第四話 光になる
最初のオーディション会場は、思っていたよりずっと地味だった。
もっとこう、テレビで見るような華やかな場所を、ひかりはどこかで想像していたのかもしれない。磨かれた床、大きな照明、夢を掴みに来た少女たちの熱気が渦巻く、きらきらした空間を。
けれど、実際に案内されたのは、都内の雑居ビルの一室だった。白い壁、簡素な長机、折りたたみ椅子。待合の部屋には、年齢も雰囲気もばらばらな女の子たちが数十人ほどいて、それぞれが無言で資料を見つめたり、スマートフォンを握ったり、唇を結んで前を向いていた。
現実だ、とひかりは思った。
ここから先は夢見がちな憧れじゃない。ちゃんと選ばれて、残って、積み上げていく世界なのだ。
母は会場の外で「終わったら連絡してね」と笑って送り出してくれたが、ひかりは受付を済ませてひとりになった途端、ようやく自分が緊張していることに気づいた。手のひらが少しだけ冷たい。胸のあたりが落ち着かない。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
ただ、思ったより簡単じゃないのだな、という当たり前のことを、身体で理解しただけだった。
名前を呼ばれて、部屋へ入る。
審査員は三人いた。机の向こうに座る大人たちは、厳しそうというより忙しそうだった。何十人、あるいは何百人の応募者を見てきたのだろう。こちらの人生がかかっているような数分であっても、向こうにとってはその日の仕事のひとつに過ぎない。その温度差が妙に生々しかった。
「天宮ひかりさん、高校一年生」
資料に目を落としながら、真ん中の女性が確認する。
「はい」
「志望動機をどうぞ」
ひかりはまっすぐ前を見た。
本当のことは言えない。何度も転生してきた運命の相手に見つけてもらいたいからです、なんて言えるはずもない。
でも、嘘だけで塗り固めたくもなかった。
「……たくさんの人に見てもらえる仕事がしたいと思ったからです」
それは、かなり本音だった。
「見てもらえる?」
「はい。歌でも、踊りでも、演技でも、何でもいいんですけど……遠くにいる人にも、ちゃんと届くようなことがしたいです」
審査員のひとりが少しだけ目を上げた。
「誰かに届いてほしいの?」
ひかりは一瞬だけ息を止めた。
鋭い。そう思った。
でも、その質問に対しては小さく笑って答えた。
「たぶん」
真ん中の女性がペンを動かしながら、「歌ってみて」と言った。
課題曲は短いものだった。ひかりは深呼吸して、覚えてきたメロディを口にする。音程は大きく外さなかった。けれど歌い終えたとき、自分で分かった。
足りない。声量も、技術も、表現も。
緊張のせいだけではない。そもそもの経験が足りないのだ。学校で歌うのと、人に聴かせるために歌うのではまったく違う。
「ダンス経験は?」
「ありません」
「部活は?」
「帰宅部です」
「人前に立つのは得意?」
「……嫌いじゃないです」
審査員は頷いた。悪くはない。でも、飛び抜けてもいない。そういう空気が伝わってきた。
帰りの電車で、ひかりは窓に映る自分の顔を見ながら、静かに考えていた。
受かるかもしれない、とは思わなかった。
いや、もっと正直に言えば、たぶん落ちるだろうと思った。
悔しかった。すごく。
けれど同時に、妙な納得もあった。だって、こんなものだろうと思ったのだ。何度も生まれ変わっても、最初の一歩からうまくいく人生なんてそうそうない。むしろ、最初から順調だったら自分らしくない気さえした。
数日後、不合格の通知が届いた。
メールの本文は丁寧だったが、短かった。今後のご活躍をお祈りいたします、という型どおりの文言を読んで、ひかりは画面を閉じた。
泣きたくはなかった。
悔しいのは悔しい。でも、それだけだ。
「そっか」
小さく呟いて、ひかりは机に向かった。ノートを開き、真ん中に大きく書く。
足りないもの。
その下に、歌、ダンス、体力、表情、話し方、と書き連ねる。少し考えてから、さらに足した。
経験。
それから、その横に矢印を書いて、じゃあ、増やす。と書いた。
それだけだった。
落ちた。だから終わり。ではなく、落ちた。なら次はもっと通るところまで持っていく。
ひかりの頭は、自然にそう切り替わっていた。
*
それからの日々は、地味だった。
きらきらした芸能界への第一歩、なんて言葉とは程遠い。学校へ行って、帰って、動画でボイストレーニングの基礎を調べる。駅前のダンススクールの体験レッスンを受け、親に頭を下げて月謝をお願いする。鏡の前で笑顔の作り方を練習し、自分の歌声を録音して、あまりの拙さに落ち込みながらも聞き返す。
