24日目
酒々井凪沙の、信頼と不安と喪失感を含んだ声の波は、目にも止まらぬ速さで彼女の部屋、そして家を飛び出し、住宅街を越え、縦横無尽に田んぼ道を駆けまわり、さびれた商店街を通過し、日菜月陽華の耳元に届いた。彼女の心は困惑で埋め尽くされた。なぜ、ついさっきまで私に見せつけるようにイチャイチャしていたのにこんな声が?といった具合に困惑した。
気持ちはそうであっても、彼女の行動は、玄関を飛び出してすぐ雨がぽつりぽつりと降っているのを一切気にしないと思わせる、髪型が崩れてしまうほどの足の速さで駆け出した。彼女は、凪沙の声の波が通った道筋を遡り、凪沙の家へと到着した。玄関で凪沙の両親が帰宅済みなのは確認していたため、彼らに心配をかけないように、崩れた前髪をサッと手櫛で整えて、鍵のかかっていない玄関を開けながら「お邪魔します」と家の奥の、お姫様にも聞こえるように大きな声で言った。「あら、陽華ちゃん。どうしたの」。凪沙母の言葉に、適当な嘘で対応し、二階にある目的の部屋へ足を運んだ。
電気が点いていない部屋に到着したころには、昇っている時間が短くなった太陽は沈み、凪沙の表情も沈んでいた。凪沙の胸のあたりにぽっかりと開いた黒い穴から、ただ事ではないと確信した彼女の、相当に気を遣ったであろう「……大丈夫?」という声が、空間の沈黙を打ち破り、開いていた窓から雨音が聞こえて来るようになった。
「隣来て」
壁にもたれかかったままの凪沙はそばの床をポンポンと叩いて、電話越しに聞こえたものと変わらぬ声色で言った。
「話、聞いてて」
そういうと、ことの顛末を凪沙が理解している範囲で陽華に語った。
それを静かに聞き終えた陽華は、今までの電話越しに少しだけ聞こえていた、自分が原因でこうなっているのでは、という予想を確信に変えると、凪沙に数秒の間抱きついた。普段なら驚く凪沙も、陽華があまりにも辛そうな凪沙を見て思わずとった行動に対して、今ばかりはそうはならなかった。その反応を見て、本当にただ事ではないのだと陽華は今更思うと同時に抑えるべき、渦巻いていた感情がそばに立っているのに気が付いた。
「どれほどの苦しい思いをしたの」
思わず口から漏れた言葉に、凪沙は「べらぼうに」と律儀にもこたえた。
「そっか」
渦巻いていた感情と格闘していた陽華の前線は、凪沙の声をきっかけに崩壊したために、口が動いてしまった。
「いったん、距離を置いてみるのも一つの手だと思うよ。今まで、距離が近すぎたんだと思う。だから、いったん離れたら、相手の悪いところ、もしかしたら気づいてない自分の悪いところに気づけるかもしれない。それでよりよい関係に戻れるかも。だけど、今の凪沙には心のよりどころが必要だと思うんだけど、どうする」
最後に確認をとったのは、前線の良心勢力の残党の仕業だろう。
「私……今、陽華しかいない」
「じゃあ、私がそばにいてあげる。ずっと、そばにいてあげる。だから、今は、ありったけの気持ちを、私にぶつけてくれていいよ」
そう、陽華が言うと離れていた二人は、凪沙が精一杯の力を腕に込めて陽華に抱きついたのをきっかけに、力強く互いを抱擁した。そして、その行動によって喪失感が埋まり、無理やり抑え込まれていた、悲しい気持ちが凪沙の瞳から、口から、涙となり、嗚咽となり、吐き出される。
「どう、落ち着いた?」
「だいぶ」
ようやく顔が上がり、陽華と、凪沙の赤くなった目が合うと、安心感が生まれ、だんだんと胸の黒い穴はもとの服の色に戻っているのを確認すると、安心して凪沙に笑いかけながら、言った。
「それはよかった」
※※※
二人だけの空間に凪沙の母親が「ご飯できたわよ。早く降りてらっしゃい。陽華ちゃんはどうする?食べてってもいいけど」とドア越しに声だけを届けた。
「いえ、母が用意していると思うので遠慮しておきます」
「わかったわ。雨降ってるから、気を付けて帰りなさいね」
凪沙の母がリビングで家族分の料理をよそい出したぐらいのタイミングで、二人は玄関を出て、ひどい雨が降っている外で向かい合う。凪沙は「今日はありがとう。明日、また学校で」と言って、陽華にぎゅっとしてから家に戻っていった。
陽華は凪沙に借りた傘を差して、自分の家に戻っている途中、思わずスキップをする。すると、ちょうど凹んで雨水が溜まった道に片足を突っ込んでしまい、靴とズボンが濡れる。上の服も濡れているせいか、吹っ切れたように傘を閉じ、くるくる弄ぶ。
「やっちゃった~~。謝らないとかな~~。ふふ」
濡れちゃったからお風呂沸かしといて、と母にメールを送ると、つひに本意のごとくあひにけり、といった雰囲気で上機嫌にわざと水たまりに向かってジャンプすると、心が跳ねているのをさらに自覚する。無意味に傘で地面をトントンしたり、背の高い雑草を足や傘を使って靴と靴下が濡れるのもお構いなしに叩いて水を飛び散らす。
「~~~♪」
そのまま、人目をはばからず歌を歌ったり、傘で遊びながら陽華は自分の家に帰っていった。




