白の丘、神使と狗
食いしん坊の狗が転生して、とある洋食屋に通う話。
#春の創作ワンライ 参加作品
第5回お題「花ざかり」「巡り巡る」「あとも残さず」
ウクライナへの人道支援のためのチャリティアンソロジー『青空と黄の麦畑』 参加作品
https://note.com/hoshino_inori/n/n64afbbe619e2
昼過ぎの、活気あふれる洋食屋。
銀皿に盛られたポークカツから、ふわりと湯気が立つ。入口近くの席で、それを手早く切り分けて美味しそうに頬張っているOLが一人。春にこの街に越してきた彼女がこの店の常連になってから、二つの季節が巡った、とある秋の日。
「お、カバン変えた?」
対面の椅子に置かれた大きな黒革のダレスバッグに気付いて、テーブルの奥に食後の珈琲を置いたコックが声をかける。
むぐむぐとなにか答えたOLが最後の一口を飲み込み。
「君のに似てたから買っちゃった」
「え?」
「なんてね。ごちそうさま」
珈琲を飲みほし、まるで新品の皿のようにあとかたもなく食べ尽くした皿とカップを残して、手を振って店を出ていく。カランとドアベルが鳴る。
「ありがとうございましたー」
OLの去った隣のテーブルで、新聞を読んでいる小柄なじいさんがぽつりと言った。
「元は私のだがな」
テーブルには飲みかけの珈琲と、いくつか減った角砂糖のポットと、煙のたちのぼる象牙のパイプ。
いつも不思議なことを言う、茶目っ気のある常連のお客さんが、この店には二人もいるのだ。空の皿を下げながら、コックは楽しげに目尻を下げて笑った。
***
ーー話は、誰も数えることのできないほど、昔にさかのぼる。
ーーどんな生物さえも辿ることのできないほど、遠い遠い世界の話。
もしかしたらそれは、どこかの辺境の地の民族が細々と語り継いでいた、ただの、嘘っぱちの、架空のおとぎ話だったかもしれない。
*
真っ白な丘陵が広がる。
ゆるやかな傾斜に積み上がる白い小さな立方体ーー丘の花弁が、吹き付けられた熱風にあおられて、地表から舞い上がっては宙に漂って、そのうちどこかへと消えていく。
大地に咆哮がとどろいた。丘の陰から飛び出した大きな獣が、大きく下顎を開く。赤い舌の下、鋭い牙が光る。
命乞いをしながら逃げまどう青い小人たちをさんざん追い回して、何匹かまとめて丸呑みしたあとで、その奥の物陰にある、もうひとつの熱源に気づく。
灰色の毛に包まれた筋肉質の前脚が、白い地面を蹴った。
「ああ、君かぁ」
物陰から、ひどく能天気な声。
大きく口を開いた灰色の獣は、その生き物の至近距離で動きを止めた。命乞い以外の言葉が聞こえてきたことが、ひどく久しぶりだったのだ。牙の先からぼたぼたと垂れた唾液が、灰色の毛を色濃く濡らす。
「君が食べてくれたら、次は生物になれるんだ」
獣の牙に息がかかるほど近くで、逃げようともしないままそう言って、相手は目尻を下げてへらりと笑った。熱風でずりおちた中折れ帽の下から、真っ白い髪と黒い角が現れる。右手に握られた黒革のダレスバッグ。
こいつが神使か、と獣は気付いた。輪廻転生の輪の外に存在する、孤独な白い聖物。土地神の遣いとして『白の丘』の安寧秩序を保つ存在。
食欲の失せた獣は、嫌そうな顔をしてさらに大きく口を開いた。神使の『中身』ーー夢や記憶や感情だけを、それもとりわけ大事そうなものだけを、よくよく噛んで根こそぎ食べてやろうと思ったのだ。
「あっそれはだめ」
とある記憶に触れたとき、急に神使が早口に言った。
「……聖物って、自虐的なんだな」
両目をマズルにぎゅっと寄せて、すっかり食欲の失せた獣が、口を閉じて呆れたように唸る。
*
真っ白な丘に一本立つ、真っ白な『大樹』。
長い枝葉や太い幹は多くの鳥獣や精霊たちの棲家となり、豊潤な果実や花蜜は彼らの糧となる。
そうとも知らず、無知な神使はその大樹を折ったのだ。覚えていないほどささやかな理由で。
最初に、花虫たちが一斉に亡くなった。真っ白な大地にぼとぼとと死骸が落ちて、その鮮やかな体色はしばらく地表と舞う立方体とをまだらに、異様な色に染めた。
それからしばらくののち、彼らを餌とする中型の生物たちがいくつか力尽きた。
白の丘一帯に、暗い影と腐臭と死臭が漂った。
土地神の御使いに、生命を司るほどの力はない。時を戻すこともできやしない。
