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第二話 届かない手



 次に目を開けたとき、彼女は王女ではなかった。


 白い天蓋も、磨き上げられた大理石の床も、季節ごとに花を入れ替える侍女たちもいない。代わりにあったのは、木で組まれた低い天井と、朝の光を通してぼんやり明るくなる薄布の窓だった。外では桶を置く音がして、誰かがパンを焼いている匂いがする。石壁ではなく漆喰の塗られた壁。絹の寝間着ではなく、洗いざらしのやわらかな麻布。


 最初の数年、彼女はただの夢だと思っていた。


 月の庭。白い花。低い声で名を呼ぶ誰か。手の甲に落ちるくちづけ。最後の夜に交わした約束。


 幼い彼女は、眠るたびにそれらを見た。夢の中の自分はもっと大人で、もっと美しく、そしてどうしようもないほど恋をしていた。目が覚めたあとは胸が苦しかった。失くしたものの重さだけが残るのに、何を失くしたのか、子どもの頭では上手く分からなかった。


 成長するにつれて、それは夢ではなく記憶なのだと、少しずつ理解するようになった。


 彼女は大商家の娘に生まれていた。


 海に近い大きな街で、父は香辛料や絹を扱う商人として名を馳せていた。家は豊かだった。王族ではないけれど、生活に困ることはなく、身の回りにはいつも人がいた。けれど、暮らしの賑やかさとは別のところで、彼女の心には最初から空席がひとつあった。


 誰かを待っている。


 それが誰なのか、はっきりとは分からないくせに、いつもどこかで待っていた。


 幼い日に市場を歩いていても、祭りの夜に川辺の灯りを眺めていても、馬車の行列とすれ違っても、ふいに胸が高鳴ることがあった。振り向けばそこにいるような気がして、けれど誰もいない。そのたびに少しだけ落胆して、何に落胆しているのか自分でも分からず、ただ首を傾げる。


 彼に会ったのは、十六の春だった。


 街の大通りで祭礼が開かれた日、川には色とりどりの灯籠が流され、露店の灯りが水面に揺れていた。賑やかな音楽と笑い声の中で、彼女は家の者とはぐれた。といっても、危険を感じるほどではない。少し歩けばすぐ誰か見つかるだろうと思っていた。


 そのときだった。


 人波の向こうで、ひとりの青年が振り返った。


 それだけだった。


 距離もあったし、灯りの具合で顔立ちだってはっきり見えたわけではない。けれど、彼女はその瞬間、息を呑んだ。胸の奥で何かが弾けて、手の先までしびれるような感覚が走る。


 知っている。

 どこで、とは言えないのに、知っている。


 青年もまた、まるで何かに引き寄せられたみたいに立ち止まり、まっすぐに彼女を見た。その目に映った驚きと、信じられないものを見たような揺れに、彼女の心臓はひどく早くなった。


 人波が流れる。

 笑い声が弾ける。

 灯籠の火が揺れる。


 彼女は無意識に一歩踏み出していた。相手も同じだった。二人とも、理由なんて分からないまま近づこうとしていた。


 けれど、その間に、人の群れが入った。


 神輿が通るぞ、と誰かが叫んで、人の波が大きく揺れる。押されるようにして彼女は横にずれ、慌てて体勢を立て直した。視線を戻したとき、もう青年の姿は見えなかった。


 彼女は、その夜ずっと彼を探した。


 灯りの並ぶ川辺を何度も行き来し、露店の隙間を覗き込み、人の流れに逆らって歩いた。家の者に見つかって叱られたあとも、心はそこに置き去りのままだった。


 帰宅して、ひとりで窓辺に座ったとき、ようやく彼女は自分が泣いていることに気づいた。


 たった一度、振り返っただけの人なのに。


 けれどそれが、ただの通りすがりではなかったことはすぐに分かった。


 数か月後、父の仕事の都合で、ある没落貴族の家の名が頻繁に食卓に上るようになった。古くは栄えたが、近年は借財に苦しみ、いくつかの商家が手を回して資産を切り崩そうとしている家だという。


 父は悪人ではない。だが商人だった。利益を見れば動くし、家の存続のために非情な判断もする。彼女もまた、父の話を聞きながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。


 嫌な予感がした。


 その予感が形を持ったのは、冬の初めだった。


 父の使いで書類を届けに行った先の屋敷で、彼女は彼を見た。祭礼の夜、川辺で振り返った青年。彼は没落貴族の次男だった。


 中庭に立つ彼は、初めて見たときよりずっと近くにいた。淡い冬の日差しの中で見ても、その顔立ちはやはり見覚えがあるようで、ないようで、けれど胸を締めつける懐かしさだけが確かだった。


