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【第33話】待ちわびていた4分の4拍子が聞こえ始めたらしい。

 誰もいないリビングで、グランドピアノがライトを浴びていた。


 なんだか、名前を呼ばれたような気がした。

 呼ばれたのが誰だったのかは分からない。

 

 清潔な手で触れるのは、何日ぶり――いや、何年ぶりのことだろう。

 母さんが毎日欠かさず埃を落とす漆黒の木片は、心待ちにしていた複雑な状況に置かれ、さぞ怒っていることだろう。


「仕方ないんだ……許してくれ」


 ぼそりと呟いた自分に驚いた。

 昔はよく、語り掛けていた。

 自分のもう一人の親友のように。


「あと、少し待っててくれるか」


 返事は、なかった。

 怒っているのか。

 それとも、もう見捨てられたのか。


 どれでも良いか。

 進むべき道は、ようやく決まったのだから。


 俺は、唐突に自分を俯瞰して苦笑いをこぼした。

 それから、晴日の部屋を見上げた。


 ドアの隙間から漏れた明かりを確かめてから俺は、部屋のドアを2回ノックした。


「――はい?」


 部屋の中から晴日の声がした。

 即座にドアが開きそうになったのを抑えた。


 ドアにかかったバイオリンのネームプレートが揺れている。

 

「に、兄様!? 何事ですか、開けてください」


「お願いだから、ドアを開けずに聞いてほしい……!」


 晴日のか弱い体のどこにこんな力があるのかという力で引っ張られ、一瞬、慌てたが、俺の投げ掛けに晴日の力が弱まった。


「何ですか……晴日のアイスを食べたことへの謝罪は許しませんよ」

「違う」


「謝る気がないのですか――!?」

「ある、あるよ……でも謝るのはアイスのことじゃない」


「……はい?」


 ドアノブに手を掛けたまま、俺は、ドア一枚向こうに立つ妹に問う。


「なぁ、晴日……お前さ、俺のピアノどこで聞いたんだよ」


 ドア越しにハッとする妹の息遣いが聞こえた。


――あの日以来、晴日を前にピアノを弾くのをやめた。

 少し見られたとか、少し聞こえたとか、それくらいのことはあったかもしれない。

 だから、晴日が俺のピアノをこっそり聴いていたなんてことは、寝耳に水で。

 

 それどころか、八社宮さんから伝えられなければ、気づきもしなかった。


 というか、晴日が俺のピアノを好んでいるなんて、現実味がない。


「えっ……どこで、ですか」


 戸惑っている。

 明らかに動揺する妹の姿を想像して、いたずらな笑みが湧いた。


「ああ」

「えっと……遠くから、遠くで、聞いていました」


 自然とドアノブを手放していた。

 ドアに寄りかかりながら床に腰を下ろした。


 吹き抜けた階下にピアノが見える。

 あの日と同じ景色なのに、存在する世界が違って見える。


「――近くでは?」

「近く? それは、ヘッドホン越しも入りますか?」

「いや、それは入らない」

 

 鈴の音のような晴日の声質は、俺も気に入っている。

 誰よりも溌溂として、大胆なバイオリンを奏でるお前を特等席に招待したい。


「――聞きたいか?」


 兄として、妹に許可を得るなんて情けなく不甲斐ない。

 それでも、その合図を直接、耳にしたかった。


「はい。聞きたいです」


「打ち鳴らし、候」

 

――向かうべき方へ。


 隣の俺の部屋のドアを閉めると同時に、晴日の部屋のドアが開く音がした。


 これで、もう、すべての準備ができた。


 俺は、ポケットからスマホを取り出し、あるDMの画面を開く。

 躊躇した指先を強引に押し込む。


 数回のコール音の先で、八社宮さんの声がした。


『――は、はい。た、太陽くん……どうされましたか』


 緊張を織り交ぜた柔らかな音が俺の耳を癒していく。


「八社宮さん、見ていてほしいことが――というか、一緒にしてほしいことがあります」


『はい?』


 どこか反応の似た俺の音を愛してくれる人に、自然と頬が緩んでいた。 


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