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最終話 今度こそ、君に触れる



 ルミナリアとゼインが温室で言葉を交わした夜から、世界は目に見えて変わったわけではなかった。


 朝になれば、屋敷の侍女たちはいつも通りにカーテンを開け、銀盆に朝食を並べる。学園へ行けば、令息令嬢たちは変わらぬ顔で挨拶をし、講義は始まり、噂は流れ、季節は静かに進んでいく。温室で交わされた言葉など、誰にも知られないまま、表面上の日常は何ひとつ変わらない。


 けれど、ルミナリアにとってはすべてが違っていた。


 何かがようやく、自分の中で定まったのだ。


 長いあいだ、夢のように掴めなかったもの。手を伸ばすたびに零れていったもの。自分だけが追っているのではないかと、何度も不安になったもの。


 それが、はっきりと輪郭を持ってそこにある。


 ゼインだった。


 あの人で、間違いなかった。


 最初の人生で、月夜の窓辺へ来てくれた騎士。何度姿を変えても、何度時代が変わっても、結局いつも自分の心を見つけてしまう人。ひかりとして光の中へ立った自分を、本当に見つけてくれた人。


 その事実は、ルミナリアの足元を強くした。


 もう迷わないでいい。

 もう、手探りで「たぶんそうだ」と願わなくていい。


 今度こそ、この恋はちゃんとここにある。


 だからこそ、次に考えるべきことはひとつだった。


 どう結ばれるか。


 会えただけでは足りない。

 見つけた、見つけてもらえた、それだけで終わるつもりは最初からなかった。


 だって何度も、そこで終わってきたのだ。


 身分差。敵対。時間切れ。事故。病。あと一歩のところで途切れた人生ばかりだった。

 ならば今度こそ、その「あと一歩」を越えなければならない。


 そして、その現実は今も確かにそこにあった。


 ルミナリアは公爵令嬢だ。


 対してゼインは、公爵家に仕える護衛の立場にある。いくら有能でも、いくら信頼があっても、そのままでは釣り合わない。恋の感情だけで押し切れるほど、この世界の貴族社会は甘くない。


 ルミナリアは、そのことを分かっていた。

 分かったうえで、思っていた。


 それでもいい、と。


 たとえ立場を捨てることになっても。


 たとえ親に反対されても。


 今度こそ、この人を選びたい。


 そう思えるところまで、もう来ていた。


    *


 数日後、ルミナリアは父であるエルセリア公爵に呼ばれた。


 執務室は重厚だった。濃い木目の机、壁一面の本棚、窓辺に落ちる午後の光。公爵は書類から顔を上げると、娘を見て短く言った。


「座りなさい」


 ルミナリアは静かに椅子へ腰かけた。


 父の顔つきはいつも通り厳しい。だが、その目の奥にある色は普段よりわずかに慎重だった。何かを測っているときの顔だ、とルミナリアは知っている。


「最近の学園での振る舞いについて、いくつか耳に入っている」


 来た、と思った。


 悪役令嬢として盛大に破滅フラグを立てることには失敗してきたが、目立っていたこと自体は事実だ。夜会での立ち回りも含め、それなりに噂は届いているのだろう。


 ルミナリアは背筋を伸ばした。


「ご心配をおかけしているなら、お詫びいたします」

「詫びる必要があるかどうかを聞いているのではない」


 公爵は淡々と返した。


「お前が何を考えて動いているのかを知りたい」


 まっすぐな問いだった。ルミナリアは少しだけ黙った。


 さすがに「運命の人に見つけてもらいたくて目立とうとしていました」とは言えない。だが曖昧にごまかしても、父は納得しないだろう。


 だから彼女は、少しだけ本音に近い言い方を選んだ。


「……目立つ必要があると思ったのです」


 公爵の眉がわずかに動く。


「何のために」

「自分が、どこに立つべきかを、はっきりさせるために」


 それは、かなり本音だった。


 この人生で自分がどこに立ち、何を選ぶのか。それを曖昧にしたくなかった。ルミナリアとして、エルセリア公爵家の娘として、そしてひかりだった頃から続く想いを持ったひとりの女として。