 彼も彼女を見た。


 一瞬、時間が止まったみたいに。彼は何かを言いかけたようだった。

 けれど、その視線が彼女の後ろに控える使用人たちへ向いた瞬間、表情が変わった。


 彼の表情はひどく硬くなった。


 書類を受け取りに出てきた執事が、商家の娘である彼女に過剰なほど丁寧に頭を下げる。その態度ひとつで、彼女は理解してしまった。自分の家が今、この家を追い詰める側にいることを。


 青年の目が、はっきりと冷えた。

 さっきまで確かにあった何かが、一瞬で遠ざかる。


 それは彼個人の感情ではなく、立場の色を帯びたものだった。彼は何かを知っている。自分の家が崩れかけていることも、そこに彼女の家が関わっていることも。


 彼女は唇を開いた。何かを言いたかった。違うのだと、言い訳したかったのではない。そんな資格はない。ただ、あの夜の視線まで消してほしくなかった。


 でも、何も言えなかった。


 言葉になる前に、彼の方が先に目を逸らしたからだ。


 その冬の終わりに、彼の家は完全に没落した。


 春には彼が傭兵として隣国へ渡ったと聞き、翌年には国境付近で反乱に加担した貴族残党の一人として名が上がった。その名を耳にしたとき、彼女の指先は冷え切った。


 再会したのは、それから二年後だった。


 街の外れ。雨上がりの夜。彼女の家の馬車が盗賊に襲われかけたとき、暗闇の中から現れた剣士が一人、敵を追い払った。


 剣を構えたその人の横顔を見た瞬間、彼女はすぐに分かった。


 彼だ。


 それなのに。


 青年は彼女の無事を確かめるように一瞬だけ見たあと、すぐに背を向けた。


「待って」


 思わず呼ぶと、その背中がぴたりと止まる。


 雨に濡れた夜気は冷たくて、吐いた息が白かった。彼女は泥で汚れるのも構わず馬車から降りた。胸の鼓動がうるさいほど響いている。


「あなた……」


 そこから先が出てこない。


 名前を知らない。

 でも名前ではない何かを、ずっと知っている気がする。


 青年は振り返らなかった。


「商家のお嬢様」


 低い声だった。


「夜道では、もっと人を連れた方がいい」

「そんなことじゃなくて」

「俺に関わらない方がいい」


 その声音は静かで、だからこそ余計に残酷だった。


「どうして」

「あなたの家と、俺の家は」


 そこで彼は少し言葉を切り、かすかに笑った。乾いた、あきらめたような笑みだった。


「……いや。もう、家ですらないか」


 彼女の胸が痛んだ。


 そんなふうに言わせたいわけじゃなかった。彼女が欲しかったのは、もっと別の言葉だった。祭礼の夜のあの視線の続き。冬の庭で目が合ったときに消えてしまった何かの、その続き。


 けれど現実は、それを許してくれない。


「私、あなたを……」


 知っている気がする、と言いたかった。

 でも彼は、やはり振り返らないまま言った。


「次に会うなら」


 そこで初めて、彼は少しだけ振り返った。


「……敵としての方が、まだましだ」


 それだけ残して、彼は去っていった。

 黒い外套の裾が闇に溶ける。雨上がりの石畳に足音が吸い込まれて、すぐに聞こえなくなった。


 彼女は追えなかった。

 ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 彼と次に顔を合わせたのは、本当に戦場だった。


 商人たちの護衛として移動していた隊が、国境近くで小競り合いに巻き込まれた。遠くで剣戟の音が響き、怒号が飛び、土埃が舞う。彼女は避難の馬車の中からその混乱を見ていた。


 その中に、彼がいた。


 軍旗も紋章も持たない寄せ集めの兵の中で、ひどく静かに剣を振るっていた。目が合った気がしたのは一瞬だけだ。彼は何かを言うかわりに、彼女の馬車へ向かう敵兵を斬り伏せ、そのまま他へ走った。


