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番外編 あの薔薇は、思っていたよりずっとあたたかい花だった



 王太子アレクシス・ヴァルフォードにとって、ルミナリア・フォン・エルセリアという令嬢は、長いあいだ“完成された存在”だった。


 それは称賛に近い認識であり、同時に、少しだけ距離を置きたくなる印象でもあった。


 美しい。高貴である。


 教養もあり、姿勢は完璧で、社交の場では決して隙を見せない。どの夜会へ連れ出しても恥ずかしくなく、どの場で隣に立たせても王太子妃候補として不足はない。家格も申し分ない。むしろ釣り合いという意味では、最上位の候補といってよかった。


 彼女はまるで、王宮の庭の中央に咲く薔薇のようだった。


 丹念に手をかけられ、最も良い土と陽光を与えられ、ひと目で“最上”と分かる花。

 触れれば棘がありそうで、香りまで完璧で、誰もが美しいと認めるしかない花。


 けれど、アレクシスはそういう薔薇を前にすると、少しだけ気後れする自分を知っていた。


 嫌いではない。むしろ好ましいと思っていた。

 だが、どう接すればいいのか分からない。


 隙がないものの前では、人は案外うまく笑えないものだ。


 だからルミナリアを見ていると、いつも少しだけ肩が凝った。婚約者候補として不満はひとつもないのに、個人として近づきたいかと問われると、答えに迷う。そういう相手だった。


 それが、アレクシスにとってのルミナリアだった。


 少なくとも、彼女が別の男と婚約するまでは。


    *


「で、殿下はどう思われるんです」


 昼下がりの離宮の一室で、騎士団長の息子レオンが面白がるように訊いてきた。


 その場には、アレクシスのほかに、宰相子息のクラウスと、魔導院長の甥であるユリウスもいた。学園を卒業したあとも、こうして時折顔を合わせる相手たちだ。利害もあるが、それだけではない。幼い頃から同じ場を踏んできた者同士にしかない気安さがある。


「何がだ」


 アレクシスが茶器を置きながら問い返すと、レオンは肩をすくめた。


「何が、じゃないでしょう。エルセリア公爵令嬢の婚約ですよ」


 その言葉に、クラウスがいかにも呆れた顔をする。


「お前は本当に、その話題が好きだな」

「好きというか、気になるだろう普通。だってルミナリア様だぞ?」


 レオンは本気でそう思っているらしい。

 ユリウスがソファに深く座りながら、さらりと口を挟んだ。


「婚約相手がゼイン・クラウスでなければ、もっと社交界は荒れただろうね」

「今でもそこそこ荒れてるけどな」


 レオンが笑う。


「でもまあ、功績も爵位も整ったし、公爵家が認めてるなら外野が騒いだところでどうにもならない」


 そこまでは事実だった。


 ゼインはもともとただの護衛ではなかった。功績が表に出たことで、彼の立場はきちんと整えられた。公爵家の後押しもあった。つまり、“身分差の恋”としてはきれいに着地した方だろう。


 だが、レオンが本当に気にしているのはそこではないらしい。


「俺さあ」


 彼は焼き菓子をつまみながら言った。


「いまだにちょっと信じられないんだよな。ルミナリア様が、ああいう顔をなさるの」


 アレクシスは目を上げた。


「ああいう顔?」

「え、殿下、見てない?」

「何を」

「婚約決まったあと、ゼインと話してる時の顔」


 その瞬間、クラウスまで静かに頷いた。


「たしかに、あれは少し驚いた」


 ユリウスも珍しく同意した。


「私も初めて見たよ。ああいう表情をされる方だったんだなと」


 アレクシスは何も言わず、ただカップの中の紅茶を見た。


 見ていないわけではない。

 むしろ、見てしまったからこそ、少しばかり落ち着かなかったのだ。


    *


 最初にそれを目にしたのは、王城での小規模な披露の席だった。


 正式な発表というほど大きな場ではなく、関係者や近しい家々だけが集められた、かなり内輪の会だった。婚約が整ったことの確認と、今後の段取りのすり合わせも兼ねたような場で、華やかさよりは実務に近い空気がある。


