【第25話】真実には、その先があるらしい。
毎朝、目が覚めると現実に目を瞑る。
過去の出来事が夢の中の話でなかったかを確かめてから起き上がる。そうして、開けっぱなしだった遮光カーテンを閉めるのだ。
今日は少し、身体の真ん中がヤスリをかけられたように、ザラついている。昨日の遺物が残留している。
部屋を出て階段を下りると、いつもの通り俺以外の家族は外出していた。
テーブルの上には、トーストと母さんの書き置き。
冷蔵庫から目玉焼きとウインナーの並んだ皿を取り出し電子レンジに掛ける。
胃もたれしていても腹は減るのだから、不思議だ。
食事を終えて、黄身が溶けた皿を洗剤で洗う。
食器を洗い終えると、硝子のコップに浄水器の水を汲み入れ、木棚から胃腸薬を取り出す。
封を切り、水を含んで流し込む。
口内に取り残された苦味に顔を歪めていると、家のチャイムが鳴った。
インターホンを覗くと、怪しい奴がこちらを窺うように、ちらちらカメラに視線を送っている。
玄関の扉を開ける。
「……」
無言。
宅配便でもなく、不審者でもないその男は無言を貫き、俺の一声を待っているようだった。
門前で深く被ったキャップをより一層深く被ろうとする御岳に、掛けるべき言葉を探した。
「――謝罪はなしだ」
口を開こうとした瞬間に否定された。
「……なら、どうしたら良い」
「顔貸せよ」
冬だというのに素足にサンダルのところを見ると、どこか遠くに行こうと言うわけではなさそうだ。
「午後からバイトなんだけど」
「それまでの間でいい」
俺は身支度を済ませ、家を出た。
ぶっきらぼうな御岳は、俺が門から出るなりコートのポケットに両手を突っ込んで御岳の家の方へ向かって歩き出した。
「……ラストチャンスだ」
「ラスト?」
昔から、御岳は怒ると口数が減る。
「クイズだ」
「は?」
数える程度、喧嘩もしたことがある。
「満点以外、許さない」
「なんだよそれ」
くだらないことで腹を立て合って口を聞かなくなっても、歩み寄ってくるのはいつだって、御岳の方からだった。
「じゃ、やらないんだな?」
やらないとは言えない。
「やる」
こいつとは、くだらないことを言い合って皺くちゃになっても、鼻で笑い合いたいと思える。
「第一問、御岳 拓人の特技は?」
「なんだよそのクイズ……」
時折振り返ってくる御岳の静かな視線が、回答を催促する。
「スワイプ入力と、盗み食い?」
「――第二問」
「え、正解は?」
思わず、鼻から笑った。
「御岳 拓人の好物は?」
どうやら、俺の問いに答える気はないらしい。
御岳の好物なぞ知らないが、頻繁に盗まれるものといえば――
「……たまご焼き?」
また振り返った御岳の鋭い視線がやけにハラハラする。男にこんな感情を抱いたのは生まれてこの方初めてだが、それも最初で最後だろう。
「第三問……」
奴の溜めに、思わず息を呑んだ。
「俺がこの世で一番尊敬する人は」
一瞬、思考が止まった。
知るはずがない。そんな会話を今までに一度もしたことがない。
そして、俺の脳裏に一人の女性が思い浮かんだ。
――八社宮さん
御岳は彼女を“創造神”として慕っている。
昨日も助手のようにくっ付いて、献身的に支え崇め奉っていた。
だけど、俺は御岳に、八社宮さんへあんなことを言わせてしまった。御岳があんなに怒るなんて思わなかった。
きっと、この答えはハサミ先生という単純なことではなくて、八社宮さんと御岳を――それから俺を結びつけるような人が答えなのだ。
俯き加減で前を歩く御岳の後ろ姿を見つめながら、俺は答えを出した。
「『打ち鳴らし、候。』の奏」
御岳の肩が一瞬上がったように見えた。
けれど振り返った御岳の目元は鋭いままで、
「ファイナルアンサー?」と問い掛けてくる。
固唾を飲みながら、お決まりの返答を返す。
地面に埋まった電柱が地鳴りでもしているのかと思うほど、俺の身体の神経が逆立った。それほど、今の御岳は俺にとって予測不可能で誰よりも恐ろしくて、離れてほしくない存在に感じられていた。
だが、返ってきたものは正解でも残念でもなく、
「70点だ」
「は?」
俺に拍子抜けさせるがために用意された点数なのか、採点基準を教えて欲しい。その前に赤ペン入れて答案用紙を返して欲しい。
「スペシャルボーナスだ」
そう言って、御岳の家の前で無表情で振り返った御岳 拓人。それから、御岳は俺の顔をまじまじ見つめながら続けた。
「お前の過去をきちんと話せよ。それがどう裁かれるべきかよく向かい合えよ」
そんなことを言いながら、奴は俺を家に招き入れた。
何でも御岳の母方の祖父が元警察官なのだという。今日はたまたま家に用があって来たらしいが、恐らく御岳が呼びつけたのだろう。
御岳は俺に「自分が捕まるかどうか、自分で見極めろ」と捨て台詞を吐いてリビングのドアを閉めてどこかへ消えた。ドアのガラス面の向こうで御岳の顔から鋭さが失われたように見えた。
俺は、リビングの方へ向き直り、祖父にしては若々しく上背のある後ろ姿を見つめた。
初対面の人と何を話せというのだ。
御岳の祖父は、恐らくコーヒーの入ったマグカップを片手にリビングから庭先を眺めている。
俺が戸惑いと不満を胸中でつぶやき続けていると、御岳の祖父の方が先に口を開いた。
「天才少年ピアニスト――ASAHIのことは、僕も知っているよ」
耳に流れ込むだけで理解できる。芯のある様々な人間を知る人の声をしていた。
「あの……えっと?」
その声によって、何となくだが、確信をもって、その人がどういう職業にいた人かを察する。
「私は、あの日の現場を担当していた」
鼓動が早まるのを感じた。
体内に澱んでいた自分の罪が、指先から全身を駆け巡り侵食していくように、呼吸が浅くなっていく。
御岳の祖父は、孫と同じように俺を振り返った。
背を丸めた俺にソファに座るように手を貸してくれたあとで、その人は俺の向かいに腰を下ろした。
それから、胸元から一枚の名刺を取り出し、俺に差し出すようにテーブルの中央に置いた。
『児童相談員 屋城 要』
その名刺を見つめてから、顔を上げると目尻に深く皺の寄った御岳には似ても似つかない強面な顔が微笑み掛けてくる。下手くそな笑みの前には、人間の核を捉え吸収してきたような肥大化した眼球があった。大袈裟な例えではなく、洞察力の化身に、俺はすでに呑み込まれたように思う。




