第三話 天宮ひかり
天宮ひかりは、幼いころから少し変わった子だった。
母はよく「この子は昔から妙に大人びている」と笑いながら言っていたし、父は「変に聞き分けがよすぎる」と首を傾げていた。けれど、ひかり自身は自分が特別だと思ったことは一度もない。ただ、世界の見え方が周りと少しだけ違うのだろうとは、なんとなく感じていた。
初めて「変だ」と思ったのは、まだ幼稚園に上がる前だった。
高熱を出して何日も寝込んだ夜、ひかりは夢を見た。夢というにはあまりにも生々しかった。
石でできた長い回廊。夕焼けの庭。白い花の咲く木。冷たい月明かりの差す部屋。低い声で自分を呼ぶ誰か。手の甲に落ちる、熱い口づけ。
目を覚ましたとき、涙が頬を濡らしていた。
まだ言葉も拙い年頃だったのに、夢の中で自分が誰かをひどく好きだったことだけは分かった。そして、その「誰か」がもういないことも。
幼い子どもの胸には重すぎる喪失感だった。
朝、母が心配そうに額へ手を当ててくれたとき、ひかりは寝ぼけたまま聞いた。
「ママ……おしろ、どこ?」
「お城?」
母は一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。
「どこかの夢を見たのかな」
「しろいはな、あって……おつきさま……」
「そうなの。きれいだった?」
ひかりは少しだけ考えてから、首を横に振った。
「きれい。だけど、かなしい」
その言葉に、母は「熱があると不思議な夢を見ることもあるよ」とやさしく笑って、冷たいタオルを替えてくれた。
ひかりも、そのときはそれで終わったと思った。
けれど、夢は一度きりではなかった。
季節が巡るたび、忘れたころにまた見る。春には白い花。夏には石畳に落ちる眩しい光。秋には雨上がりの冷たい夜気。冬には蝋燭の灯る礼拝堂と、静かな雪景色。
どの夢にも、ひとりの男の人がいた。
顔は、はっきり見えないことも多かった。けれど、見えなくても分かるのだ。ああ、この人だ、と思う。その人が近くにいるだけで胸がぎゅっとして、でもいなくなるともっと苦しくなる。
しかも夢は、いつも幸福な場面ばかりではなかった。
すれ違う。届かない。あと一歩のところで失う。会えたと思ったら離れる。手を伸ばしても指先が触れる直前で終わってしまう。そんな断片ばかりが、幼いひかりの眠りの中へ流れ込んできた。
小学校に上がる頃には、ひかりはすっかり夜の夢に慣れていた。
慣れていた、というのは少し違うかもしれない。正しくは、うまく付き合うことを覚えたのだ。朝起きて泣いてしまった日もあったし、学校でぼんやりして先生に名前を呼ばれたこともある。友達と遊んでいても、ふと白い花の匂いを思い出したような気がして胸がきゅっとなる瞬間があった。
でもそれを、誰にも言わなかった。
言っても分かってもらえないと知っていたからだ。
夢の中で何度も恋をして、何度も失っている。そんな話をしたら、きっと心配されるか、笑われるか、そのどちらかだと思った。ひかりは子どもながらに、そのことをよく理解していた。
だから、自分ひとりで抱えることにした。
ノートの隅に、夢の中で見た景色を描くこともあった。城の窓。長い回廊。白い花の木。上手ではなかったけれど、描いているあいだだけ少しだけ落ち着いた。自分の中にあるものを外へ出すと、それが「ただの変な夢」ではなく、本当に自分の中にある記憶のかけらみたいに思えたからだ。
あるとき、図工の時間にその絵を見た担任が言った。
「ひかりちゃん、こういうお城好きなの?」
ひかりは少し迷ってから、曖昧に笑った。
「なんか、見たことある気がして」
「旅行先?」
「ううん。夢で」
先生はああ、とやさしく頷いた。
「夢の景色って、妙に残ることあるよね」
軽く受け流されて、ひかりは少しだけほっとした。否定されなくてよかった。でも同時に、それ以上は言えないと改めて思った。
夢、ではない。
たぶんこれは、もっと別のものだ。
まだ確信はないけれど、胸の奥ではずっとそう分かっていた。
*
ひかりが「これは夢ではなく、記憶なのだ」とはっきり認識したのは、中学生になった頃だった。
きっかけは、冬の古い映画だった。
歴史ものの海外映画で、王女と騎士が政略と戦乱に翻弄される筋書きだった。家族で何気なく観ていたのに、劇中で王女が月明かりの差す窓辺に立った瞬間、ひかりは息ができなくなった。
違う。画面の中の女優でも、映画の筋でもない。
あの構図を、自分は知っている。