思っていたよりずっと泥臭くて、思っていたよりずっと地道だった。
ダンスなんて、最初は本当にひどかった。
振付を覚えるのが遅い。身体が思うように動かない。先生がさらりとやってみせるステップも、いざ自分がやると手足がばらばらになる。まっすぐ立っているつもりでも鏡に映る姿はどこか頼りなく、表情まで固い。
「天宮さん、もっと力抜いて」
インストラクターに何度もそう言われた。
「肩、上がってる。あと、顔が真面目すぎる」
真面目すぎる。
それは学校でも時々言われたことがある。ひかりはもともと何かを決めると集中してしまうタイプで、夢中になるほど顔つきが硬くなる癖があった。
「楽しそうに見えないと、見てる方も楽しくないよ」
ひかりは、その言葉に少しだけ息を呑んだ。
これまでの人生で、自分はずっと「届くこと」ばかり考えていた。
でも、本当に人の心へ残るのは、苦しそうな光ではないのかもしれない。
見てもらうために立つなら、ただ目立てばいいわけじゃない。見た人がもう一度見たいと思う何かが必要なのだ。
ひかりは帰宅してから、鏡の前で何度も笑う練習をした。
にっこり。だめ。作ってる感じがする。
少し口角を上げる。固い。
目元も柔らかく。……なんだか変。
あまりに不自然な自分に耐えきれず、途中でベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めたこともある。
「むずかしすぎる……」
吐き出した声は布団に吸い込まれた。
でも翌日にはまた起き上がる。
動画を見て、真似をして、失敗して、またやる。
歌も同じだった。喉が開いていない、呼吸が浅い、音が細い。録音した自分の声を聴くのは、最初のうちは軽い拷問みたいだった。思っているよりずっと幼くて、不安定で、頼りなかったからだ。
それでも、ひかりは録音をやめなかった。
嫌でも現実を見たかった。どこが駄目なのかを知らないと、次の手も打てない。
土曜の午後には駅前のカラオケボックスにこもり、ワンドリンクのメロンソーダをちびちび飲みながら歌い続けた。高音が苦しい。息が続かない。リズムが走る。何度やっても上手くいかない箇所がある。それでも一曲ごとにノートへ小さくメモを取る。
ここで息が上がる。
サビ前が弱い。
言葉が立ってない。
そのノートは、いつのまにかひかりだけの作戦帳になっていた。
家では母が時々、「ほんとに頑張るねえ」と感心したように言った。父は最初こそ半信半疑だったが、雨の日も眠い朝も、ひかりが黙々と基礎練を続けるのを見て、何も軽く扱わなくなった。
「そんなにやって、楽しいのか?」
ある晩、リビングでストレッチをしていたひかりに、父が何気なく訊いたことがある。
ひかりは脚を伸ばしたまま少し考えて、それから笑った。
「楽しいときもあるし、全然楽しくないときもある」
「全然楽しくないのにやるのか」
「やめたくないから」
父は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「なるほどな」
その一言だけで、妙に嬉しかった。
理解された、というほどではない。けれど、少なくとも今の自分が本気だとは伝わっている気がした。
*
何度か小さなオーディションを受けた。
二次で落ちることもあれば、書類で終わることもあった。特技欄に胸を張って書けるものがないのが悔しくて、プロフィール用紙を書くたびに少しだけ歯痒い思いをした。
それでも、ときどき手応えのある瞬間もあった。
歌の審査で、初めて最後まで息を支えられたとき。
ダンスのフリー課題で、「前よりずっといい」と言われたとき。
自己PRで詰まらずに話せて、審査員の目をちゃんと見返せたとき。
そういう小さな前進が、ひかりにとってはとても大きかった。劇的に人生が変わるわけではない。でも、昨日できなかったことが今日少しだけできるようになる、その積み重ねは確かだった。
そして何より、ひかりには奇妙な強さがあった。
落ちても、思ったより引きずらない。
もちろん悔しい。落ち込む。布団に潜って「うあー!」と声にならない声を出す夜だってある。でも一晩寝ると、どこが足りなかったか考え始めている。
自分でもたまに変だと思った。
でも、よくよく考えれば当然なのかもしれない。何度も人生ごと失敗してきたのだ。オーディションに落ちるくらい、立ち止まってはいられない。