 だけど、最後のほんの一瞬だけ、確かに目が合った。

 その灰青の瞳に浮かんでいた感情を、彼女は最後まで言葉にできなかった。


 怒りでもない。憎しみでもない。

 ――まるで、どうしようもなく手放せないものを見るような目だった。


 助けられたのだと分かったのは、あとからだった。


 けれどそれが最後だった。


 その戦ののち、彼は行方不明になった。


 生きているのか死んだのかも分からないまま、彼女はその人生を終えた。最期まで、あの川辺で振り返った人の目を忘れられなかった。


 次はもっと近づけると思っていたのに。

 見つけることができたなら、それで十分だと思っていた。


 でも、違った。


 会えただけでは、届かなかった。


    *


 その次の人生では、彼女は平民として生まれた。


 小さな村だった。麦畑が風に揺れ、春には野の花が咲き、冬には薪の匂いが家々の間を漂う。素朴で穏やかな土地だったけれど、幼い頃から見る夢だけは前の人生よりも鮮明だった。


 白い花の庭。夜の窓辺。必ず見つける、と言う声。


 もうその頃には、彼女は薄々理解していた。

 自分は、同じ想いを何度も抱えたまま生まれている。


 理由は分からない。誰に話しても信じてもらえないだろう。だから言わなかった。言わないまま、心のどこかで待ち続けた。


 彼に会ったのは、王都へ出稼ぎに出た年だった。


 沿道には人垣ができ、旗が翻っていた。王家の行列が通るのだと、街の娘たちは浮き立っていた。彼女も仕事の手を止めて、遠くからその列を眺めた。


 王家。


 かつて自分がいた場所なのに、今はあまりにも遠い。


 馬車がいくつも通り過ぎる。その中の一台で、若い王子が外を見ていた。

 何気なく向けられた視線が、彼女に重なった。


 鼓動が、止まるかと思った。


 分かった。


 あの人だと、即座に。


 整った顔立ちも、纏う気配も、この人生ではまるで違うのに、そんなことは関係なかった。遠目に見ただけで分かってしまう。視線が触れた一瞬、彼女の中のすべてがその人を知っていた。


 王子の方もまた、はっきりと目を見開いた。


 その手が、無意識みたいに馬車の窓辺に伸びる。身を乗り出しかけて、すぐに後ろから控えていた侍従に止められた。馬車は進む。彼は振り返る。彼女は人垣の中で立ち尽くす。


 ただそれだけ。

 でも、その短い一瞬で、彼女は確かに理解した。


 また、身分差だ。

 前の人生では、敵同士の家。今度は、王子と平民。


 あまりにも皮肉で、笑いたくなるほどだった。


 彼女はそれでも王都に残った。


 もしかしたら、どこかでもう一度会えるかもしれないと思ったからだ。市場へ行くたび、広場を通るたび、王城の見える道を歩くたび、空を見上げた。自分ではどうしようもない高い場所に、彼がいる気がした。


 ある夜、彼女は王城近くの礼拝堂で彼を見た。


 王子は簡素な外套を羽織り、供も最小限にして、夜の祈りに訪れていた。薄暗い礼拝堂の中で、蝋燭の火だけが揺れている。石の床に映る細い光。その静けさの中で、二人はまた目が合った。


 今度こそ、と彼女は思った。

 今度こそ、話せるかもしれない。


 王子も同じように思ったらしい。祈りの台の向こうで、ほんの一歩だけこちらへ近づこうとした。


 そのとき、別の扉が開いた。


 高位の聖職者が入ってきて、王子へ恭しく頭を垂れる。空気が一瞬で変わる。彼はそこで足を止めた。王子としての顔に戻る。彼女もまた、その場に平伏すしかなくなる。


 何も言えなかった。

 結局、その一夜きりだった。


 翌年、彼女は流行病で死んだ。


 熱に浮かされながら最後まで思っていたのは、蝋燭の揺れる礼拝堂と、届かなかった一歩のことだった。


 もしあと少しだけ時間があれば。

 もしあの扉が開かなければ。


 そんな「もし」を抱いたまま、彼女はまた次へ零れ落ちた。


    *


 その次は、もっと残酷だった。


 今度こそ近くで出会えたと思ったのに、終わりが早すぎたのだ。


 彼女は農村の娘として生まれ、彼は同じ村の鍛冶屋の息子だった。


 小川に石を投げて遊び、麦束の山に飛び込み、泥だらけになって叱られるような、どこにでもある子ども時代を過ごした。前の人生たちとは違って、今度は最初から距離が近かった。


 夢の中の誰かに似ている、と思ったのはほんの些細な瞬間だった。夕暮れの土手で笑った横顔。誰かを守ろうとするときだけ、ひどく真っ直ぐになる目。転んだ彼女に手を差し出す、不器用なくせにやさしい手つき。


