番外編 うちのお嬢様、恋をすると大胆です
エルセリア公爵家の侍女たちのあいだには、長年ひそかに共有されている認識がある。
それはつまり。
うちのお嬢様は、たいへんお美しい。
そして、たいへん高貴である。
さらに、たいへん気高く、たいへん近寄りがたい。
要するに、ものすごく格好いいのだ。
ルミナリア・フォン・エルセリア。
蜂蜜を溶かしたような髪、少しひんやりした青の瞳、陶器のように滑らかな白い肌。朝、寝起きで薄く目を伏せているだけでも絵画みたいに美しいし、夜会のために正装を整えれば、もはや神に愛された造形ではないかと侍女たちが本気で思うほどだった。
けれど、その美しさは甘いだけではない。
凛としていて、華やかで、隙がない。
幼い頃から公爵家の令嬢として厳しく育てられてきたせいか、姿勢ひとつ、目線ひとつにまで品格が染みついている。侍女たちに対して理不尽に怒鳴るようなことはないし、無意味に威張ることもない。だが、自然体でいるだけで「この方は高位の方なのだ」と思い知らされる空気を持っていた。
だからこそ、侍女たちは内心こう思っていた。
『お嬢様、たぶん恋とかしても、めちゃくちゃお美しくて近寄りがたいままなのでは?』
『うっかり恋に浮かれて頬を染めたりとか、そういう可愛らしいこと、なさらなそう』
『たとえ好きな方ができても、“ええ、そういうこともありますわね”くらいで流しそう』
……と。
その認識は、ある時期まで、わりと本気で信じられていた。
実際、学園に上がってからも夜会へ出るようになってからも、ルミナリアに関する浮いた噂はほとんどなかった。婚約候補の名は挙がる。高位貴族の令息たちが視線を向けることもある。だが、お嬢様ご本人は、どれに対してもあまり強い興味を示しているようには見えなかった。
少なくとも、侍女たちの目にはそう映っていた。
なのに。
その認識は、ある日から静かに、しかし確実に崩れ始める。
*
「……ねえ、ミレイユ」
朝の支度中、髪飾りを並べながら若い侍女アニエスが小さく言った。
「最近のお嬢様、少し変わられたと思わない?」
呼ばれたミレイユは、ルミナリアのドレスの裾を整えていた手を止めずに答える。
「そうね」
その一言に、アニエスは振り返った。
「やっぱり?」
「ええ。前より、鏡をご覧になる時間が増えたわ」
「そう! それ!」
アニエスは目を輝かせた。
そこへ、化粧道具を整えていた年長の侍女カミーユが、いかにも呆れた顔で口を挟む。
「あなたたち、お嬢様の前でそんな顔をしないでちょうだい。すぐに察されるわよ」
「だってカミーユ、見たでしょう? 昨日の夜会前なんて、お嬢様ご自身で“こちらの髪飾りの方が光を受けた時に輪郭が美しいかしら”って」
「見たわよ」
「今までそんなことおっしゃったことあった?」
「ないわね」
三人は一瞬、顔を見合わせた。
ルミナリアは、身支度を侍女へ任せることには慣れていても、ことさら装いについて細かく注文をつける方ではなかった。もちろん好みはあるし、社交の場に応じて選びもする。けれどそれはあくまで「公爵令嬢として相応しいか」であって、「誰かにどう見えるか」を個人的に気にしている様子は薄かった。
ところが最近は違う。
光の加減。色の見え方。髪の揺れ方。後ろ姿の印象。
そういったものを、ごく自然に気にされる。
しかも、妙な方向へ。
「この色だと、遠目に少し弱いかもしれないわね」
とか。
「夜の灯りの下では、こちらの方が印象に残るかしら」
とか。
いったい何を目指しておられるのですか、お嬢様、と、アニエスなどは何度心の中で叫んだか分からない。
しかもそれを真顔でおっしゃるのだから、余計に破壊力が高い。
ミレイユはルミナリアの髪へそっと櫛を通しながら、鏡越しにお嬢様の表情を盗み見た。
今日も綺麗だ。
朝の柔らかな光の中で、ルミナリアは少しだけ考え込むような目をしている。完璧に整った横顔は、やはりため息が出るほど美しい。だが最近、その表情にごくわずかに“人間らしい迷い”が宿ることがある。
それが侍女たちにはたまらなかった。
だって、それはつまり。
『恋では?』
ということだから。
*
決定的だったのは、ゼインが護衛としてつくようになってからだった。
最初に彼を見たとき、侍女たちの感想はほぼ一致していた。
『静かな方』
『強そう』
『すごく有能そう』
『でも、まったく無駄に喋らない』
そして。
『お嬢様を見る目が、ちょっとおかしい』
もちろん、表向きには分かりにくい。ゼインという男はとにかく感情を表に出さないし、護衛としての礼もきっちりしている。視線も必要以上に馴れ馴れしくはないし、距離感も完璧だ。