ひかりの芯にあるのは、楽観ではない。
もっと執念に近いものだ。
どうしても届きたい、という強い思いが、いちいち立ち止まることを許さない。
*
高校二年の秋、ひかりはようやく、小さな芸能事務所の養成コースに引っかかった。
大手ではない。今すぐデビューが決まるわけでもない。所属といってもまずはレッスン生扱いで、基礎を見られながら、伸びるかどうかを判断される立場だった。
通知を見たとき、ひかりはしばらく画面を凝視していた。
本当に? と、最初に思った。
それから、じわじわと実感が押し寄せた。
前へ進んだ。たった一歩かもしれない。でも、確かに。
母に報告すると「よかったじゃない!」と声を上げて抱きしめられた。父も「おお」と短く言ったあと、やがて「じゃあここからだな」と真面目な顔で頷いた。
ひかりもそう思った。
ここからだ。始まっただけ。むしろ本番はここから先だ。
初めて事務所へ行った日は、緊張した。受付の前を何度も深呼吸してから通り、案内されたレッスン室へ入ると、すでに十人ほどの女の子が集まっていた。年齢も雰囲気もさまざまだが、みんな目が強かった。自分と同じように、何かを掴みたくてここにいる顔だった。
講師は容赦がなかった。
「デビューしたいなら、まず自分がどう見えるかを知って」
「歌えてるつもりの人が一番危ない」
「可愛いだけじゃ残れないし、頑張ってるだけでも残れない」
その言葉は冷たいようでいて、ある意味では誠実だった。夢を見せるための場所ではない。本当に残りたいなら、現実を直視しろと最初に教えてくれている。
ひかりは、そういう厳しさが嫌いではなかった。
むしろありがたかった。曖昧な慰めや、適当な期待を持たされるより、ずっとやりやすい。足りないものがあるなら埋めればいい。必要なものが見えるなら追いつけばいい。
レッスン漬けの日々が始まった。
学校が終わると電車で都内へ向かい、夜まで基礎を叩き込まれる。発声。ダンス。表情筋。ウォーキング。カメラテスト。簡単な芝居。どれもそれぞれに難しくて、容赦なく未熟さを突きつけてきた。
特に苦手だったのは、感情表現だった。
「天宮さん、上手にやろうとしすぎ」
演技レッスンの講師にそう言われたことがある。
「綺麗に見せようとする意識が先に立ってる。もっとぐちゃぐちゃでもいいの」
ぐちゃぐちゃ。その言葉に、ひかりは少し考え込んだ。
自分は確かに、ずっと「届く」ことばかり考えてきた。どう見えるか、どうすれば相手に伝わるか。そのために整えよう、分かりやすくしようとする。
でも、本当に誰かに届くものは、整ったものだけではないのかもしれない。
悔しいとか、寂しいとか、会いたいとか、そういうむき出しのものの方が、かえって真っ直ぐ伝わることもある。
その日の帰り道、夜のホームに立ちながら、ひかりは自動販売機の明かりをぼんやり見つめていた。電車が来るまでの数分、冷たい風がスカートの裾を揺らす。
会いたい。
その気持ちは、自分の中ではずっと変わらない。
綺麗に言い換えなくても、かっこよく整えなくても、結局それだけなのだ。
会いたいからここまで来た。
見つけてもらいたいから、光になろうとしている。
だったら、そのままやればいいのかもしれない。
*
事務所に入って半年ほど経ったころ、ひかりはようやく「見られること」に少し慣れてきた。
カメラを向けられても、前ほど身体が固まらない。鏡越しに自分の表情を確認するときも、何が良くて何が足りないのか、少しずつ分かるようになってきた。
それでも、自分よりずっと上手い子はたくさんいた。
最初から華がある子。歌が抜群に上手い子。ダンスのキレが違う子。話すだけで空気を持っていく子。
そういう子たちを見るたび、ひかりは悔しさを飲み込んだ。でも不思議と、心が折れることはなかった。
この人生のひかりは、たぶん競争に強いタイプではない。誰かを蹴落としてでも前に出たいわけではないし、頂点に立つこと自体が目的でもない。
ただ、届きたいだけだ。
その一点があまりにもはっきりしているから、逆に迷わないのだろう。
比べて落ち込むことはある。自分の未熟さに腹が立つこともある。でも、それは進むのをやめる理由にはならない。
ある日、ダンスレッスンのあとに同じクラスの女の子が言った。
「ひかりってさ、なんでそんなに頑張れるの?」
更衣室で髪をまとめ直しながら、ひかりは「ん?」と首を傾げた。
「いや、なんか。普通もっとへこまない? 今日とか先生めっちゃ厳しかったし」
「へこむよ」
