った。
アキヤマは子どもたちを見る。
「下がれ!」
だが声より先に、別の男が走ってきた。
顔に血がついている。
必死だった。
追われていた。
後ろから赤い帽子の若者たちが怒鳴りながら追ってくる。
瓶が飛ぶ。
壁に当たって砕けた。
逃げていた男が、将棋盤の横で転ぶ。
子どもが悲鳴を上げる。
若者の一人が、近くの椅子を蹴った。
盤が倒れる。
駒が散った。
アキヤマは動こうとした。
駒を拾う子ども。
走る男。
拳銃。
路地。
逃げ道。
視線がぶつかる。
だが多すぎた。
誰が次に動くのか読めない。
全員が勝手に動いていた。
また銃声が鳴る。
市場の女が子どもを抱えて伏せる。
屋台の主人が怒鳴る。
犬が逃げる。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
アキヤマは立ち尽くす。
読めなかった。
順番がない。
理由より先に、崩壊が広がっていく。
歯の欠けた少年が、
震えながら泥の中の駒を拾っていた。
「……先生。」
声が掠れている。
アキヤマは答えなかった。
遠くでサイレンが鳴る。
だが誰も安心した顔をしない。
遅いからだった。
市場の煙が、ゆっくり空へ伸びていく。
その横で、将棋の歩が一枚、
泥水の中へ沈んでいた。