 アレクシスも王家の立場上、顔を出さないわけにはいかなかった。


 正直に言えば、少し複雑ではあった。


 ルミナリアが婚約者候補として有力だったことは事実だ。周囲もそれを認識していたし、彼自身も、必要ならそうなるのだろうと思っていた時期がある。


 必要なら。


 そこに、恋情めいた熱はあまりなかった。


 だが、それでも「当然そこに来ると思われていた相手」が、全く別の道を選んだとなれば、やはり少なからず意識はする。そういうものだろう。


 会場へ現れたルミナリアは、相変わらず息を呑むほど美しかった。


 銀をわずかに含んだ淡い青の装いがよく似合い、髪はいつも以上にやわらかく見えた。立ち姿も、礼の角度も、完璧だ。ああ、やはりこの人はどこへ出しても隙がない、とアレクシスは思った。


 だが、違ったのはその後だった。


 少し離れた位置にいたゼインへ、ルミナリアが何かを言ったのだ。言葉の内容までは聞き取れない。だが、ゼインが短く答えた、その瞬間。


 ルミナリアが、笑った。


 ふわりと。


 本当に、そうとしか言いようのない笑い方だった。


 夜会で見せる微笑でもない。社交用の、完璧に整えられた優雅な笑みでもない。もっとずっとやわらかくて、あたたかくて、見ているこちらの胸が少しだけざわつくような顔。


 アレクシスは、その瞬間、目が離せなくなった。誰だ、と思うくらいには。


 いや、ルミナリアであることに間違いはない。顔立ちも、立ち姿も、気配も、間違いなく彼女だ。けれどあんな表情は、今まで一度も見たことがなかった。


 そのことが、妙に心へ引っかかった。


 こんな顔をする人だったのか、と。

 あんなふうに、誰かを見て笑う人だったのか、と。


 アレクシスはそこで初めて、自分がルミナリアの“完成度”ばかりを見て、その内側を何も見ていなかったのだと気づいた。


    *


「殿下は、ルミナリア様のこと少し苦手でしたよね」


 レオンが妙に楽しそうに言う。アレクシスはちらりと彼を見た。


「言い方に棘があるな」

「だって事実だろ?」

「苦手、というより」


 少しだけ言葉を選んでから、アレクシスは続けた。


「近づき方が分からなかった」


 それが一番正確だった。


 ルミナリアは美しく、気高く、完成されていた。婚約者候補として不足はない。だが、人としてどこへ触れればいいのか分からなかった。


 隙がない、というのは、案外恐ろしい。


 そこにいるだけで完璧な相手に、何を言えばいいのか。何を言ったところで、この人には全部足りているのではないか。そんなふうに思ってしまう。


 だからアレクシスは、いつも少しだけ距離を置いた。


 礼を尽くすし、失礼もない。必要なら隣にも立てる。だが、自分から個人的に近づこうとしたことは、たぶんなかった。


 クラウスが静かに言う。


「私も似たようなものだ。話せばきちんと返ってくる。だが、その先へ行く隙がない」

「だろ?」


 レオンが頷く。


「でも、婚約後のルミナリア様見たら、ちょっと印象変わらないか?」


 変わった。否定できないくらいに。


 アレクシスはカップを持ち上げたまま、少しだけ視線を横へ流した。


「……あの方は」


 口に出すと、思った以上に静かな声になった。


「思っていたより、ずっと感情の豊かな方だったのだろう」


 三人が、珍しく黙った。


 レオンにいたっては、あからさまに「おっ」と言いたげな顔をしている。

 アレクシスはわずかに眉を寄せた。


「何だ、その顔は」

「いやあ、殿下の口からそういう言葉が出るとは思わなくて」

「別に珍しくはないだろう」

「珍しいです」


 クラウスが真顔で言うので、アレクシスは軽くため息をついた。

 だが、言った以上、引っ込める気もなかった。


「美しかった」


 その言葉は、誰に向けたものでもないように落ちた。