 公爵はしばらく娘を見ていたが、やがて低く息を吐いた。


「最近のお前は、少し変わったな」

「そうでしょうか」

「前よりも、無駄に棘を振り回さなくなった」


 それは微妙に褒めているのか、別の意味で心配しているのか判断に困る言い方だった。ルミナリアは思わず少しだけ目を瞬かせる。


「そのかわり」


 公爵は続けた。


「何かを決めた人間の目をしている」


 胸の奥が、少しだけ熱くなる。

 父には、そこまで見抜かれていたらしい。


「……はい」


 ルミナリアは静かに答えた。


「決めたことがあります」


 公爵の視線が鋭くなる。


「何だ」


 もう、ここで引くつもりはなかった。


 今までの人生なら、きっと言えなかった。身分差を前に、黙ってしまっただろう。王女だった頃の自分は、最後まで「行かないで」と叫べなかった。商家の娘だった自分も、平民だった自分も、あと一歩を越えられないまま終わった。


 でも今は違う。何度も届かなかったからこそ、今度こそ言える。

 ルミナリアは父を見上げ、はっきりと言った。


「私は、結婚相手を自分で選びたいのです」


 執務室の空気が、わずかに張りつめた。


 公爵は沈黙したまま娘を見る。その目に驚きがないのは、ある程度予想していたからかもしれない。


「相手は誰だ」


 低い声だった。


 ルミナリアは、一瞬だけ目を伏せた。


 名前を出した瞬間、すべてが大きく動く。それは分かっていた。けれどもう、怖さより先に来るものがある。


 今度こそ、離したくない。


「……ゼインです」


 言い終えたあと、心臓が大きく跳ねた。公爵は、すぐには何も言わなかった。

 ただ、その沈黙が短いのか長いのか、ルミナリアには分からなくなるほど、時間が重く伸びた。


 やがて、父は静かに口を開いた。


「お前は、公爵家の娘だ」

「承知しています」

「相手は護衛だ」

「承知しています」

「周囲がどう言うかも分かっているな」

「はい」

「それでもか」


 ルミナリアは、迷わず頷いた。


「それでもです」


 声は震えなかった。

 不思議なくらい、真っ直ぐに出た。


「私は何度も、届かないまま終わるのはもう嫌なのです」


 公爵の目が、そこでわずかに揺れた。父に伝わる言い方ではないと分かっていても、ルミナリアは止めなかった。


「立場があることも、家の事情も分かっています。でも……それでも、今度こそ自分で選びたいのです」


 執務室はしばらく静まり返った。

 やがて公爵は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。


「母にはまだ話していないな」

「はい」

「先に私へ来たのは正しい」


 その言い方に、ルミナリアは少しだけ息を詰めた。

 怒鳴られもしない。頭ごなしに否定もされない。その代わり、父は現実だけをきちんと見ている。


「お前の気持ちは分かった」


 公爵はそう言った。


「だが、感情だけで認められる話ではない」

「……分かっています」

「私が見るのは、あくまで現実だ」


 ルミナリアは膝の上で手を握りしめた。


 分かっていた答えだった。


 それでも胸は少し痛んだ。けれど、それは拒絶ではない。門前払いではなかった。現実を越える理由を示せ、と言われているのだ。


 ならば、まだ終わっていない。


「ゼイン本人にも、話を聞く」


 公爵は淡々と言った。


「それで判断する」


 ルミナリアはゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 その言葉が自然に出たのは、父が一度はちゃんと受け止めてくれたからだった。


    *


 その夜、ルミナリアはゼインを温室ではなく、別邸の裏庭へ呼び出した。


 もう隠す必要はないと思ったのだ。もちろん人目は避ける。けれど、以前のような「言葉になる前の揺れ」を抱えて会うのではなく、今夜ははっきりと伝えるために。


 庭には夜露が落ち、白い花が静かに香っていた。


 どこまでも、この二人の恋は白い花と月に縁があるらしい。


 ゼインはすぐに来た。夜の中を歩いてくる姿を見るだけで、ルミナリアの胸はやはり少し熱くなる。もう正体を知っていても、何度確かめても、会うたびに「やっと」という感覚がまだ消えない。