白い指先。窓辺の冷たい空気。喉の奥まで張りつめるような苦しさ。行かないで、と言いたくても言えない夜。熱いくちづけが落ちる場所。必ず見つける、と言われたときの胸の震え。
頭の中で、いくつもの場面がぱん、と弾けた。
祭りの夜。雨上がりの石畳。礼拝堂。雪の朝。病床。全部、全部、自分のものだとしか思えなかった。
ひかりは映画の途中で立ち上がり、そのまま洗面所へ駆け込んだ。鏡の前で、荒い呼吸を整えようとしても上手くいかない。心臓がうるさいほど鳴っている。
鏡の中には、見慣れた自分の顔があった。
日本の中学生の女の子。天宮ひかり。
なのに、その奥に、何人もの自分がいる気がした。
王女だった自分。商家の娘だった自分。平民の娘だった自分。子どものまま別れた自分。会えずに死んだ自分。
そして、どの自分もたったひとりの誰かを探していた。
洗面台に手をついて、ひかりは小さく息を吐いた。
「……ほんとに、いるんだ」
その言葉を口にした途端、妙にしっくりきた。
夢ではない。
妄想でも、感受性の強さでもない。
自分は本当に、何度も生まれ変わって、何度も同じ人を好きになって、何度も届かないまま失ってきたのだ。
ありえない。普通に考えれば、そんなことあるはずがない。
でも、ないはずのことが、自分の中ではあまりにも確かだった。
それに、ひかりはもともと理屈のつかないことを否定しきるほど単純ではなかった。見えないものでも、自分の中に確かにあると分かるなら、それはもう「ある」のだと受け入れる方だった。
だからその夜、ひかりは自分の部屋に戻ると、机に向かってノートを開いた。
白いページの上に、見た景色をひとつずつ書き出していく。
月の庭。白い花。春の終わり。窓辺。戦争。祭りの夜。没落貴族。王子。礼拝堂。病。雪。子どもの約束。
ひとつ書くたび、記憶が少しずつ整理されていくようだった。
まるで散らばっていたガラス片が、ようやくひとつの模様を作り始めるみたいに。
そしてページのいちばん下に、最後にこう書いた。
何度も、届かなかった。
しばらくその文字を見つめたあと、ひかりはペン先を置いて、さらに言葉を足した。
でも、次も探す。
自分でも笑ってしまうくらい、単純な答えだった。
普通なら違うはずだ。こんなに失敗したら、もうやめようと思うのが自然かもしれない。どうせまた届かないと、諦める方が賢いのかもしれない。
けれど、ひかりにはそれができなかった。
いや、できないというより、そういう発想そのものがあまりなかった。
駄目だったなら、次はやり方を変えるだけだ。
会えなかったなら、会えるように動けばいい。
届かなかったなら、届きやすい場所へ行けばいい。
ひかりはペンを握ったまま、ふと思う。
もし彼もどこかにいるのなら。
彼もまた、自分を探しているのなら。
この広い世界のどこかですれ違っている可能性だってある。
けれど、何度もそれで失敗してきた。
祭りの夜。礼拝堂。川辺。路地裏。偶然に任せていても、結局あと一歩で届かない。
だったら。
そのときはまだ、はっきり形になっていなかった。でも、心のどこかに新しい考えが芽吹く感覚があった。
もっと、分かりやすくする。
もっと、気づきやすくする。
もっと――見つけてもらいやすく。
*
ひかりは、それから「目に留まること」に少しずつ敏感になっていった。
もちろん最初からアイドルを目指していたわけではない。ただ、学校で何かをするにも、発表の場でも、部活でも、文化祭でも、人の目が集まる場所に立つ人をなんとなく見てしまうようになった。
どうしてその人は見つけやすいのか。
どうして視線が集まるのか。
何があれば、人は遠くからでも気づくのか。
そんなことを、ひかりは無意識のうちに観察していた。
クラスメイトの女子たちは、恋バナや流行のコスメや推しの話で盛り上がっていた。ひかりもそういう話は嫌いではなかったし、普通に笑って過ごしていた。友達はいたし、学校生活に不自由はなかった。
ただ、恋愛に関してだけは、ひどく淡白だった。
「ひかりって、好きな人とかいないの?」
放課後、帰り道でそう聞かれたことがある。夏の終わりで、アスファルトに残る熱がまだ足元から立ち上ってくる夕方だった。コンビニで買ったアイスを食べながら、友達は何気なく聞いたのだ。
ひかりは一瞬だけ答えに詰まり、それから少し笑った。
「いるっちゃ、いるのかも」
「え、なにそれ!誰?」
「うーん……」
言えるわけがない。
何度も前世で会って、何度も失って、そのたびに今も探している誰かだなんて。自分でも説明できないものを、友達に説明できるはずもなかった。
