第一話 春の終わりの約束
ふわっとした設定ですが、温かい目で見ていただけると幸いです。
春の終わりの庭園は、少しだけ夏の匂いがした。
石造りの回廊を抜けた先、王城の西庭には白い花の咲く木が並び、その足元には刈りそろえられた芝がやわらかく広がっている。昼のあいだは侍女たちや楽師の姿もある華やかな場所だったが、夕刻が近づくにつれて人の気配は少しずつ薄れ、代わりに風の音と鳥の声がよく聞こえるようになる。
王女は、その時間の庭が好きだった。
大理石の欄干に手を置き、遠くの空を見上げる。傾き始めた陽が雲の端を金色に染め、噴水の水面に散る光が砕けた宝石のように揺れていた。日が落ちる前のほんのわずかな時間だけ、世界が何もかもやさしく見える。
王城の中でさえ、ここだけは少しだけ自由だった。
「またここにいらしたんですか」
背後から、呆れたような低い声がした。
振り返らなくても誰だか分かる。
「ええ」
王女は微笑んだまま答えた。
「だって、今日は風が気持ちいいもの」
「だからといって、侍女もつけずに一人で抜け出すのは感心しません」
「抜け出す、だなんて人聞きが悪いわね。少し散歩していただけよ」
「散歩の範囲が広すぎます」
そこでようやく振り返ると、案の定、彼は難しい顔をしていた。
黒に近い濃い髪が夕陽を受けてわずかに青みを帯びて見える。鍛えられた身体に訓練着をまとい、腰には木剣。まだ正騎士ではなく騎士見習いの身でありながら、立ち姿はすでに隙がなく、年若い貴族子弟たちとはまるで違う静かな鋭さを持っていた。
ゼイン。
この王城に仕える騎士見習いで、王女付きの護衛騎士の補佐を任されている青年だった。
ぶっきらぼうで、口数が少なく、必要以上に笑わないくせに、王女が一人で庭に来ていると必ず見つける。しかも見つけたあと、必ず困ったような顔をする。
その表情を見るのが、王女は好きだった。
「そんな顔しないで」
「していません」
「しているわ。眉間に皺が寄ってるもの」
「寄せているつもりはありません」
「でも寄っている」
言うと、ゼインはほんの僅かに眉を動かして、それからあきらめたように息をついた。
「……夕食前にはお戻りください」
「私に命令?」
「お願いです」
王女はくすりと笑った。
「それなら聞いてあげる」
ゼインはそれ以上何も言わなかった。けれど、王女が欄干のそばに立っているあいだ、彼は少し離れた位置にとどまっていた。急かしもせず、けれど完全には去らない。護衛という役目を言い訳に、いつもそうしてくれる。
最初はただの騎士見習いだった。
王女が庭園を好み、しばしば抜け出すことを知っている、少し生真面目な青年。それだけだった。
けれど、いつからだろう。
気がつけば、庭へ行けば彼が来ることを期待していた。
回廊の陰で訓練を終えたばかりらしい彼の姿を見かけると、なんだか一日が上手くいきそうな気がした。自分の些細な変化に彼がいち早く気づくたび、胸の奥が小さく熱を持った。
風邪気味で声が掠れていた日には、次の日、侍女が「護衛の方から」と言って温かい蜂蜜湯を持ってきた。夜会で履き慣れない靴を履いて足を痛めた日は、帰り道の石畳が暗いことを理由に、いつもより近くに人の気配があった。
何も言わないくせに、よく見ている。
言葉にしないくせに、やさしい。
そんなところを知ってしまったら、好きにならない方が難しかった。
「ゼイン」
不意に呼ぶと、彼はすぐに顔を上げた。
「何でしょう」
「あなた、どうしていつも私を見つけられるの?」
ゼインは少しだけ黙った。
「護衛ですから」
あまりにも即答で、王女は思わず笑う。
「それだけ?」
「それだけ、とは」
「だって、他の人は気づかないことも多いのに」
ゼインはわずかに視線を逸らした。
「王女殿下は、よく一人でいなくなりますから」
「いなくなる、だなんて」
「違いますか」
「少し散歩しているだけよ」