「どうした」


 近づいてきた彼が訊く。

 ルミナリアは一瞬だけ彼を見つめ、それから単刀直入に言った。


「お父様に話したわ」


 ゼインの表情が一瞬止まった。


「……何を」

「あなたを選びたいって」


 夜気が、ぴんと張った気がした。

 ゼインはほんのわずかに目を見開いたあと、すぐに苦い顔になった。


「ルミナリア」

「怒らないで」

「怒ってはいない」

「じゃあ、困ってる?」

「かなり」


 あまりに即答で、ルミナリアは少しだけ笑ってしまいそうになる。けれど今は笑って誤魔化す場面ではない。


「でも、本当のことでしょう」


 ルミナリアは一歩近づいた。


「私はそうしたいの」


 ゼインは目を伏せた。


「……あなたは、公爵令嬢だ」

「知ってる」

「俺は違う」

「それも知ってる」

「なら」

「それでもよ」


 ルミナリアの返事は早かった。


「それでも、今度こそあなたを選びたいの」


 ゼインが顔を上げる。


 月明かりの下で、その瞳は驚くほど静かだった。静かすぎて、そこにある感情の深さがかえってよく分かる。


「今まで、ずっと立場のせいで届かなかった」


 ルミナリアは続けた。


「王女だったときも、商家の娘だったときも、平民だったときも、全部そう。立場が違って、届きそうで届かなかった」


 喉の奥が少し熱い。


「でも今度は、私が選ぶ」


 その言葉に、ゼインの喉がかすかに動く。


「たとえ何かを失っても?」

「ええ」

「家の立場も?」

「それでもいい」


 ルミナリアは迷わなかった。


 本当に、それでもよかった。


 ここまで何度も失ってきて、ようやく手が届いたのだ。爵位や評判が大事ではないとは言わない。でも、この人を前にしたとき、それらが絶対ではなくなる自分を、もう知ってしまった。


 ゼインは少しだけ苦しそうに目を細めた。


「……俺は、それでいいとは思えない」


 ルミナリアは眉を寄せる。


「どうして」

「あなたを軽んじられる形にはしたくない」


 その答えは、あまりにも彼らしかった。ルミナリアは一瞬、言葉を失う。

 自分は捨ててもいいと思っているものを、彼は「捨てさせたくない」と思っている。


 そこにあるのは打算ではない。むしろ逆だ。彼はずっと、自分よりルミナリアの立場や尊厳を大事にしている。


 だからこそ、この人は王女だった頃も、自分の気持ちより先に立場を理解してしまったのだろう。


 そして今も。


「……ばか」


 ルミナリアは、泣きたくなるのを堪えながら言った。


「本当に、そういうところ変わらない」

「変わらないのはお互いだろう」


 少しだけ低い声で返されて、ルミナリアは唇を噛んだ。


 その通りだ。


 自分も変わらない。手を伸ばし続けることをやめられない。

 でも、彼もまた変わらない。好きだからこそ、簡単に奪えない人なのだ。


 その時だった。


 後方で、枯れ枝を踏むような小さな音がした。

 ルミナリアとゼインが同時に振り向く。


 そこに立っていたのは、公爵だった。


「お父様……!」


 ルミナリアは思わず声を上げた。


 どこから聞いていたのか。少なくとも最後の方は確実に聞かれていたに違いない。けれど公爵は怒った様子もなく、ただ静かに二人を見ていた。


「話が早くて助かる」


 低い声でそう言い、父はゆっくり近づいてきた。

 ゼインはすぐに片膝をつこうとしたが、公爵は手で制した。


「そのままでいい」


 そして、今度は真っ直ぐにゼインを見る。


「娘は、自分で選びたいと言った」


 ゼインは背筋を伸ばしたまま答えた。


「……はい」

「お前は、自分では足りないと思っている」

「はい」

「だが、その理由が『娘の立場を軽んじたくないから』だと言うのなら、聞く価値はある」


 ルミナリアは息を呑んだ。

 ゼインの横顔もまた、わずかに緊張している。


 公爵は続けた。


「お前が裏で動いていたことは、すでにいくらか報告を受けている」

「……どこまで」


「学園で娘が余計な火種を拾わぬよう、先回りしていたこと。夜会の直前、娘に近づこうとした不審な侍女の身元を洗い、裏で処理したこと。落馬事故の原因となった鞍の細工を調べ上げ、関与した者を炙り出したこと」