だが、侍女たちの観察眼を甘く見てもらっては困る。
彼女たちは日々、公爵家の人間たちの機嫌や疲れや体調を、言葉になる前に気配で読んで生きているのだ。そういう者たちの目からすると、ゼインのあの視線は十分に“ただの護衛”の範囲を逸脱していた。
「絶対に好きよね」
ある日の夜、侍女部屋でアニエスが毛布を抱えながら断言した。
「声を抑えなさい」
カミーユが即座にたしなめる。
「でも! だってあの方、今日だってお嬢様が階段を急がれた時、すごく自然に半歩前へ出たじゃない!」
「護衛として当然でしょう」
「そうだけど、その後の顔よ! “勘弁してください”って顔してた!」
ミレイユは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
たしかに、そうだった。
ルミナリアが少し急いで歩いただけで、ゼインの目元にはごく僅かな緊張が走る。あからさまではない。本当に一瞬だ。だが、見ていれば分かる。
お嬢様、また危ないことを考えておられるのでは――。
たぶん、そういう顔だ。
「でもねえ」
別の侍女ソフィアが紅茶を片手に小さく首を傾げる。
「ゼイン様があれだけ分かりやすくても、お嬢様の方はどうなのかしら」
「どうって、絶対好きでしょう!」
アニエスが言う。
「だって最近の装いへの気合い、明らかに違うもの!」
「それはそうだけど」
「それに、お名前を呼ぶ声が違うの」
この一言には、全員が少し黙った。
それは事実だったからだ。
ルミナリアは普段、人を呼ぶ時にも美しい。冷たいわけではないが、距離がある。相手が誰であれ、公爵令嬢らしい響きがそこにある。
ところが、ゼインの名を呼ぶ時だけ。
ほんの少しだけ、温度が変わる。
「ゼイン」
ただそれだけなのに、侍女たちからすれば十分だった。
あれはもう、近い。近すぎる。
でも当のお二人は、どちらも肝心なところで踏み込まない。
見ていて、もどかしいことこの上ない。
「まあでも」
カミーユが落ち着いた口調でまとめる。
「身分差がありますからね」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
そうなのだ。そこが最大の壁だった。
ルミナリアは公爵令嬢。家柄、容姿、教養、社交性、そのどれをとっても最高位に近いところにいる方。対してゼインは有能な護衛であり、信頼も厚いが、それだけではまだ足りない。
恋心があることと、結ばれることは違う。侍女たちはその現実も、ちゃんと理解していた。
だからこそ、よけいに胸がきゅうとなるのだ。
あれだけ想い合っているのに。絶対両想いなのに。
なのに立場が、と思うと、侍女たちとしては勝手に身悶えするしかない。
「でも」
ミレイユがぽつりと言った。
「お嬢様、きっと諦めませんよ」
その言い方には妙な確信があった。
実際、ルミナリアはそういう方だ。欲しいものを前にして、簡単に引く人ではない。表向きは優雅でも、芯は驚くほど粘り強い。最近の「どうにかして目立とうとしておられる気配」も含めて、あれはもう完全に獲物を狙っている方の目だ。
「……たしかに」
ソフィアがしみじみ頷く。
「恋をすると、お嬢様、意外と大胆なのね」
その一言に、全員がなんとも言えない顔でうなずいた。
*
婚約が正式に整う前夜のことだった。
その頃には、侍女たちのあいだでもかなり空気が変わっていた。
公爵様がゼインを執務室へ呼ばれたこと。王家からの褒賞や叙任の話が進んでいること。表立っては語られなくとも、屋敷の中には情報の気配というものがある。侍女たちはそれを敏感に嗅ぎ取る。
何かが、動いている。しかも良い方向へ。
その気配に、侍女たちは内心そわそわしていた。
そしてその夜、ルミナリアは珍しく侍女たちだけの前で、ふっと力を抜いた。
寝支度のため、髪をほどいていた時のことだ。
長い蜂蜜色の髪が肩をすべり、鏡の中の横顔がやわらかくなる。日中の公爵令嬢としての完璧な面差しとは少し違う、私的な夜の顔。
ミレイユが後ろから髪を梳いていると、ルミナリアが小さく息を吐いた。
「……今日の月、綺麗だったわね」
いつもなら何気ない一言だ。
けれど、その時の声音は少し違った。
思い出している声だった。
大事なことを胸の中で反芻して、それをそのまま言葉にしたみたいな。
アニエスがうっかり鏡越しにミレイユを見てしまう。ミレイユもまた、表情を崩しそうになるのを必死で堪えていた。
お嬢様。今、たぶん思い出しておられるの、ゼイン様のことですよね?