「護衛泣かせです」
淡々と言われて、王女はまた笑った。
「でも、あなたは見つけるでしょう?」
夕風が白い花びらを巻き上げ、二人のあいだをすり抜けていく。
ゼインはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……気づけば、探しています」
それは独り言みたいに静かな声だった。
王女は一瞬、意味を取り損ねる。
「探してる?」
「あなたは放っておくと、すぐにどこかへ行ってしまうから」
王女は胸の中で転がりそうになった甘い何かを、なんとか笑みに変えた。
「それ、心配してくれているの?」
「護衛の務めです」
「そう」
わざと平然と返してみせたけれど、頬が少し熱かった。
護衛の務め。
そういう言い方しかできない人だと分かっていても、ほんの少しだけ寂しい。もう少しだけ、役目以外の言葉で呼んでほしいと思ってしまう。
でも、それでもいいと王女は思っていた。
彼がこうして自分を見つけてくれるなら。
こうして、いつでもここにいてくれるなら。
それだけで十分だと、その頃の彼女は本気で思っていたのだ。
*
恋は秘密のまま、静かに育っていった。
王女である自分と、騎士見習いである彼。その差がどれほど大きいか、二人とも知らないわけではなかった。王女の結婚は個人の幸福ではなく国の行く末に関わる。いずれ他国との婚姻が持ち上がることも、貴族の派閥争いの道具になることも、嫌というほど分かっていた。
それでも想いは、理屈を置き去りにして深くなっていく。
夜会のあと、人払いされた回廊でたった一言だけ交わす会話。
冬の終わり、王女が読んでいた本のしおりが風で飛ばされたとき、黙って拾って差し出してくれた指先。
雨の日、濡れた石畳で足を滑らせかけた王女の手を、ゼインがとっさに掴んだときの、驚くほど強くて熱い感触。
そんな小さな記憶ばかりが積み重なって、いつしかもう戻れないところまで来ていた。
そして、その想いに名前がついたのは、春の夜だった。
王城の東塔で小さな音楽会が開かれた夜、王女は途中でそっと席を抜けた。華やかな場は嫌いではなかったが、その日はどうしても息苦しかったのだ。各国からの使者たちが訪れ、舞踏会の名目で王女たちを眺める視線が増えていた。笑顔を向けるたび、値踏みされているような気がした。
回廊に出ると、夜の空気は冷たくて、ようやく息がしやすくなる。
窓の向こうに月が見えた。庭には白い花が咲いていて、月光を受けてひっそりと光っている。
「……こんなところにいらしたんですか」
振り返れば、やはり彼がいた。
王女は少し笑った。
「今日は追いかけてくるのが早いのね」
「姿が見えなくなったので」
「また探していたの?」
「ええ」
その答えがあまりにも当然みたいに返ってきて、胸がひどく痛んだ。嬉しさで。切なさで。もうごまかせないほど。
「ゼイン」
「はい」
「もし私が、王女じゃなかったら」
聞いた瞬間に、自分でも酷い問いだと思った。彼を困らせるに決まっている。答えようのない仮定だ。
けれどゼインは、すぐには否定しなかった。
「……そうしたら?」
静かな逆問いに、王女は唇を噛んだ。
「そうしたら、あなたは私をどう見ていたのかしらって、時々考えるの」
夜風が長い髪を揺らす。塔の下からは楽師の奏でる弦の音がかすかに聞こえた。
ゼインはしばらく黙っていた。やがてゆっくり近づいてきて、王女の前で足を止める。
普段より近い距離に、息が止まりそうになる。
「あなたが王女でなくても」
ゼインはそこで、ほんの少しだけ言葉を止めた。
「……きっと、探していたと思います。理由は、上手く言えませんが」
王女の胸の奥が強く鳴った。
「ただ」
灰青の瞳がまっすぐにこちらを見る。
「どこにいても、見つけたいと思ってしまうんです」
その瞬間、世界から音が消えた気がした。
