【第24話】知らぬところで関係を深めていたらしい。
いつもより冷たい冬の風。
普段なら、奴と並んで自転車で駆け上がる土手の坂。
空虚な風音が聞き慣れた笑い声の幻聴を連れてくる。
上り坂の途中で進まなくなったペダルとタイヤがスタートラインへ連れ戻す。
夕暮れを越えて迎える暗闇。
水平線の遥か向こうに焼けた空が浮かんでいる。
立ち止まれず、自転車を押しながら坂を上った。
体だけが存在するように、心が宙に浮いているようだった。
それでいて、体は重力に逆らうことに精一杯で、
潰れないように足元を進めても、その一歩一歩にヘドロが付いてくる。
虚しさと孤独は、とっくに知っているつもりだった。
なのに、心の中で大粒の雨が、嵐が、割れた窓ガラスから吹き付け、成す術がなく立ち尽くしているのだ。
登り切った坂の上で、呆然とした。
道の先に、佇んでいた。
息を切らし、どこかに向かおうとするその人が。
足が止まっていた。
「――太陽くん……」
どうしてか、その姿を見て、
不意に涙がこぼれた。
情けなく、顔を逸らすように俯いた。
拭っても、拭っても止めどなくこぼれてくる。
泣いたことなんてなかった。
なかったのに、見せたくない人の前に限って、
止まらない。
「どうして――」
つぶやいた言葉を拾い上げるように、八社宮さんの柔らかな音が俺の鼓膜を包む。
「私、やっぱり心配で……」
そう言って、彼女はあの場から立ち去ったことを詫びるのだ。
自身の動揺を感じながら、憔悴した俺を支える自信もなく、時間を置くことを選んだのだと。
「あの……私――」
何か告げようとした八社宮さんを遮って、俺の口から本音が漏れていく。
「八社宮さん、俺どうしたらいい?」
ずっと、ため込んでいるうちに、自分の心の声が遠のいていた気がする。
それでも過去から逃げることはできなくて、肯定したいのに自分を否定しながら進むことしかできなくて。
好きなことを偽ったまま生きてきた。
だけど、いい加減、助けてほしい。
「誰か、今すぐここから俺を連れ出してほしい」
街灯に照らされた八社宮さんの顔が、くしゃりと歪んだのが見えた。
次の瞬間、俺の身体に柔らかく温かい感触が走った。
ガチャンと自転車が横に倒れた。
宙に浮いたタイヤがくるくると回っている。
甘酸っぱいラズベリーの香りが、近い。
強く、強く抱きしめられて息を呑んだ。
それは、ここにいていいという肯定の証明のようだった。
それから、心地よい声が耳元で音色を奏でるのだ。
「もし、もしあなたを連れ出してあげられる人がいるとすれば――きっとそれは、私ではなく」
「……晴日ちゃんです」
そう言って、八社宮さんはそっと力を緩めた。
頬が薄紅に染まった八社宮さんの潤んだ瞳に、俺が映っている。
「――晴日?」
思わず、首を傾げた。
「晴日ちゃんは、言っていました」
「太陽くん、あなたの演奏を目の前で『朝も、昼も夜も――聴き続けたい』それが、唯一の夢だと」
息が詰まった。結局、俺は、晴日にまで心配を掛けていた。
護っていると思っていた。
いつまでも幼く、背伸びしてばかりいると思っていた妹が、俺が避け続けた音を聴きたがっていた。
「あいつ、バイオリンで日本一になるのが夢じゃなかったのかよ」
唇を噛みしめていなければ、嗚咽が漏れ出しそうになる。
「過去は消えなくても、あなたはもう十分すぎるほど苦しんだと思います。
だから……もう、自分を責めないでください」
彼女の言葉は、讃美歌のように美しく優しすぎる。
あなたを呪う人は、ここにはいません。
みんな、あなたを待っているんです。
過去のあなたではなく、今を生きるあなたを。
「――赦していいのか」
俺を。
「その許可を出すのは、他の誰でもない。太陽くん自身だと思います」
勇気がないなら、私が分けます。
「なにより、私は」
――過去を背負うあなたを好きになったのですから。
綺麗ごとだと思った。
それでも、そんな美辞麗句がどこかを軽くしてくれるのだ。
道端にしゃがみ込んで、恥じらいなく嗚咽を漏らす俺の背中を
世界を生み出す八社宮さんの掌がいつまでも、いつまでも肯定してくれた。




