第2話 盤の外
離婚は、静かだった。
怒鳴り声もなかった。
食卓に置かれた封筒。役所の書類。短い手紙。
『あなたの相手は、いつも言葉と盤でした。』
それだけだった。
四脚の椅子はそのまま残っている。なのに、食器だけが二つ減っていた。
アキヤマはしばらく座っていた。
意味は理解できた。
だが、“どこで間違えたのか”だけが分からなかった。
春になっても、家の中は静かなままだった。
ユウコの靴は消え、洗面所のコップも二つ減った。
なのに、生活だけは普通に続いていく。
アキヤマは学校へ行き、授業をし、将棋部を見る。
帰宅する。
電気をつける。
静かだ。
冷蔵庫の駆動音だけが、小さく鳴っている。
机の上には、ユウコが使っていた色鉛筆が一本だけ残っていた。
赤だった。
アキヤマはそれを見つめる。
ユウコは赤が好きだったか。
少し考える。
分からなかった。
その事実に、小さく息を吐く。
夜。
盤を並べる。
王将。
金。
銀。
歩。
駒を置く音だけが部屋に響く。
落ち着く。
盤の中は静かだった。
読めるからだ。
何が危険で、どこが崩れて、どこを守ればいいか分かる。
盤は裏切らない。
だが、人は違う。
妻がいつ諦めたのか分からない。
ユウコがいつ寂しくなったのか分からない。
それが、アキヤマには少し怖かった。
最初は、自分なりに理由もあった。
発表会は来年もある。
だが、将棋教室には今日しか来られない子供もいる。
本気でそう思っていた。
読むことを教えれば、人生で負けにくくなる。
考える力を持てば、簡単には壊れなくなる。
それは教師として正しいことだと思っていた。
だから、間違っていたと言い切れなかった。
休日。
アキヤマは、普段通らない路地を歩いていた。特に理由はなかった。家へ帰りたくなかっただけかもしれない。
細い道の奥に、小さな喫茶店があった。古びた木の看板。曇ったガラス。店内から、乾いた駒音が聞こえる。
アキヤマは少し迷ってから扉を開けた。
煙草とコーヒーの匂い。奥では年配の客たちが将棋を指していた。パチ、という軽い音。次に沈黙。盤を囲む空気だけは、妙に静かだった。
アキヤマはカウンター席へ座る。
「兄ちゃん、やるか?」
常連らしい老人が笑う。
アキヤマは軽く頭を下げ、盤の前へ座った。
初手から早かった。
角交換。
老人は嬉しそうに飛車を振る。
アキヤマは少しだけ盤を見て、銀を上がった。
「受けるの早いな。」
「崩れる形が見えたので。」
老人が笑う。
「嫌な読み方するなあ。」
数分後には終わっていた。
老人は盤を見ながら煙草に火をつける。
「兄ちゃん、教師か何かか?」
アキヤマは少し驚く。
「……なぜ分かったんですか。」
「駒並べる時、説明する置き方する。」
老人は笑った。
「あと、人を見る目が怖い。」
アキヤマは少し考える。
怖い、と言われたことは初めてだった。
「昔、南米帰りの客がおってな。」
老人が壁を指さす。
古い写真が貼ってある。
土埃の舞う路地。
裸足の子供たち。
傾いた屋台。
誰かが笑い、誰かが怒鳴っている瞬間を、そのまま切り取ったみたいな写真だった。
端に、小さく文字がある。
『SUPAURO』
「自由な街らしい。」
老人は煙を吐いた。
「貧乏で、うるさくて、喧嘩も多い。でも人間が生きてる顔してるって、その客は言ってた。」
アキヤマは写真を見る。
子供が一人、カメラを睨んでいた。
痩せている。
だが、目だけが強い。
「将棋は?」
「さあな。そんな文化ないんじゃねえか。」
老人は笑った。
「でも兄ちゃんみたいなのは、案外ああいう街向いてるかもな。」
「なぜです。」
「崩れる前に動く顔してる。」
アキヤマは黙った。
帰り道。駅のホームで、アキヤマは人の流れを見ていた。
疲れたサラリーマン。泣きそうな子供。苛立った駅員。酔っ払い。
配置みたいに見える。
誰がぶつかるか。
誰が怒鳴るか。
どこで空気が崩れるか。
なんとなく分かる。
将棋と同じだった。
一人を下げれば、全体は静かになる。
順番を変えれば、揉め事は減る。
受けを間違えなければ、崩れない。
アキヤマはふと思う。
人間も、盤と同じなら。
もっと正しく並べられるのではないか。
夜。
家へ戻る。
誰もいない部屋。
四脚の椅子。
机の上には、世界地図が開かれている。
スーパウロ。
小さな文字。
遠い街。
アキヤマは、その名前を静かに見つめていた。