 ルミナリアは目を見開いた。最後の二つは初耳だった。

 落馬事故は原作通りの単なるアクシデントだと思っていた。だが、違ったのか。


 ゼインは少しだけ目を伏せた。


「大事にしたくなかったので、報告は最小限に」

「それが気に入らん」


 公爵は即座に切り返した。


「功績は報告しろ。黙って処理するな」


 その言い方は厳しいが、否定ではなかった。

 ルミナリアの胸の奥に、少しずつ希望が灯る。


 公爵はさらに言った。


「加えて、国境沿いで起きていた密輸と武器流通の件、お前が掴んだ情報が王都の捜査へ繋がったと聞いている」


 ルミナリアは息を止めた。そんなことまで。


 ゼインは護衛としてそばにいるだけではなかったのだ。裏でずっと、功績を積み上げていた。彼女を守るために。公爵家を守るために。そしておそらく、それだけではなく、この世界で自分が彼女の隣に立てるだけの現実を作るために。


 ゼインはようやく低く答えた。


「……必要なことをしただけです」

「必要なことをした結果が、爵位に値する働きであれば話は別だ」


 公爵の声は静かだった。

 だがその一言が落ちた瞬間、庭の空気が変わった。


 ルミナリアは父を見る。

 ゼインもまた、わずかに目を見開いている。


「王家からも、近く褒賞の話が出るだろう」


 公爵は淡々と告げた。


「私の方でもすでに働きかけている」

「お父様……」

「勘違いするな、ルミナリア」


 公爵は娘の方を見た。


「私は恋にうかれた娘に甘い夢を見せるつもりはない」


 その言葉にルミナリアは息を詰める。

 けれど父の視線は、厳しくはあっても冷たくはなかった。


「だが、現実を越えるだけの理由と実績があるなら、話は別だ」


 胸の奥で何かが熱くなる。


 ゼインは言葉を失っているようだった。いつも沈着な彼が、今ばかりは何を言えばいいのか分からない顔をしている。


 公爵はそんな二人を見て、短く息を吐いた。


「私は娘を売り物のように扱う気はない。だが、娘の相手には相応のものを求める」


 そして、ゼインへ向き直る。


「お前がそこへ立つつもりがあるなら、示してみせろ」


 ゼインの表情が、ゆっくりと引き締まっていく。

 その目の奥に、これまでとは違う光が宿るのを、ルミナリアは見た。


「……はい」


 低いが、迷いのない声だった。


「必ず」


    *


 それからの数週間は、慌ただしく過ぎた。


 王都では密輸と武器流通の摘発が本格化し、その裏で動いていた人物たちの処分が進んだ。ゼインの掴んだ情報と働きがなければ、もっと大きな混乱になっていたらしいと、後からルミナリアも知ることになる。


 加えて、彼が公爵家の護衛としてだけでなく、王家に対してもいくつか重要な進言をしていたことが明らかになった。もともと目立つことを好む男ではない。だからこれまで表へ出なかっただけで、実際には相当な実績があったのだ。


 その結果、春の終わり、王城で小さな叙任式が行われた。


 それは大げさな祝典ではなかった。けれど、重みのある式だった。


 ルミナリアは公爵家の一員として列席し、静かな表情のままその場にいた。内心では胸がうるさいほど鳴っているのに、外から見れば完璧な公爵令嬢にしか見えないだろう。そういう顔をすることには慣れている。