 十にもならないうちに、彼女はもう分かっていた。


 たぶん、この子だ。


 彼といる時間は、不思議なくらい自然だった。

 隣に並んで歩くことも。くだらないことで笑うことも。明日また会うのを疑わないことも。

 それまでの人生で、一度も知らなかった当たり前だった。


 今度こそ、一緒に大きくなれるかもしれない。


 身分差もない。敵同士でもない。誰に引き離されるわけでもない。これまでの人生で幾度も焦がれた“普通”が、ようやく手の中にあるように思えた。


 春の終わり、小さな約束をしたことを覚えている。


 白い花の咲く野原で、彼女が夢の話をしたのだ。昔々、誰かと約束した気がする、と。上手く説明できなかったけれど、彼は笑わなかった。


「じゃあ、俺が見つければいいんだろ」


 草の上に寝転んだまま、彼は空を見てそんなことを言った。


「またどっか行っても」

「うん」

「そのときは、すぐ見つける」


 子どもの言葉だった。

 でも、その何気ない口調の奥に、たしかに懐かしい響きがあって、彼女はひどく嬉しかったのだ。


 なのに。


 その年の冬、彼は熱病で死んだ。

 あまりにもあっけなく、あまりにも唐突に。


 たった七歳だった。


 雪の降る朝だった。戸口の向こうに人が集まり、母が泣きながら彼女を止めるのも聞かず、彼女は彼の家へ走った。凍るような空気の中、室内だけが妙に熱く、薬草の匂いと泣き声で満ちていた。


 彼はまだ、息をしていた。浅く、苦しそうに。

 額には濡れ布が乗せられていて、熱に浮かされた頬は赤く染まっている。


 彼女が名前を呼ぼうとした、そのときだった。


 薄く開いた瞳が、まっすぐ彼女を見た。

 ぼんやりと滲んだ視線だった。

 けれど、その瞬間だけ、不思議なくらいはっきりと彼女を映していた。


「……みつけた」


 掠れた声だった。彼女の呼吸が止まる。

 彼は熱に浮かされながら、ほんの少しだけ笑った。


「やっと」


 その小さな手が、彼女の指先を弱々しく握る。

 まるで、本当に見つけたものを確かめるみたいに。

 彼女は泣きながら、その手を握り返した。


「うん。ここにいる。ちゃんといるから」


 何度も、何度も言った。

 でも、その熱は少しずつ失われていった。


 やがて、その指先から力が抜けた。

 熱に浮かされていた呼吸も、少しずつ静かになっていく。


 彼女はその小さな手を握ったまま、動けなかった。


 届いたと思ったのに。

 違う。こんなのは違う。


 ようやく同じ場所に立てたと思ったのに。

 どうして今度は、始まる前に終わってしまうの。


 彼女はその人生で初めて、神を恨んだ。


 何度も、何度も、何度も。


 あと一歩で届かないようにできているのかと思うほどだった。敵になる。遠すぎる身分になる。会う前に死ぬ。会えても遅い。ようやく近づいても、今度は病で奪われる。


 そんなの、あんまりだ。

 でも、それでも。


 それでも彼女は、彼の小さな冷たい手を握りながら思ったのだ。


 次は、せめて大人になるまで。

 次は、もっとちゃんと話したい。


 次は。次こそは。


 その願いだけは、どうしても消えなかった。


    *


 さらに次の人生では、彼女は会うことすらできなかった。


 自分が短命だったからだ。


 山あいの小さな村で、身体の弱い娘として生まれた。生まれつき肺が悪く、季節の変わり目には熱を出し、冬になれば咳が止まらなかった。窓辺から外を見ることの方が多く、野を駆ける子どもたちの声を遠くに聞きながら日を過ごした。


 この頃にはもう、彼女はほとんど理解していた。


 繰り返しているのだ、自分は。


 いつも同じ人を探して、いつも届かずに終わっている。


 でも、だからといって絶望していたわけではない。諦めの悪さは、もうその頃には彼女の骨の中にまで染みついていた。次があるなら、そこまで持ち越せばいい。届かなかったぶん、また手を伸ばせばいい。痛みは消えないが、消えないからこそ次へ繋がっていくのだと、どこかで感じていた。