と、全員が思ったに違いない。
「ええ、本当に」
ミレイユがなんとか平静を保って返すと、ルミナリアは鏡の中でほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みが。
あまりにも、やわらかかった。
侍女たちは、その瞬間、本気で息を止めた。
普段のルミナリアの笑みももちろん美しい。夜会で浮かべる微笑みなど、見た者の心臓を止めるには十分すぎる威力がある。
でも今のは、そういう“完璧な令嬢の笑み”ではなかった。
好きな人を思い出して、どうしても口元がやわらいでしまう人の顔だった。
高貴で、美しくて、いつもは少し遠いお嬢様が、たった一人を思うだけでこんなにも可愛い顔をなさるなんて――。
アニエスはその場で危うく崩れ落ちそうになった。
ソフィアなどは後で「私、あの時、本気で胸を押さえたわ」と告白している。
カミーユでさえ、その夜侍女部屋へ戻ってから一度だけ深々とため息をついた。
「……反則でしょう、あれは」
その言い方に、全員が無言でうなずいた。
*
そして婚約が正式に整った日。
侍女たちは、当然ながら事前に知らされていた。公爵家の令嬢の身支度を整える以上、その日の装いも、動きも、空気も把握しておかなければならない。
朝から屋敷全体が少しだけ浮き立っていた。
使用人たちは皆、表向きは平静を装っている。だが侍女たちの目からすれば、歩く速さが少し違う。声の高さも少し違う。屋敷中に、抑えた高揚がふわふわ漂っていた。
ルミナリアはその日、淡い青銀のドレスを選ばれた。派手すぎず、でもこの上なく上品で、彼女の白い肌と明るい髪によく映える色だ。婚約の発表にふさわしい、と誰もが思う装いだった。
支度を終えて鏡の前に立ったルミナリアは、いつも通り美しかった。
だが違ったのは、その空気だ。
張りつめていない。強がっていない。
どこか、心のいちばん深いところがほどけている。
侍女たちはそれを見ただけで胸がいっぱいになった。
だって、この方はずっと、“美しく整っていること”の中に立ってきた人なのだ。乱れないように、弱く見えないように、誰の前でも完璧でいるように。
なのに今は違う。幸せが、そのまま顔に出ている。
「お嬢様」
ミレイユが最後の髪飾りを整えながら、小さく声をかけた。
「本当に、お綺麗です」
ルミナリアは鏡越しに彼女を見た。そして、ふわりと笑った。
「ありがとう」
その笑顔に、アニエスは本気で胸を押さえた。
可愛い。可愛すぎる。
いや、もちろんお嬢様は元々可愛らしいところもあるのだ。だが普段は美しさと気高さが先に立つ。可愛い、というよりは美しい、眩しい、近寄りがたい、なのだ。
それが今は。もう完全に、恋する女性の顔をしていた。
高貴なる公爵令嬢が、想いの通じた相手のことを思って、こんなふうに笑う。
その破壊力たるや、侍女たちには耐えがたいものがある。
アニエスはあとで「今まで見てきたどの宝石よりも眩しかった」と本気で語っていたし、ソフィアは「ゼイン様、あれを毎日正面から見られるの? ずるくない?」と小声で騒いでいた。
ミレイユはというと、ただ静かに思っていた。
ああ、よかった、と。
本当に、よかった。
この方がこんな顔で笑える日が来るなんて。
*
婚約後、ルミナリアは少しだけ変わった。
いや、正確には、“もともとあった部分が隠れなくなった”のかもしれない。
ミレイユは、鏡越しのお嬢様をそっと見つめた。
昔から、美しい方だった。
誰より気高くて、堂々としていて、簡単には弱さを見せない人だった。
けれど今は、それだけではない。
誰かを大切に思っている人の顔をしている。
元々、彼女の中にあった柔らかさや、しぶとさや、愛情の深さが、今までは表へ出る前に全部気高さの中へ仕舞われていただけなのだろう。
それが今は、ちゃんと見えるようになった。
ゼインの前ではもちろんだが、侍女たちの前でも時折ふっと気を抜くようになった。髪飾りを選ぶ時に「こちらの方が好きかしら」と素直に言ったり、庭の花を見て「綺麗ね」と本当に嬉しそうにしたり、遠回しではなく感謝を言葉にしたり。
何より、笑う回数が増えた。それがもう、侍女たちにはたまらなかった。
「今日の昼、お嬢様がゼイン様に“行ってらっしゃい”っておっしゃったの見た?」
ある日の夕方、侍女部屋でアニエスが小声で叫ぶ。