「王宮の庭にある、最高の手入れをされた薔薇のようだった」


 レオンが、妙に神妙な顔になる。

 ユリウスが面白そうに目を細めた。

 アレクシスは構わず続けた。


「だから私は、あの方を“そういうもの”として見ていた」


 綺麗で、完成されていて、高貴で、少し冷たいもの。

 見上げるべきものであり、むやみに近づくべきではないもの。


 そうやって、自分の中で勝手に位置づけていたのだ。


「でも」


 アレクシスはそこで少し息を吐いた。


「ゼインを見ている時のあの方は、まったく違った」


 それはもう、薔薇というより、春にようやく陽を受けた花のようだった。あたたかくて、やわらかくて、少し眩しいくらい生きている顔。


 あんな顔をする人を、冷たいなどと思っていたのかと、自分でも少し可笑しくなる。


「誰よりも一途だったのかもしれない」


 そう言うと、レオンが「うわ」と低く呟いた。


「今の、なんかすごいな」

「何がだ」

「いや……なんか、ちょっと切ない」


 クラウスも、珍しく否定しなかった。

 アレクシスは自分の言葉を反芻する。


 一途。


 そう、きっとあれはそういう類の恋だった。


 誰かに少し好意を寄せる、とか。条件が悪くないから心が傾く、とか。そういう穏当な感情ではない。もっと深くて、長くて、どうしようもないもの。


 だからこそ、完璧なルミナリアが、あんなふうに表情を変える。


 それほどまでに誰かを想う人を、自分はただ“少し近寄りがたい公爵令嬢”として眺めていたのだ。


    *


「もったいなかった、とか思います?」


 レオンが、今度は少しだけ声を落として聞いてきた。

 軽い調子ではない。それなりに本気で訊いている顔だ。


 アレクシスは少しだけ考えた。


 もったいない。残念。


 そういう言葉はたしかに、胸のどこかにある。

 だがそれは、失恋の痛みに近いものではない。


 もっと静かな感情だ。


「……少しは」


 そう答えると、レオンが目を丸くした。


「本当に?」

「驚くな」

「いや、だって殿下が素直に認めるとは」

「認めるしかないだろう」


 アレクシスは苦笑に近い息を吐いた。


「あれほど美しい花が、手の届く場所に咲いていたのに」


 そこまで言って、少しだけ言葉を切る。

 自分でも、その喩えが案外正確だと思った。


「私は、その香りを確かめようともしなかった」


 完成されすぎていると思い込み、近づかなかった。

 棘がありそうだと勝手に決めつけて、その内側のやわらかさに気づかなかった。


 そうしているうちに、彼女は別の人間に見つけられた。


 いや、正しくは。


 『最初から、その人だけを見ていたのかもしれない』


 そう思うと、自分が見逃したというより、最初から通り過ぎていたのだろうという気もする。


 レオンが腕を組む。


「でもまあ、分かる気はするな」

「何が」

「近づきづらいんだよ、ルミナリア様って。完璧すぎて」


 クラウスも頷いた。


「王太子妃候補として見るなら理想的だ。だが個人として近づこうとすると、どうしても一歩引く」

「だろうな」


 ユリウスは少し笑った。


「その一歩を引かなかったのが、ゼインだっただけだろう」


 その一言に、三人とも少し黙る。


 たしかにそうだ。


 ゼインはたぶん、最初から彼女を“完成された公爵令嬢”としてではなく、“ルミナリア”として見ていたのだろう。美しさも、気高さも、棘も、やわらかさも、全部込みで。


 だから彼女があんな顔で笑うことを、ちゃんと知っていたのだ。


「……勝てないな」


 アレクシスは小さく呟いた。


 それは別に、恋敵としての敗北宣言ではなかった。もっと単純に、理解の深さの話だ。


 自分は彼女の表面しか見ていなかった。ゼインは、その奥まで見ていた。


 それだけのことだ。