月の光も、夜の花も、遠い音楽も、何もかもがぼやけて、彼の声だけがはっきりと残る。
王女は、泣きそうなほど嬉しかった。
「それ、ずるいわ」
「何がですか」
「そんな言い方をされたら、私が逃げられなくなるじゃない」
ゼインの目が、初めてひどく揺れた。
王女はそのまま、少しだけ背伸びをするように顔を上げた。こんな近さで彼を見たのは初めてかもしれない。整った顔立ちは夜の中でいっそう鋭く見えるのに、瞳だけが驚くほどやさしかった。
「私も」
声が震える。
「あなたを探してしまうの」
やっと口にできた言葉は、思ったよりずっと小さくて、それでもゼインには十分だったらしい。
彼は息を止めたみたいに静まり返り、次の瞬間、胸の奥に何かを押し込めるように目を伏せた。
「王女殿下」
「今だけは、そう呼ばないで」
おそるおそる言うと、彼は一瞬だけ唇を引き結び、それから、壊れ物に触れるみたいな声で言った。
「……あなたは、きっと、何もかもを変えてしまう」
その言葉が肯定なのだと、王女には分かった。
彼は不器用で、慎重で、身分差の重さを誰より理解している。だから簡単には言えないのだ。でも、それでも、こうしてちゃんと想いを返してくれた。
王女は泣きそうなまま笑った。
「変わってしまえばいいのに」
ゼインはひどく困ったような顔をした。その表情すら愛しくて、王女はもう、どうしようもなかった。
その夜、二人は初めて手を重ねた。
指先が触れ合っただけなのに、身体の奥まで火が灯るようだった。彼の手は剣を握る人の手で、少し硬くて、でも驚くほど慎重だった。まるで本当は触れたいのに、触れてはいけないものに触れているような手つきだった。
王女はそのぬくもりを、長いあいだ忘れられなかった。
*
幸せは、長くは続かなかった。
国境の情勢が不安定になり、隣国との関係は急速に悪化した。小競り合いが増え、城内では軍備と外交の話ばかりが飛び交うようになる。王女の縁談も、平和のための駒としていくつも持ち上がった。
そしてある日、ついに本格的な戦が始まった。
王都の空に狼煙が上がった朝、王女は窓辺からそれを見た。灰色の煙が真っ直ぐに伸びていく。その先にある戦場を思うだけで、心臓が冷たくなった。
ゼインも前線へ向かうことが決まっていた。
まだ若い騎士だった。けれど、その腕はすでに信頼され、王城に残しておけるような立場ではなかった。
何も言えなかった。
行かないで、と言えるはずがない。王女としても、恋する女としても。彼が剣を取る理由を知っているからこそ、止めることなどできなかった。
出立の前日、王女は一日じゅう笑顔でいた。侍女たちの前でも、家族の前でも、国のために戦う騎士たちを誇りに思う王女でいた。そうしなければ崩れてしまいそうだった。
夜になり、部屋に戻って一人になった途端、涙がこぼれた。
静かな部屋だった。窓の外には春の名残の月。庭の白い花がぼんやりと浮かんで見える。
もう会えないかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸が締めつけられて息ができなくなった。
泣いてはいけないと思った。最後まで笑って送り出したいと決めていたのに、指先まで震えが止まらない。
そのとき、窓辺で小さな物音がした。
王女ははっと顔を上げた。
開いた窓の向こう、夜の闇を背にして立つ人影がある。
「……ゼイン」
名前を呼んだ瞬間、涙がまた溢れた。
彼は窓枠を越えて静かに部屋へ入ってきた。こんなこと、本来なら許されない。王女の私室に夜更けに忍び込むなど、露見すればただでは済まない。それでも彼は来た。
きっと、来てくれると思っていた自分がいた。
「ご無礼を承知で」
低い声が、いつもより少しだけ掠れている。
「会っておきたかった」
王女は何も言えず、ただ彼を見つめた。いつもと同じはずの顔が、今夜ばかりはひどく遠く感じる。明日になれば、この人は戦場へ行ってしまう。血と土と火の匂いのする場所へ。自分の手が届かない場所へ。