ゆえに神使はただひたすらに慟哭した。死にゆくものたちを前に、ただ嘆くことしかできなかった。
……永い眠りについていた土地神が事態に気づいて、手を差し伸べてくれるまで、ずっと。
*
年輪が剥き出しになった『大樹』の切り株を、その樹皮を愛おしむようにそっと撫でる、神使の手。いくつかの若い芽と細い枝が伸びているその先に小さな精霊たちが集い、何事かくちずさんでいる。
ふわりと熱風が湧く。神使の白髪を揺らした風が、続いて隣の灰色の毛をも揺らす。
樹皮を伝って垂れる樹液と虚に溜まった猿酒を、美味しそうに舐めとっている灰色の狗。
神使と狗が、なんとはなしに近い場所で暮らすようになってから、二つの季節が巡ったーー白い花々がいっそう華やかに咲き乱れる時節の、とある穏やかな風の日。
ふと立ち上がった神使が、真っ白な空を見上げて言った。
「嗚呼、土地神様のお迎えだ」
なまあたたかい風が、白い中折れ帽を空高く吹き飛ばした。
「この時間さえなかったら、次は生物になりたいだなんて、思わないのに、なぁ」
神使が狗にすがるような目を向ける前ーー狗は大きな口を最大限に開けて、その白い聖なるものをひとおもいに飲み込んだ。
うろ覚えの、健勝と息災の祈言を繰り返し唱えながら。
記憶だけは別にして、なんども入念に、いつまでも噛み砕いた。少なくとも、あのひどく自虐的な記憶だけは、ひとかけらも残さず消え去りますようにと、入念に。
なぜだろう、一緒に過ごした日々は長くはないのに、大切なことだと思ったから。
小さな白い立方体が、空に散らばった。
***
「申し訳ない、相席でお願いします」
喧騒の中でコックから提示されたのは、定位置のひとつ隣のテーブル。
新聞を読んでいる先客のじいさんに一礼して椅子を引いたOLが、いつものように綺麗にナポリタンを平らげたあと、ふと顔を上げ。
「あぁ、給料日かぁ」
いそがしく立ち回る料理人の姿をぼんやりと眺める。
その対面、小柄なじいさんが新聞を置いてカップを引き寄せる。琺瑯のポットから二つ三つ、角砂糖を落としながら、ぽつりと礼の言葉を述べた。
「へ? なぁに?」
「なんでもないよ。残さず食べてくれて、ありがとうな」カップを傾け、じいさんはどこか遠くを見ながら言った。「しかしお前ら、似たもん同士だよなぁ」
食後の珈琲を味わいながら首をかしげるOL。
懐中時計を見て「おっと、寝る時間だ」と席を立った老人が、コックを手招きし、しわだらけの手でチケットを差し出した。
「二人で行くといい」
「あ、ここ聞いたことある。ありがとう!」
ぱっと顔を輝かせるOLの横、コックがふぅんと楽しげに呟いてチケットの写真と解説文に目を落とす。つい先日までは立ち入りが禁じられていた国有地で、浮き世立った美しさが評判の丘陵庭園。真っ白な小さい花が一面に咲くのだそう。
大昔に絶滅したその花の原種は、人工物のように精緻な立方体の花を咲かせていたらしい。
別名、『神の角砂糖』。
花言葉はーー『来世での幸運を願う』。
会計を済ませて店を出ていく老人に、二人は深々と頭を下げて礼を言った。
カランとドアベルが鳴る。
***
ーー話は、誰も数えることのできないほど、昔にさかのぼる。
世界でたった一人。
土地神、その人だけを除いて。
真っ白な丘に一本立つ、真っ白な『大樹』。
長い枝葉や太い幹は多くの鳥獣や精霊たちの棲家となり、豊潤な果実や花蜜は彼らの糧となる。
そうとも知らず、無知な狗はその大樹を折ったのだ。いつもの食い意地で、白い牙でその太い幹にかじりついた。
最初に、花虫たちが一斉に亡くなった。真っ白な大地にぼとぼとと死骸が落ちて、その鮮やかな体色はしばらく地表と舞う立方体とをまだらに、異様な色に染めた。
それからしばらくののち、彼らを餌とする中型の生物たちがいくつか力尽きた。
白の丘一帯に、暗い影と腐臭と死臭が漂った。
狗はただひたすらに慟哭した。狩りは好きだが、弱い生き物を追い回すのは快感だが、こういうことを望んだわけではないのだと。死にゆくものたちを前に、ただ嘆くことしかできなかった。
永い眠りについていた土地神が事態に気づいて、その丘に神使を遣わせてくれるまで、ずっと。
均衡を保つ役目の神使が、その強すぎる狗の力を少し奪ってほかの生物に分け与え、狗の額から突き出た猛々しい黒い角を奪い、その痛ましい記憶をも奪って自らのものとするまで、ずっと。