 十五の冬、彼女は死の床で雪を見ていた。


 窓の外は白く、しんと静まり返っている。母が握る手は温かく、部屋の隅では薬草が煮られていた。咳の合間に意識が遠のきながら、彼女はぼんやりと考えていた。


 今回は、会えなかったな。


 でもまあ、仕方ない。


 次があるもの。


 そう思った瞬間、妙に可笑しくなった。普通なら、もっと人生そのものを惜しむべきなのかもしれない。生きたかったとか、家族が悲しいとか、色々あるはずだ。もちろんそれもあった。あったけれど、それとは別のところで、自分はやはりひとりの人に会えなかったことを悔しがっている。


 どれほどしぶといのだろう、と自分でも思う。


 唇にわずかな笑みが浮かぶ。


「次は……」


 声にならない囁きがこぼれた。

 母はそれを祈りの言葉だと思ったらしい。頬を濡らしながら、何度も神の名を口にしていた。


 けれど違う。

 彼女が思っていたのは、神ではなく、一人の青年だった。


 あなたを見つけたい。

 見つけてもらうだけじゃなくて、今度はこっちからだって。


 そうして彼女はまた死んだ。

 短い人生だった。けれどその短ささえ、次の一歩の前では通過点に変わってしまう。


    *


 何度も、届かなかった。

 手を伸ばしても、指先が触れる直前ですり抜けた。


 敵同士だった。身分が違った。時間が足りなかった。病で奪われた。会う前に終わった。


 あと少し。あともう少し。

 そう思う人生ばかりが重なっていく。


 普通なら、そこで心が折れるのかもしれない。

 どうせまた無理だと、次を望むことをやめるのかもしれない。


 けれど彼女は、折れなかった。

 折れないというより、折れるたびにしなやかに形を変えていった。


 もし静かに待っていても見つからないなら、今度は近くへ行けばいい。

 近くに行っても駄目なら、目につくところへ立てばいい。

 目につくところにいても届かないなら、もっと分かりやすく手を振ればいい。


 彼女の想いは、何度も失敗するたびに、少しずつ方法を変えていった。


 最初の人生では、ただ待っていた。王女である自分の部屋に、彼が来てくれるのを。

 次の人生では、祭礼の夜に人波を掻き分けて追いかけた。

 その次には、王都に残って偶然の再会を願った。

 さらに次には、夢の話を子どもの彼に語って、自分から記憶のかけらを手渡そうとした。


 もう、ただ待っているだけでは駄目なのだ。


 静かな部屋で、誰かが来てくれるのを待っていても、届かない。

 なら、自分から手を伸ばすしかない。


 何度零れても、また次に賭けることを覚えている。


 それは、諦めの悪さだった。

 しぶとさだった。

 そしてたぶん、恋があまりにも深く根を張っていたからだ。


 どの人生でも、彼を好きになるのに、理由は要らなかった。顔立ちが違っても、身分が違っても、性格が少し違って見えても、彼はいつも彼だった。自分の中の何かが、真っ先にそれを知ってしまう。


 ならば、探し続けるしかない。

 探し続けて、それでも足りないなら、もっと別の方法を考えるしかない。


 彼女はようやく、そこへ辿り着いた。


    *


 そして次の人生で――現代日本に生まれたとき。

 天宮ひかりは、まだ小さな少女の頃から、同じ夢を見ていた。


 白い花の庭。夜の窓辺。

 必ず見つける、と告げる声。


 届かなかったたくさんの手。


 そして、何度でも手を伸ばそうとする自分。


 小学生のある日、ひかりはテレビの中のアイドルを見ていた。何万人もの歓声を浴びて、ステージの真ん中で笑う少女。眩しいライトに包まれて、その姿は遠い場所にいるのに、不思議なくらいはっきり見えた。


 ひかりは、そのとき、胸の奥で何かが繋がる音を聞いた気がした。


 ああ、と思った。これだ。


 もし、どこへ行っても見つからないなら。

 もし、静かに手を伸ばしても届かないなら。

 今度は、誰の目にも映る場所へ行けばいい。


 彼がどこにいても。どれだけ遠くても。

 見上げれば、すぐに分かるくらいの場所へ。


 ひかりは画面の中の光を見つめながら、小さく唇を結んだ。


 まだ子どもだった。

 でもその眼差しだけは、何度も人生を越えてきた者のものだった。


「次は」


 テレビの音に紛れるほど小さな声で、ひかりは呟いた。


「もっと、見つけやすい場所に行く」


 それは決意だった。それは、諦めるためではなく。

 何度零れても、また彼へ届くための。


 ただ待つだけでは零れてしまう恋を、今度こそ自分の手の届くところまで引き寄せるための、長い長い助走の始まりだった。



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