 広間の床に差し込む光。深紅の絨毯。王家の紋章。張りつめた空気の中で、ゼインは前へ進み出た。

 黒の正装に身を包み、まっすぐに頭を垂れる姿は、驚くほど美しかった。


 ああ、この人は本当に、どんな人生でも真っ直ぐに立つのだな、とルミナリアは思う。


 王より、功績を認める言葉が告げられる。

 爵位は高くない。だが、それで十分だった。


 ただの護衛ではない立場が与えられる。功績に対して世界が応える。

 何より、その場にいる誰もが彼を軽んじない。


 それを見届けた瞬間、ルミナリアの目の奥が熱くなった。


 ようやく。


 ようやく、ここまで来た。


 何度も身分差に阻まれてきた恋が、今度はちゃんと現実の中で形になっていく。


 夢ではなく。おとぎ話でもなく。

 ちゃんと、この世界の理で認められながら。


 式のあと、公爵はルミナリアの隣で低く言った。


「これで、最低限の土台はできた」


 ルミナリアは父を見上げる。

 公爵は厳しい顔のままだったが、その声音にはごくわずかな柔らかさがあった。


「その先をどうするかは、お前たち次第だ」


 ルミナリアは、静かに頷いた。


「はい」


    *


 その夜、ルミナリアは再び温室へ向かった。


 最初に心をほどいた場所。夜の花と月の下で、長い遠回りの末にようやく言葉が届き始めた場所。


 ここがふさわしいと思った。


 ガラス越しの月は満ちかけていて、花々の白さをやわらかく照らしていた。温室の中は静かで、外の風も今夜は穏やかだった。


 ルミナリアはひとりで立ち、指先でそっと花弁に触れた。


 あの日、王女だった自分は、窓辺で彼に「次こそは」と言った。


 それからどれほど遠回りをしただろう。


 何度生まれ変わっても、途中で切れた。届きそうで届かなかった。ようやく気づいたと思ったら失った。探して、探して、探して、それでも駄目で。


 ひかりになった時は、本気で世界中へ手を振ろうと思った。

 そのくらいしないと届かないと思ったからだ。


 でも今は違う。もう、ここにいる。


「ルミナリア」


 低い声に振り返る。


 ゼインがそこにいた。


 叙任式のあとだからだろう、いつもの護衛服ではなく、まだ少し改まった装いのままだ。だが王城の場にいた時の張りつめた空気はなく、今の彼はひどく静かに見えた。


 ルミナリアは彼を見るなり、少しだけ笑った。


「おめでとう」


 ゼインは目を細めた。


「ありがとう」

「ちゃんと認められたわね」

「……あなたの父上が動いてくださったからだ」

「それだけじゃないわ」


 ルミナリアは首を横に振る。


「あなたが積み上げてきたものよ」


 ゼインは何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は否定ではない。受け取っている沈黙だ。


 ルミナリアは彼の方へ歩み寄った。


 今度はもう、迷わなかった。


 距離が縮まる。少し前なら、それだけで彼はわずかに引いたかもしれない。けれど今のゼインは、その場に立ったままだ。


「これで」


 ルミナリアは彼の前で足を止める。


「あなた、自分を言い訳にできなくなったわね」


 ゼインが、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せる。


「まだ身分差はある」

「少しはね」

「少し、ではない」

「でも、昔よりずっとましでしょう?」


 その言葉に、ゼインは否定しなかった。


 ルミナリアは見上げた。


 月明かりの下で見る彼の顔は、何度見ても懐かしい。現代で見た視線とも、最初の人生で見上げた騎士の顔とも重なる。違うのに、同じだ。


「ねえ、ゼイン」

「何だ」

「私、あの時からずっと思ってたの」

「いつの話だ」

「最初の人生の、最後の夜」


 ゼインの瞳が静かに揺れる。

 ルミナリアは少しだけ笑った。


「手の甲にキスをしてくれたでしょう」


 彼の表情が、わずかに固まる。


「……ああ」

「綺麗だったわ」


 ルミナリアは言った。


「すごく、やさしくて。好きだった」


 ゼインは何も言わない。

 けれど、その喉が小さく動くのをルミナリアは見逃さなかった。


「でも」


 ルミナリアはさらに一歩近づいた。