たまらず、一歩近づいた。
「帰ってきて」
気づけば口にしていた。
「お願いだから」
ゼインは目を閉じた。ほんの一瞬だけ、苦しそうに。
「……必ず、と言えればよかった」
「言って」
「嘘になります」
正直な答えだった。彼はそういう人だった。王女を安心させるための甘い嘘より、苦しくても真実を選ぶ人だ。
だからこそ、好きになったのだ。
王女は泣き笑いのような顔になった。
「そういうところが、好きよ」
ゼインの喉がかすかに動く。
彼は何かを耐えるように、ゆっくりと王女の前に膝をついた。そして、そっと彼女の手を取る。あの春の夜に触れたときよりも、ずっと慎重で、ずっと切実な手つきだった。
「次に生まれ変わったときは」
低い声が、ひどく静かに部屋に満ちる。
「必ず、あなたを見つけます」
王女は息を呑んだ。
生まれ変わりなど、普通なら子どものおとぎ話みたいな言葉だ。けれどその時の王女には、なぜだかそれが虚言には思えなかった。彼の声があまりにも真剣で、あまりにも切実だったから。
この人は本気で言っている。
たとえ命が尽きても、その先まで自分を探すつもりでいるのだと、分かってしまった。
胸が熱くて、苦しくて、でも不思議と怖くはなかった。
「私も」
王女は涙を拭いもせずに言った。
「私も、あなたを見つけるわ」
ゼインが顔を上げる。
「今度こそ」
王女は彼の手を両手で包み込んだ。
「今度こそ、ちゃんと結ばれましょう」
ほんのわずかに、彼の表情が崩れた。
それは微笑みだった。あまりにも淡く、あまりにも痛い、今にも消えてしまいそうな笑み。それでも確かにそこにあって、王女は生涯忘れられないと思った。
「約束します」
彼が言う。
「ええ」
「あなたを見つけます」
「待ってるだけじゃなくて、私も探すわ」
そう返すと、ゼインは少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……あなたなら、そう言うと思いました」
「だって、待っているだけなんて性に合わないもの」
「知っています」
「なら、なおさら。次は私の方が先に見つけるかもしれないわ」
少しだけ強がって言うと、彼はようやく、ほんの少しだけいつもの彼に戻った気がした。
「それは困ります」
「どうして?」
「俺の役目を取られる」
王女は泣きながら笑った。
こんな時でさえ、そんなことを言うのだ。この人は。
でもその何気ないやりとりが、どうしようもなく愛しかった。最後の夜に、悲しみだけでは終わらせたくなかった。いつもの二人のまま、少しだけ笑っていたかった。
ゼインは立ち上がると、王女の涙に濡れた頬を見つめ、それからためらうように指先を持ち上げた。
「……触れても?」
そんなふうに聞くのが、彼らしかった。
王女は頷く。
彼の指が頬に触れた。涙の跡を拭うだけの、ほんの短い接触。なのに、身体の奥まで震えが走る。
そのまま彼は、王女の手の甲にそっと口づけた。
熱かった。
泣きたくなるほど、やさしかった。
「行かないで」と叫びたい衝動を、王女は歯を食いしばって飲み込んだ。この人が守ろうとしているものを、自分も守りたかった。王女として。彼に恋をした女として。
「勝手ね」
掠れた声で言うと、ゼインは口づけたままの手を離して、少しだけ目を細めた。
「ええ」
「そんな約束をして、もし次も見つけられなかったらどうするの」
「見つけるまで探します」
「何度でも?」
「何度でも」
その答えは迷いがなかった。
王女は胸の奥で確かに思った。
ああ、この人は本当にそうするのだろうと。
たとえどれほど遠くても。どれほど時間がかかっても。どんな姿に生まれ変わっても。彼はきっと、自分を探し続ける。
それほどまでに、愛されている。
その事実が、悲しいくらい幸せだった。
「私も、諦めない」