「ちょっと昔から、気になってる人」
「なにそれ運命っぽい!」
友達は面白がって笑った。
ひかりもつられて笑ったけれど、胸の奥は静かだった。運命、という言葉は軽いみたいでいて、ひかりにとってはあまりにも重い。
運命なんて、信じたいようで信じたくない。
本当にそんなものがあるなら、どうして今まで、あんなに届かなかったのだろう。
それでも諦めきれないのは、運命を信じているからではなく、ただ彼に会いたいからだった。
会いたい。
それだけで十分だった。
*
高校に上がる頃には、ひかりはますます綺麗になっていた。
もともと顔立ちは整っていたし、笑えばぱっと華やぐ愛嬌もあった。けれどそれ以上に、人の目を引いたのは、彼女の中にある独特の明るさだった。堂々としていて、物怖じしない。どこか大勢の前に立つことを怖がらない空気があった。
文化祭のステージで司会を任されれば、緊張しながらも不思議なくらい場を持たせる。クラスの発表で前に立てば、自然と人がひかりの方を見る。誰かを押しのけるような強さではなく、そこにある光に目が行ってしまうような感じだった。
そのたび、ひかりはぼんやり思った。
こういう場所なら、見つかるだろうか。
自分が前に出て、ライトを浴びて、名前を知られるようになれば。
彼がどこかで見てくれるだろうか。
そんなことを考えているうちに、テレビで観るアイドルや俳優たちが、ただの「憧れの存在」ではなく、ひとつの可能性として見えるようになった。
画面の向こうにいるのに、全国どこにいても目に入る人たち。
名前を知らない人にまで、顔を覚えられる人たち。
ライブ会場で何万人もの視線を集める人たち。
もし自分がそこへ行けたなら。
もしその光の真ん中に立てたなら。
彼がどこにいても、今度こそ気づいてもらえるかもしれない。
その考えは、最初は小さな火だった。
けれど一度灯ってしまうと、少しずつ、確実に大きくなった。
ある土曜の午後、ひかりは自室で動画サイトを見ていた。人気アイドルグループのライブ映像だった。暗転した会場に音が鳴り、ライトが一斉に点く。歓声が渦を巻く。その中心に立つ少女は、ひかりと同じ年頃に見えた。
それなのに、その姿は遠い星みたいに眩しかった。
無数のサイリウムの光。降り注ぐ照明。ステージを走る足取り。大きなスクリーンに映し出される笑顔。大勢に見られながらも、その目は真っ直ぐ前を見ていた。
見つかる、と思った。
理屈より先に、ひかりの中の何かがそう告げた。
ここだ。ここなら、きっと届く。
その瞬間、これまでの人生の記憶が、またひとつに繋がるようだった。
川辺で振り返った人。
馬車の窓越しに目が合った王子。
礼拝堂で一歩を踏み出しかけた人。
みんな、遠かった。暗かった。偶然に頼るしかなかった。
でも、ステージの上は違う。
遠くても見える。大勢の中でも見失わない。
ライトの中にいる人は、否応なく目に入る。
ひかりは画面を見つめたまま、膝の上で手を握りしめた。
「……そうだ」
唇から零れた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「探すだけじゃ、足りない」
言葉にした途端、胸の奥へまっすぐ落ちていく。
そうだ。
ずっと探してきた。何度も自分から手を伸ばしてきた。けれど、毎回あと一歩だった。あと少し届かなかった。
だったら今度は、見つけてもらう側に回ればいい。
自分が誰の目にも留まる場所へ行く。
日本中、できれば世界中のどこにいても、ひと目で分かる場所へ。
そこまで行けば、きっと。いや、きっとじゃない。
偶然に任せて失うのも、あと一歩で届かないのも、もうたくさんだ。
ひかりは静かに画面を閉じた。
自室の窓の外には夕暮れが落ちていた。住宅街の屋根の向こう、空が淡いオレンジ色から紫へ変わっていく。ひどく穏やかな景色なのに、ひかりの心の中では何かが大きく動いたあとだった。
机に向かい、ノートを開く。
白いページの真ん中に、迷いなく書いた。
アイドルになる。
書いた瞬間、胸の奥で何かが定まった。
もう、偶然に任せるのは嫌だった。
夢みたいな目標のはずなのに、不思議と浮つかなかった。これは憧れというより、決意だったからだ。
彼に会うために。見つけてもらうために。
何度も届かなかったぶん、今度は世界の方からでも見える場所まで行く。
ただの高校生が考えるには、無茶なことだとわかっていた。けれど、ひかりは怖くなかった。難しいことは分かっていたし、簡単じゃないことも知っていた。だからといってやめる理由にはならない。