 今度こそ、触れられるくらい近くへ。


「ずっと思ってたのよ」


 声が、少しだけ甘く掠れる。


「手じゃなくて、唇にほしかったって」


 その瞬間、ゼインの呼吸が明らかに乱れた。

 ルミナリアは胸の奥で熱が広がるのを感じる。


 やっと言えた。


 何度も途中で終わってしまったから、一度も辿り着けなかったこと。恋人になったはずなのに、戦争と死に別れが早すぎて、まともに恋人らしいことなど何ひとつできなかった。


 約束だけ残して、いつも終わった。

 でも今夜は違う。ここで、終わらせない。


「……ルミナ」


 その呼び方が落ちた瞬間、ルミナリアの胸が震えた。


 やっぱりその音が好きだ、と改めて思う。長い名前の中から彼だけが選んだ、やわらかくて、でも特別な呼び方。


 ゼインはしばらく彼女を見ていた。


 迷っているのではない。たぶん、堪えているのだ。


 ここまで来てもなお、本当に触れていいのかと、自分に問い続けている。ずっとそういう人だった。欲しいものほど簡単には手を伸ばさない。


 だからこそ、ルミナリアはそっと彼の服の胸元を掴んだ。

 もう逃がさないように。


「今度こそ」


 ルミナリアは静かに言う。


「ちゃんと、触れて」


 その言葉が終わるより先に、ゼインの手が彼女の頬へ伸びた。


 触れ方は、最初の人生と同じくらい慎重だった。指先が頬を包み、壊れ物を扱うみたいにそっと角度を変える。そのやさしさに、ルミナリアは思わず目を閉じた。


 唇が触れる。


 最初は、確かめるように。


 あまりにもやさしくて、これまでの人生の全部がその一瞬へ溶けていくようだった。王女だった夜も、祭りの川辺も、礼拝堂も、ひかりとして光の中へ立った日々も、悪役令嬢として手を振ろうとしたこの世界も、全部が静かに重なって、この口づけへ辿り着く。


 やっと。


 ほんとうに、やっとだ。


 ルミナリアの胸の奥が熱くなり、目を閉じたまま指先に力が入る。

 それを感じたのか、ゼインのもう片方の腕がそっと彼女の背へ回った。


 その抱き寄せ方に、ルミナリアは小さく息を呑む。


 近い。


 こんなふうに彼の腕の中へ収まるのは初めてだった。手の甲への口づけも、指先が触れるだけの夜もあった。でも、ちゃんと抱き寄せられて、ちゃんと唇を重ねるのは、これが初めてだ。


 何度生まれ変わっても、一度も辿り着けなかった場所。


 やさしいだけでは終わらなかった。


 少し離れたかと思うと、今度のキスはもう少し深く、もう少し切実だった。抑え続けていたものが、ようやく解けてしまったみたいに。長い時間を埋めるように、愛しさを確かめるように。


 ルミナリアの喉から、かすかな息が漏れる。

 それだけで、ゼインの指先がぴくりと揺れた。


 目を開けると、すぐ近くに彼の顔があった。灰青の瞳が、驚くほど熱を持って揺れている。普段はあんなに静かな人が、今だけはもう隠しきれないほど感情をあらわにしていた。


 ルミナリアは、その顔を見て、泣きたくなるほど幸せだった。


「……遅いわ」


 唇が離れたあと、掠れた声でそう言うと、ゼインは少しだけ目を細めた。


「悪かった」

「ほんとうに」

「もう、待たせない」


 その言葉に、ルミナリアの目の奥が熱くなる。


 待たせない。


 何度も待たされてきた。運命にも、時間にも、立場にも。でも今、ようやくこの人はそう言ってくれた。


 ルミナリアは泣き笑いのような顔で、彼の胸へ額を預けた。

 ゼインの腕が、今度はためらいなく彼女を抱きしめる。


 あたたかい。こんなにも、ちゃんとここにいる。


 昔みたいに月の夜に忍び込んできた騎士ではなく、遠くの祭りで振り返った誰かでもなく、画面の向こうからようやく届いたアイドルと観客でもない。


 同じ世界にいて、同じ夜を生きて、同じ未来へ進める相手として、今ここにいる。


 それがどれほど奇跡みたいなことか、ルミナリアはよく知っていた。


    *


 数か月後、ルミナリアとゼインの婚約は正式に認められた。


 もちろん、すべてが簡単だったわけではない。社交界では色々と言う者もいたし、「公爵令嬢がそこまで」と眉をひそめる声もあった。けれど、ゼインの功績と新たな立場、公爵家の明確な了承、そして何より当のルミナリアがまったく揺るがなかったことで、やがてそれらの声は静かになっていった。