    *


 後日、王城の回廊でルミナリアとゼインを見かけたことがある。


 公的な場だったから、二人ともきちんとした距離を保っていた。並び立つというほどでもなく、ゼインは半歩後ろに控え、ルミナリアは公爵令嬢らしく堂々と歩いている。


 それだけなら、昔と大して変わらない。

 だが、今のアレクシスには分かる。


 違うのは距離ではなく、空気だ。


 以前はただ美しいだけだったその背中が、今は少しだけあたたかい。ルミナリアが何かを言い、ゼインが短く答える。そのほんのわずかなやりとりの中に、誰にも入り込めない親密さがある。


 それを見て、アレクシスはふと立ち止まった。


 ルミナリアがこちらに気づき、礼をする。アレクシスも自然にそれを返す。公の場で交わす、何の問題もない挨拶。


 だが、その瞬間に見えた。


 ルミナリアの目元が、ほんの少しだけやわらいでいた。ゼインが隣にいることを、当たり前みたいに受け入れている顔だった。


 ああ、とアレクシスは思う。本当に、変わったのだ。


 いや、違う。


 『本当の彼女が、ようやく見えるようになったのだ』


 今更だった。


 本当に今更で、少しだけ惜しいと思う。あんなふうに笑う人だともっと早く知っていたら、もう少し違う見方もできたのかもしれない。


 ただ、それでも。後悔というほどの重さはなかった。


 なぜなら、あの表情はたぶん、自分には向けられなかったからだ。

 あれはきっと、ゼインだけのものだ。


 誰より高貴で、誰より美しく、そして思っていたよりずっと情熱的だった公爵令嬢が、ようやく見せた素の顔。


 それを引き出したのが自分ではなかったことに、少しだけ惜しさを感じる。


 でも同時に、納得もする。


 あの花が咲くべき場所は、最初からあちらだったのだろうと。


    *


 その夜、レオンたちと別れる前に、ふとクラウスが言った。


「殿下は、ルミナリア様のことを少しもったいないと思った。だが、後悔ではない」


 アレクシスは目を上げる。


「……人の心でも読むつもりか」

「顔に出ていましたよ」

「嘘をつけ」

「半分くらいは勘です」


 クラウスは涼しい顔で言い、レオンは横で声を立てて笑っていた。

 アレクシスは小さくため息をついてから、ふっと口元をゆるめた。


「そうだな」


 認める。


「少し惜しかった」


 その言葉に、レオンがまた「うわ、今日は素直だな」と騒ぐ。


 だが構わなかった。惜しかったのは本当だ。


 あれほど美しい薔薇が、思っていたよりずっとあたたかく、感情豊かで、一途な花だったと知ってしまったから。


 だが、それに気づいた時にはもう、彼女は別の誰かの隣で、穏やかに咲いていた。


 だからそれ以上の感情はない。少しだけ、もったいなかったと思うだけだ。


 そして、思う。


 完璧すぎて少し苦手だったあの公爵令嬢は、きっと最初から冷たかったわけではないのだと。


 ただ、咲く相手を選ぶ花だったのだ。


 その香りを知ることができる者も、そのやわらかさに触れられる者も、最初からたった一人に決まっていたのかもしれない。


 夜風が、離宮の庭の薔薇をわずかに揺らした。

 月明かりの下、整えられた花々はどれも美しい。


 その中でアレクシスは、ふと、エルセリア公爵家の令嬢のことを思う。


 王宮の庭の薔薇のように、完璧で、少し近寄りがたくて、見上げるだけで分かった気になっていた花。

 だが本当は、誰よりも情熱的で、誰よりも一途な花だった。


 それを知るのが、少し遅かっただけだ。

 ほんの少しだけ、惜しかった。


 けれどそれ以上に。


 ようやく見つけた相手の前で、あんなふうに笑う彼女は、どうしようもなく美しかった。



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