「え、そう見えない」
「見えないだけで、普通にへこむ」
そう言うと、相手は意外そうに笑った。
「じゃあなんで次の日もケロッとしてんの?」
ひかりは少し考えた。
どうしてだろう。答えはたぶんひとつしかない。
「やめたくないから、かな」
「それだけ?」
「うん」
それが全部だった。
やめたくない。諦めたくない。今度こそ届きたい。その気持ちが、結局いちばん強い。
相手は「すご」と呟いて笑ったが、ひかりは別にすごいとは思わなかった。むしろ、自分にはそれしかないのだと思う。器用さでも、天賦の才能でもなく、ただ手を伸ばし続けることしか。
*
そして、高校三年の春。
事務所が管理する新人向けイベントで、ひかりは初めて小さなステージに立つことになった。
ショッピングモールの特設ステージだった。大きな会場ではない。通りすがりの人が立ち止まって見るような、小さなイベントだ。観客のほとんどは関係者や家族連れで、熱狂的な歓声が飛ぶわけでもない。
でも、ひかりにとっては十分すぎるほど特別だった。
照明は簡素でも、ステージはステージだ。
人に見られる場所。立てばこちらが目に入る場所。
舞台袖で待ちながら、ひかりは自分の手が少し震えているのを感じた。緊張している。こんなに練習してきたのに、やっぱり怖い。
でも、その怖さの奥に、別の感情があった。
胸が熱い。ようやく、ここまで来た。
名前を呼ばれ、ステージへ出る。
視界が開けた。天井の高いモールの吹き抜け、買い物途中の人たち、足を止めてくれる誰か、少し離れた場所でスマートフォンを向ける人。ライトは眩しいというほどではないのに、ひかりには十分まぶしかった。
音楽が流れる。身体が動く。歌い始める。
完璧ではなかった。緊張で少し音が揺れたし、振りの細かいところではまだ粗さがあった。でも、それでも。
見えている、と思った。
自分がちゃんと、人の目に映っている。
ただ教室の隅で誰にも気づかれずにいるのではなく、ただ夢の中で誰かを待っているのでもなく、今、自分ははっきりと光の当たる場所に立っている。
その事実が、ひかりの胸をいっぱいにした。
サビに入ったとき、不意に客席の後方へ目が行った。
そこに誰かを見つけたわけではない。ただ、広い空間の向こうに無数の人の流れがあって、その誰かの目に自分が映る可能性があるのだと思っただけだ。
それだけで、泣きそうなくらい嬉しかった。
ここにいるよ。
ひかりは歌いながら、心の中でそう叫んでいた。
ここにいる。見て。
今度こそ、ちゃんと見えるところにいるから。
その小さなステージの上で、ひかりはようやく確信した。
この道でいい。
簡単じゃない。しんどい。まだまだ届かない。
でも、間違ってはいない。
終演後、スタッフや講師から簡単な講評があり、良かった点も悪かった点も淡々と告げられた。ひかりは真面目に頷きながら全部聞いたあと、控室の隅でひとりになったとき、ようやく深く息を吐いた。
緊張が解けて、膝から力が抜けそうになる。
鏡の前の自分は、汗で前髪が少し張りついていた。完璧なアイドルには程遠い顔だ。まだ幼いし、洗練も足りない。けれど、目だけは不思議なくらい明るかった。
ひかりは鏡越しにその目を見つめて、そっと笑った。
「もうちょっと」
口に出してみる。
「もうちょっと、前に行ける」
もっと大きな場所へ。
もっと遠くまで届くところへ。
その頃にはもう、ひかりの中の決意は、憧れではなくはっきりした目標に変わっていた。
ただアイドルになりたいのではない。
見つけてもらいたいのだ。
何度もすれ違った相手に、今度こそ「ここだ」と気づいてほしい。
そのためなら、まだどれだけでも頑張れると思った。
たとえ日本中でも足りないなら、もっと広い場所へ行けばいい。
テレビで届かないなら、配信でも、歌でも、映像でも、どんな形でもいい。目立つ方法はいくらでもある。人生を賭ける価値があると思えるたったひとつの願いのために、自分はもっと先へ行ける。
控室の小さな窓の外では、夕暮れがガラスに淡く映っていた。商業施設の屋上看板がオレンジ色の空を切り取り、その向こうで雲がゆっくり流れていく。
ごく普通の景色だった。
けれど天宮ひかりにとって、その日は、初めて「光になれるかもしれない」と自分で信じられた日だった。
待つだけの恋は、もうとっくに終わっている。
彼女は自分から前へ出る。
何度失っても。何度届かなくても。
今度こそ見つけてもらうために。
ご覧いただきありがとうございます。