「見たわよ」
ソフィアが即答する。
「しかも、そのあとゼイン様、ほんのちょっとだけ笑ってた」
「笑ってた!」
「ねえ、あれ見た? お嬢様も、そのあとすごくうれしそうだったわよね?」
「見た見た見た!」
きゃあきゃあ、と声を潜めながら騒ぐ彼女たちを、年長のカミーユが「あなたたち、本当に好きねえ」と呆れ半分で見ていたが、その口元もわずかにゆるんでいた。
「でも」
ミレイユが紅茶を注ぎながら、静かに言う。
「分かる気はするわ」
「何が?」
アニエスが身を乗り出す。
「だって、あのお二人。長い長い遠回りの末に、ようやくそこへ辿り着いた顔をしているもの」
その言葉に、部屋が少しだけ静かになった。
そうだ。
詳しいことは知らない。侍女たちが知っているのは、今ここにある幸せそうな空気だけだ。けれど、その空気には確かに“ようやく”という響きがあった。
簡単に始まった恋ではない。
きっと、もっと長くて、もっと深くて、もっと苦しい何かを越えてきたのだろう。
だからこそ、今の笑顔があんなに眩しいのだ。
「それにしても」
ソフィアがうっとりした顔でため息をつく。
「身分差って、いいわよね……」
アニエスが即座に頷く。
「分かる……! 公爵令嬢が、自分で選ぶのがまたいいのよ!」
「しかもゼイン様が“僕なんかでは”じゃなくて、“お嬢様を軽んじられる立場にはしたくない”っていう感じなの、最高では?」
「最高……」
その言い方に、ミレイユもふっと笑った。
ええ、本当に。最高なのだ。
高貴なる公爵令嬢が、自分より下の立場の男に一途に手を伸ばす。
その男は、恋に浮かれて立場を忘れるのではなく、好きだからこそ彼女の尊厳を守ろうとする。
そして最後には、ちゃんと功績で並び立つ。
こんなの、侍女たちがきゅんとしないわけがない。
*
ある日の午後、ルミナリアは庭の東屋で本を読んでいた。
柔らかな風。白い花。春の終わりの匂い。侍女たちは少し離れたところで控えていて、必要があればすぐ動ける位置にいる。
そこへゼインがやって来た。
何か報告があるらしく、彼はルミナリアへ歩み寄って低く声をかける。ルミナリアは本から顔を上げ、何か答える。そのやりとりは短い。ほんの数言だ。なのに。
次の瞬間、ルミナリアが見せた笑顔に、侍女たちは全員、内心で崩れ落ちた。
あまりにも、可愛かった。美しいではなく、もうこれは可愛いだ。
目元がやわらぎ、唇がふっとほどけて、けれど気品は失われない。高貴なる公爵令嬢のまま、恋する女の顔になっている。
しかも相手はその顔を向けられて、ほんの少しだけ目を細めるのだ。
ああもう。
見せつけないでくださいませ。
ありがとうございます。
でももっと見せてください。
侍女たちの心はそのへんで大忙しだった。
アニエスなどは後でミレイユへ「私、あのお顔を見ただけで一日がんばれる」と真顔で言ったし、ソフィアは「これもう屋敷の福利厚生では?」と意味不明なことまで口走っていた。
カミーユはそんな若い侍女たちを見て肩をすくめつつも、結局最後にはこう言った。
「でも、仕方ないわね」
「何がです?」
「うちのお嬢様が、あんなふうに幸せそうなら」
その言葉に、全員が静かに頷いた。
そう。結局そこなのだ。
高貴で、美しくて、誰より誇り高いお嬢様が、恋をして、想いが通じて、こんなふうにやわらかく笑う。
その事実が、侍女たちにはたまらなく嬉しかった。
もちろん公爵令嬢らしい美しさも好きだ。社交界で誰よりも堂々と立つ姿も見惚れるほど素敵だ。
でも、恋をして少しだけ大胆になり、思いが通じたあとの可愛い笑顔を知ってしまったら、もう戻れない。
だって、それはきっと。
いちばん近くでこの方を見てきた侍女たちだけが知っている、特別な表情だから。
そしてミレイユは、その日も遠くからそっと思うのだった。
どうか、この笑顔が、もう二度と曇りませんように。
何度遠回りしてきた恋なのかは知らない。
でも、ようやく辿り着いたのだろうことだけは分かる。
ならばきっと、これからは。
この屋敷で、白い花の季節が巡るたびに。
お嬢様はまた、あんなふうに可愛く笑ってくださるのだろう。
そのたび侍女たちは胸を押さえ、きゃっきゃと騒ぎ、そして最後には、しみじみ思うのだ。
――うちのお嬢様、恋をすると大胆で、たいへん可愛い。
ご覧いただきありがとうございます!




