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【第32話】水はもっと乾いた方へ移動するらしい。

 泥の付いたローファーを脱ぎ捨て、玄関を上がるとリビングの明かりが灯っている。

 半乾きの制服の袖と濡れたままの靴下に視線を行き来させると、洗面所に向かった。


 靴下を風呂場に投げ込み、制服を洗濯カゴの上に掛けて風呂場に駆け込んだ。

 

 シャワーのハンドルを切ると冷たい水が足先を攫った。

 かじかんだ指先で水の温度を確かめていると、案の定、風呂場のドアの向こうから母さんの声が聞こえてきた。


「――もう、制服掛けとかないと明日も着るんでしょう?」


 俺は、耳障りな小言をかき消すように、わざわざ大きく音を立てながら風呂椅子に腰を掛けた。

 シャワーを止めず、シャンプーを手に取り頭にのせる。

 

 広がっていく泡の外側から、母さんの慎重な声が微かに耳に届く。


「それと、父さんから聞いたわ」


 予想の通りだった。

 俺は、母さんとのこの会話を避けるために風呂場に逃げた。

 

 顔を見合わせながら話すより、ずっと良いタイミングだったけど、この瞬間が重荷で逃げていたのだと思う。

 

「――弾く気になったのね……やっと」


 水分を失った泡が皮膚に吸収された。

 かき消すはずのシャワーの音も虚しく、母さんの言葉は一字一句耳に吸い込まれていく。


「早速、先生に連絡入れておくわ。レッスンは、明日? 明後日?」


 早まる鼓動を抑えきれずに声を荒げた。


「違う!」


 風呂場に響いた自分の声。それから鏡に映った自分は、前よりすっと、大人になっていた。

 

 こんなことなら、くもり止めなんてするんじゃなかった。

――とか、考えながら母さんに伝えなきゃならないことが出っ張った喉元まで出かかって、四分休符の終わりを待った。


「え?」


「違う、そうじゃない」


 どこかで、ぽつりと水滴が落ちた。


「俺は――俺は、弾きたい」


 ほのかなリバーブが湿気に呑まれていく。


「でもそうじゃない。誰かのためになるならそれでいい。けど、もう誰か知らない人のためには弾けない」

「だから……母さんの思い通りには、弾かない」


 快適な温度になった水がいつまでも足元を伝って排水溝へ流れていく。

 全身に付いた泡を溶かすように、放射状の水流に身を投げる。


 それからしばらくして、洗面所の向こうのドアが閉まる音がした。

 返事のない母さんの顔をひたすら想像していた俺に追い打ちを掛けるような、冷たい響きだった。


 頭から被ったシャワーの湯が首筋を伝い、背中を撫でた。

 凍えた身体の震えは、徐々に温かさに包まれていく。


 唇を噛みしめながら、鼻水を啜った。

 母の願いを叶えられない愚かな自分と、背中を押してくれる優しい人たちの思いを抱えながら、


――自分のできることを模索していく。


 *


 風呂場から上がると、脱ぎ捨てた制服のブレザーが綺麗にハンガーに掛けられ洗濯機の傍らに干されていた。

 几帳面に畳まれたバスタオルと着替えまで並べられている。


 俺は、しばらくそれを見つめてからタオルを手に取り、顔面に押し付けた。

 

 母さんの香りがした。

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