第3話 乾いた街
春。辞表を出した。
アキヤマはスーパウロへ飛んだ。
空港の外へ出た瞬間、乾いた風が頬を撫でた。
土の匂い。
果物。
焼けた油。
排気ガス。
遠くで怒鳴り声が聞こえる。
陽射しだけが妙に強かった。
路地では、裸足の子どもがビー玉を転がしていた。
負けた子どもが地面を叩く。
勝った子どもは腹を抱えて笑う。
そのくせ、次の瞬間にはまた同じ相手と遊んでいた。
アキヤマは少し立ち止まる。
雑だった。
人も。
音も。
距離も。
なのに、街は回っていた。
タクシーの運転手は、片言の言葉で値段を二倍吹っかけてきた。
アキヤマは静かに首を振る。
数字を書かせる。
相場を聞く。
言い直させる。
運転手は舌打ちして笑った。
「旅行者じゃないな。」
アキヤマは答えなかった。
町外れに、小さな家を借りた。
白い壁は汚れていた。
扇風機は回るたびに軋む。
蛇口の水は少し濁っている。
それでも、鍵は新しかった。
アキヤマはそこを選んだ。
安すぎる場所は危険だった。
中心街は騒がしい。
水が出ない区域もある。
三日歩けば、だいたい分かる。
スーパーに近い。
夜は静か。
裏路地が少ない。
逃げ道がある。
条件を並べると、この家が残った。
教師時代の貯金は十分あった。
日本の口座から、毎月決まった額を送金する。
養育費の日付は一度も遅らせていない。
通帳の数字を見る。
減っている。
だが、問題はなかった。
冷蔵庫に水を入れる。
机を窓際へ寄せる。
世界地図を壁へ貼る。
生活は、それだけで整った。
夜になると、遠くでサイレンが鳴った。
二回。
少し間を置いて、また一回。
アキヤマは窓から外を見る。
誰も気にしていなかった。
数日後には、簡単な会話なら困らなくなっていた。
市場。
数字。
時間。
危険。
止まれ。
右。
左。
単語を繋ぐ。
主語が先に来る。
否定は後ろにつく。
怒鳴り声でも、文法は崩れない。
規則はある。
市場の男が笑う。
「覚えるの早いな。」
アキヤマは首を振る。
「読む場所が違うだけです。」
男は意味が分からず笑った。
昼を過ぎると、街の空気が変わる。
酒が入る。
声が大きくなる。
喧嘩が増える。
逆に朝は静かだった。
魚屋の前は昼に混む。
青い屋根の店には子どもが集まる。
夕方以降、裏路地は危ない。
赤い帽子の男がいる日は揉め事が起きる。
街にも癖があった。
読むほど、崩れる場所が見えてくる。
市場の端で、アキヤマは立ち止まる。
軒先の日陰。
人通り。
逃げ道。
周囲の視線。
少し考え、
鞄から折り畳みの将棋盤を取り出した。
盤を開く。
木の匂いが、小さく広がる。
王将。
金。
銀。
歩。
最初に近づいてきたのは、歯の欠けた少年だった。
「チェス?」
アキヤマは首を振る。
「少し違う。」
少年は歩を摘まむ。
「弱そう。」
「その代わり、一歩ずつ進む。」
少年は笑った。
その後ろから、別の子どもが覗き込む。
桂馬を見て、目を丸くした。
「なんで飛ぶ?」
アキヤマは駒を持つ。
「飛んでるんじゃない。」
少しだけ考える。
「先を読んでる。」
子どもたちは顔を見合わせた。
市場の喧騒の中で、
小さな盤だけが静かだった。
その静けさに最初に気づいたのは、
アキヤマではなく、子どもたちだった。