王女は静かに言った。
「何度生まれ変わっても、あなたを見つける」
ゼインは一瞬だけ瞠目し、それから深く、深く頭を垂れた。忠誠を誓う騎士の礼のようでいて、けれどもっと個人的な、祈りにも似た仕草だった。
その夜が、二人が恋人として過ごした最初で最後の夜になった。
*
翌朝、彼は戦場へ向かった。
王女は城壁の上から騎士団の列を見送った。鉄のきしむ音、馬のいななき、旗のはためく音。朝の空気は澄んでいるのに、どこか血の匂いを予感させる冷たさがあった。
列の中に、彼がいる。
遠くて顔はよく見えない。それでも、王女には分かった。何度も見てきた背中だった。真っ直ぐで、揺るがなくて、目を離せない背だった。
王女は手袋の上から、昨夜口づけを受けた手の甲を押さえた。
祈るしかなかった。
どうか、生きて帰ってきてほしい。
どうか、もう一度だけ、その声を聞かせてほしい。
けれど願いは、祈りのまま終わった。
戦は長引き、王都にも敵軍が迫った。城内は混乱に包まれ、王族たちは次々と避難や交渉に追われる。王女のもとに届く報せは断片的で、前線の様子は霧の向こうのように曖昧だった。
そして、ある夕暮れ。
赤く染まる空の下で、王女は一通の報告を受けた。
ゼインが戦場で命を落とした、と。
敵将の刃を受け、仲間を逃がした末の戦死だった。
その言葉を聞いた瞬間、王女の世界は音を失った。
侍女が何か言っていた。老臣が頭を下げていた。誰かが泣いていた。けれど何も聞こえない。見えているのに、何も見えなかった。
彼がいない。
その事実だけが、氷の刃みたいに胸を貫いていた。
王女は泣かなかった。
泣けなかった。
あまりにも現実感がなかったからだ。あの人がいない世界など、本当に存在するのだろうかと、どこかでまだ信じられなかった。
夜になり、一人きりになってから、ようやく崩れた。
声もなく泣いた。喉を詰まらせ、呼吸もできないほど泣いた。部屋の窓からは、あの日と同じように月が見えていた。庭の白い花も、まだ咲いている。
なのに彼はいない。
それが信じられなくて、狂いそうだった。
「……ゼイン」
呼んでも、返事はない。
当たり前だ。
それでも呼ばずにはいられなかった。
「見つけて、って言ったでしょう……」
震える声は、空気に溶けるばかりだった。
「私も探すって、言ったのに……」
約束したばかりだったのに。
次に生まれ変わったら、今度こそ結ばれようと。
まだ何も始まっていないのに、終わってしまった。
けれど、涙の果てに残ったのは絶望だけではなかった。
ひどく不思議なことに、王女の胸の底には、小さな火が残っていたのだ。消えかけながらも、確かにそこにある灯火。
彼は言った。必ず見つけると。
自分も言った。必ず探すと。
それは今生で果たせなかった。ならば、次だ。
次があるのなら。
神が残酷なら、そのぶん自分はしぶとくあればいい。
何度だって、手を伸ばせばいい。
王女は涙に濡れた頬を上げ、月を見た。白い光が窓辺から差し込み、床の上に細長い影を落としている。
「……待っていて」
もう届かないと分かっていても、彼女は囁いた。
「次は、私が先に見つけるかもしれないわ」
泣きながら、そんなことを言う自分に、少しだけ笑ってしまう。
彼はきっと困った顔をするだろう。
そして、仕方なさそうに言うのだ。
――それは困ります、と。
その声を想像しただけで、また涙が零れた。
やがて王都は陥落し、王女もまた城と運命を共にした。
炎の匂い。崩れる石壁。叫び声。焼け落ちる天蓋の向こうに見えた空は、血のように赤かった。
命が尽きるその瞬間まで、王女はただ一人の騎士のことを思っていた。
次こそは。
次こそは、届きたい。
そうして、最初の人生は終わった。
恋だけを、約束だけを残して。
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