 ルミナリアは相変わらず目立った。


 悪役令嬢としてではなく、公爵令嬢として。そして、自分の意思で彼を選んだ女として。堂々とゼインの隣に立ち、少しも恥じることなく彼を選んだ。


 ゼインもまた、もう後ろに隠れはしなかった。


 必要以上に前へ出ることはない。だが、ルミナリアの隣に立つことをためらわなくなった。その落ち着いた佇まいと実績が、やがて周囲に「なるほど」と納得させていく。


 選び合ったうえで、世界がそれを認める。


 それが今回の二人の結末だった。


 いや、結末ではなく、ようやく始まる未来なのかもしれない。


    *


 婚約が正式に整った夜、ルミナリアは別邸の庭をゼインと並んで歩いていた。


 春の終わりの風はやわらかく、白い花びらが時折ひらひらと舞っている。月は高く、噴水の水音が静かに響く。最初の人生で恋をしたあの庭によく似ていて、ルミナリアはふと足を止めた。


「どうした」


 ゼインが隣で訊く。


 ルミナリアは彼を見上げた。


「似てるなと思って」

「何に」

「最初の頃に」


 ゼインの表情が少しだけやわらぐ。

 ルミナリアは微笑んだ。


「あの時は、ここで終わるなんて思ってなかった」

「……ああ」

「でも今は、今度こそ終わらないって思える」


 ゼインはしばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに彼女の手を取る。


 指が絡む。


 昔は手を重ねるだけで精いっぱいだった。それだけで胸がいっぱいになった。けれど今は、こうして自然に指を絡められる。


「終わらせない」


 ゼインは低く言った。


「もう、二度と」


 ルミナリアはその言葉を聞いて、ゆっくり笑った。


「約束よ」

「ああ」


 彼はそう答え、それから少しだけ身を屈めた。


 ルミナリアも、今度は迷わず目を閉じる。


 触れる唇は、前よりももっと自然だった。やさしく、けれど確かで、二人の未来がそこに続いていくのが分かるような口づけだった。


 何度も人生を越えて、ようやく辿り着いた恋だ。

 だからもう、手に触れるだけでは足りない。


 唇に、声に、ぬくもりに、ちゃんと届いていたい。


 キスが終わると、ルミナリアは少し照れくさそうに笑った。


「ねえ、ゼイン」

「何だ」

「次に生まれ変わっても、ちゃんと見つけてね」


 半分冗談めかして言うと、ゼインは少しだけ目を細めた。


「その必要がないくらい、長く一緒にいるつもりだ」


 ルミナリアは吹き出した。


「そういうところよ」

「何がだ」

「真面目すぎるの」


 でも、好きだった。そういうところが、最初からずっと。


 ルミナリアは笑いながら、彼の肩へそっと寄りかかった。


 夜風が白い花の香りを運んでくる。月明かりに照らされた庭は静かで、やさしくて、少しだけ昔に似ていた。


 けれど今度は違う。


 今度は、途切れない。


 王女でも、アイドルでも、悪役令嬢でもない。どの人生の自分でもない、全部を抱えたままの自分として、ようやくこの人の隣へ辿り着いた。


 見つけてほしくて、光になった。

 何度届かなくても、手を伸ばすことをやめなかった。


 その先で、彼はちゃんと見つけてくれた。


 そして今度は、手を取るだけではなく、ちゃんと唇に触れて、未来を誓ってくれる。

 それがどれほど幸福なことか、ルミナリアは泣きたくなるほどよく知っていた。


 だから彼女は、彼の手をぎゅっと握り返した。


 もう離さないように。


 もう、見失わないように。


 何度も何度も遠回りしてきた恋は、ようやく今、祈りではなく現実になる。

 春の終わりの夜風が、白い花びらをひとひら、二人のあいだへ運んでいった。


 長い長い約束が、ようやく叶った夜だった。



ご覧いただきありがとうございます!

これにて本編完結です。ちょっとだけ番外編が続きます。

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