駄目だったなら、また次の方法を考える。
それだけのことだ。
このときすでに、天宮ひかりという少女の中には、何度人生を越えても折れなかった芯が、静かに根を張っていた。
*
もちろん、現実はそんなに甘くはなかった。
数日後、思い切って母に「芸能事務所のオーディションを受けてみたい」と言ったとき、案の定ひどく驚かれた。
「えっ、アイドル?」
夕食のあと、ダイニングで麦茶を飲んでいた母は目を丸くした。向かいに座る父まで箸を止めている。
「ひかりが?」
「うん」
「どうしたの急に」
「急にっていうか……前からちょっと考えてた」
父は少しだけ眉を上げた。
「芸能界って大変そうだぞ」
「うん、知ってる」
「なんでまた」
そこだ。
ひかりは一瞬迷った。全部本当のことを言えるはずがない。何度も転生してきた相手に見つけてもらいたいから、だなんて。
でも完全な嘘もつきたくなかった。
「……人に見てもらえる仕事って、すごいなって思って」
言葉を選びながら、ひかりは続けた。
「遠くにいても、ちゃんと届くじゃない。歌とか、声とか、顔とか。そういうの、いいなって思って」
母はまじまじと娘の顔を見た。
「ひかり、昔から時々そういうこと言うよね。『届く』とか『見つける』とか」
どきりとした。自分では隠していたつもりでも、案外にじみ出ていたのかもしれない。
「変かな」
「変じゃないけど……」
母は困ったように笑ったあと、真面目な顔になった。
「軽い気持ちじゃないの?」
「うん」
「途中で嫌になっても、簡単にはやめられない世界かもしれないよ」
「それでもいい」
ひかりは即答した。
その声音が思った以上にまっすぐだったせいか、父と母は一瞬顔を見合わせた。
ひかりは自分の手を膝の上で握りながら、静かに言った。
「ちゃんと頑張る。無理だって決まったら、それはそのとき考える。でも、やる前からやめたくない」
言いながら、自分でも不思議だった。こんなに迷いがないなんて。
けれど、それだけ何度も「もう少し」が届かなかったのだ。今さら、最初の一歩を怖がっていられない。
やがて父が、小さく息をついた。
「……ひかりがそこまで言うなら、一回くらい受けてみるか」
「ほんと?」
顔を上げると、父はまだ半信半疑という顔のまま苦笑した。
「ただし、簡単な気持ちで応援はしないぞ。やるなら本気だ」
「うん」
「学校のこともちゃんとやる」
「やる」
母も少しだけ肩の力を抜いて笑った。
「受かるかどうかは別として、まずは受けてみるのも経験かもね」
その言葉を聞いた瞬間、ひかりの胸の中で小さく何かが鳴った。
始まる。ずっと胸の奥にあったものを、ようやく現実の方へ押し出せる。
それは、初恋に向かって走り出すような高揚とは少し違った。もっと静かで、もっと深いところに根ざした感覚だった。長い長い遠回りの先で、ようやく一つの道を見つけたような。
その夜、自室のベッドに寝転がって天井を見上げながら、ひかりは目を閉じた。
会えるだろうか。どこかにいるだろうか。
自分が前へ出て、光の中へ立ったとき、気づいてくれるだろうか。
期待と不安は、もちろんあった。ないはずがない。だって、これまでだって何度も失敗してきたのだから。
けれど、それでも心の底には、不思議なくらい揺るがないものがあった。
きっと大丈夫、ではない。
大丈夫じゃなくても行く、という覚悟だ。
もし日本で見つからないなら、もっと広い場所へ行けばいい。
テレビで足りないなら、配信でも、歌でも、どんな方法でもいい。手を伸ばせるだけ伸ばす。見つけてもらえるまで、自分から光ってみせる。
ひかりは毛布を胸元まで引き上げ、薄暗い部屋の中で小さく笑った。
「待ってて」
誰に聞かせるでもなく、囁く。
「今度は、ちゃんと見えるところまで行くから」
窓の外には、春のはじまりの夜空が広がっていた。街灯の明かりが住宅街の道を淡く照らし、遠くで犬の鳴く声がひとつ聞こえる。ごく普通の、どこにでもある日本の夜だ。
けれど天宮ひかりにとって、その夜は特別だった。
王女だった自分でもない。商家の娘でも、平民でも、病床の少女でもない。
今度の自分は、自分の足で前に出る。
誰かに見つけてもらうために、待っているだけでは終わらない。
今度の自分は、自分から光の中へ行く。
そう決めた最初の夜だった。
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