第1話 チョークの音
『盤上の街スーパウロ』に登場する、
アキヤマという男の外伝です。
これは、まだ“マルア”が生まれる前の話。
黒板を叩く音だけが、教室に乾いて響いた。
「――ここ。“月”は何を比喩している?」
窓際の男子が顔を上げる。春の終わり。午後の気だるい熱気。カーテンがわずかに揺れ、グラウンドから野球部の声が遠く聞こえる。
高校二年、現代文。
アキヤマは教壇に立ちながら、生徒たちの視線を見ていた。誰が理解しているか。誰が分かったふりをしているか。誰が言葉を飲み込み、誰が今にも口を開きそうか。盤を見るのと同じだった。
「……“孤独”ですか?」
女子生徒が小さく答える。
アキヤマは少しだけ目を細めた。
「悪くない。だが、“孤独そのもの”じゃない。」
チョークを置く。白い粉が指に残る。
「月は、届かないものの比喩だ。
見えているのに、触れられない。」
教室が静かになる。
数秒遅れて、ノートをめくる音が広がった。
「じゃあ今日はここまで。
来週、小テスト返すからな」
チャイムが鳴る。椅子の音。笑い声。鞄のファスナー。
アキヤマは教科書を閉じ、そのまま教室を出る。
廊下を曲がりかけた時、後ろから声が聞こえた。
「お前また丸アついてんじゃん」
「そこ気に入られすぎだろ」
「いいなー、俺一回もないわ」
机を囲み、生徒たちが答案を見せ合っている。赤ペンの講評。その横に、小さな丸で囲まれた“ア”。良い表現を書いた時だけ、アキヤマが無意識につけている印だった。
「これ何なんだろうな」
「アキヤマの“ア”じゃね?」
「丸アって呼ぼうぜ」
どっと笑いが起きる。
アキヤマは振り返らない。ただ、一枚の答案だけを覚えていた。
比喩を重ねすぎている。論理も甘い。だが最後の一行だけ、妙に切実だった。
――『人は、届かないものほど綺麗に見える』
窓際の男子。三列目、後ろから二番目。筆圧が途中から乱れていた。書き直した跡が三箇所。提出は締切一分前。
おそらく昨夜、眠れていない。
そこまでは読めた。
だが、なぜそんな文章を書いたのかは分からなかった。
放課後。
将棋部の部室には、駒音が響いていた。
パチ、という軽い音。次に、長い沈黙。
「……違う。」
アキヤマは盤を見たまま言う。
「そこは攻めじゃない。」
向かいの男子生徒が固まる。
「でも、ここで飛車切れば……」
「負け筋が残る。」
静かな声だった。
「勝ち方を読む前に、負け方を消せ。」
アキヤマは銀を打った。
生徒の王が逃げ場を失う。
「あ……」
崩れた。
その瞬間だけ、アキヤマの目は少し冷たかった。勝つ形が盤に揃う時だけ、感情が薄くなる。相手が崩れる順番まで、綺麗に見えてしまうから。
「先生、それ最初から読んでたんですか」
一年生が聞く。
「読めるだろ。」
アキヤマは当然みたいに答えた。
部室が少し静かになる。
質問した生徒が、困ったように笑った。
アキヤマはその理由が分からなかった。
古い扇風機が回っていた。夕陽が畳を赤く染める。
帰宅した頃には、日付が変わりかけていた。
リビングの電気だけが点いている。
「……ただいま」
返事はない。
電子レンジの横に、色画用紙が置かれていた。
『ユウコの はっぴょうかい』
クレヨンの文字。
描かれた家族の絵には、母、娘、犬。父親だけ、後から描き足したみたいに小さかった。
アキヤマはしばらくそれを見ていた。
冷蔵庫のモーター音だけが、小さく響く。
風呂場から、妻の声がした。
「今日も遅かったのね。」
責める口調ではない。
アキヤマは少し考える。
責めてはいない。声量も一定。語尾も強くない。
なら、問題はないはずだった。
「研究会が長引いた。」
「……そう。」
短い返事。
娘はもう寝ていた。
味噌汁は冷めている。
箸を持つ。その時、不意に気づく。
今日、ユウコと一言も話していない。
昨日も。
その前も。
日曜。
商店街の古い会館では、子どもたちが盤を囲んでいた。
「先生これ詰み?」
「待て。三手先まで読め。」
笑い声。駒音。小さな歓声。
アキヤマは、その光景を見ると少しだけ安心した。
ここでは、自分は必要とされている。
読むことを教えられる。
考えることを渡せる。
帰り道。
夕焼けの歩道橋で、ふと立ち止まる。遠くに電車が走る。
ポケットの携帯が震えた。
妻からだった。
『今日、ユウコの発表会だったよ』
短い文章。
その下に、写真。
ユウコが笑っている。
背景には紙の花。胸には折れ曲がった名札。
アキヤマは画面を見つめる。
発表会。
頭のどこかでは覚えていた。
だが、将棋教室の予定を動かさなかった。
動かせなかった。
いや――必要性を、感じなかった。
発表会はまたある。
将棋教室は、自分がいなければ回らない。
そう判断した。
そのはずだった。
夜。
書斎で棋譜を並べる。
駒を持つ。
詰みまで読めていた。
崩れる順番も、守れなくなる形も。
なのに。
なぜ妻が、あんなに静かな声を出したのか。
なぜユウコの絵の中で、自分だけ小さかったのか。
そこだけは、最後まで読めなかった。
王将が、指先で小さく揺れた。




