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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第73話「善意の限界」

大公謁見の間を支配する果てしなく重く冷たい沈黙を破ったのは上座の議席に座るレオンハルト王太子の微かに震える低い声であった。

広間の高い天井から吊るされた豪奢なクリスタルのシャンデリアが冷ややかな光を放ち彼らの表情の細部までを無慈悲に照らし出している。

壁際に立つ近衛騎士たちすらも息を殺して成り行きを見守る中彼は目の前に積み上げられた途方もない被害の記録を信じられないものを見るような目でただじっと見つめ続けていた。

その整った美しい顔にはかつてエリシアに婚約破棄を突きつけた夜に見せていたような冷酷さや傲慢さはもう微塵も存在しなかった。

そこにあるのはただ純粋な戸惑いと自分が信じてきた美しい世界が根底から崩壊していくことに対する深い悲痛の色だけである。

「私はただ民に寄り添いたかっただけだ」

レオンハルトの口から静かに絞り出されたその言葉は決して責任逃れのための醜い言い訳などではなかった。

彼は本気でこの国の民を愛し冷たい規則や無慈悲な法で彼らを縛りつけることを何よりも極端に嫌ってきた人間なのだ。

権力者が高みから民を見下ろすのではなく自ら民と同じ目線に立ちその声に直接耳を傾けることこそが真の王の姿だと彼は理想を掲げてきた。

困っている者がいれば直ちに例外を認めて手を差し伸べ温情をかけることこそが為政者としての正しい在り方だと信じて疑わなかったのである。

「規則だからと無慈悲に切り捨てるのではなく一人一人の切実な痛みに寄り添い救い上げる。そのことの何が間違っているというのだ」

彼が絞り出した言葉には切実なまでの真剣さと純粋な思いが満ちていた。

「私はこの国をより優しく温かいものにしたかっただけで決して誰かを苦しめようなどと意図したことは一度もない。私の心に彼らを虐げるような悪意など微塵もなかったことだけはどうか信じてほしい」

王太子のその切実な弁明には彼自身の生まれ持った善良さと誰の目にも明らかな悪意の不在がはっきりと示されていた。

実際議席に座る権力者たちの中にも彼のその純粋な善意の吐露に心を動かされ微かな同情の視線を向ける者すら現れ始めている。

悪意なき善意こそが最も美しい盾となり再びこの場を見せかけの温かい空気で包み込もうとしていた。

冷酷な現実から目を背けて優しい空気ですべてを覆い隠そうとする王宮特有の悪しき習性がまたしても頭をもたげようとしているのだ。


しかし証言台に立つエリシアの氷のように透き通った瞳はそんな薄っぺらい空気に微塵も揺らぐことはなかった。

かつての彼女なら自分を理不尽に捨てた王太子に対して見苦しい恨み言をぶつけ感情的な復讐を果たそうとしていたかもしれない。

しかし今の彼女の胸の奥底には恋愛上の憎しみや惨めな自己憐憫など微塵も残されていなかった。

彼女はインクと埃で黒く汚れた素手で分厚い報告書の新たなページをゆっくりとめくり静かにそして決定的な反証の言葉を紡ぎ始める。

「たしかに殿下は道端で泣いている子供に自らの小遣いを与え貧しい病人のために高価な薬を王宮の蔵から惜しげもなく分け与えてこられました。さらに不作で苦しむ農村には自らの権限で年貢の減免を命じるなどその慈悲深いお姿に多くの民が涙を流して感謝し殿下を素晴らしい次期国王だと讃え慕ってきたことも紛れもない事実です」

エリシアは王太子の過去の善行を一切否定することなく真っ直ぐな言葉で認めた。

その落ち着いた声は怒りではなく確かな記録と証明の響きを持っていた。

「殿下のお心根がどれほど優しく慈愛に満ちたものであるかはこの場にいる誰もが深く理解しております。殿下に悪意がないことなど初めから分かりきっているのです。しかし殿下が個人的な温情で例外を許し現場の規則を無邪気に曲げたその瞬間に何が起こるかをご想像されたことはおありでしょうか」


エリシアは提出された証拠の束から一枚の古びた書類を引き抜き真っ直ぐに上座へと掲げてみせた。

王太子の顔から急速に血の気が引き彼の手が微かに震え始める。

「殿下が貧しい商会を救うために特例で認めた関所税の免除記録です。殿下のその温かい善意のおかげで彼らはたしかに救われました」

そこまで語ったところでエリシアの声の温度が一気に下がり冷徹な刃のような鋭さを帯び始める。

「しかし殿下の無責任な特例のせいで現場の徴税官たちは免除された分の不足額を埋め合わせるために他の無関係な商人たちから過酷な搾取を行わなければならなかったのです。殿下が一部の者に与えた優しい例外の皺寄せは必ずどこかの名もなき弱い者たちの背中に暴力となって重くのしかかります。殿下は目の前にいる可哀想な者を救って美しい感謝の言葉を受け取り自分は民に寄り添う良い統治者であるという甘い陶酔に浸っていただけかもしれません。しかしその背後の暗闇で殿下の見えない善意に完全に押し潰されていった者たちの途方もない悲鳴に一度でも耳を傾けられたことはありますか」


その言葉の持つあまりの残酷な真実の重さにレオンハルトは息を呑み微かに身をよろめかせた。

彼が信じていた優しさという理念はただ現場の末端に途方もない負担と混乱を押し付けていただけの無責任な偽善であったのだ。

特例を出すことは簡単でもそれを実務として処理し辻褄を合わせる現場の苦労など彼は一度も想像したことがなかったのである。

エリシアの冷酷な追及はなおも止まることなくこの国の根幹を成す統治の思想そのものへと深く鋭く踏み込んでいく。

「誰かに優しく寄り添い好かれることと国家の重い責任を自らの肩に負うことは全く別のものです。柔らかく温かいだけの心ではこの広大で複雑な国を正しく統治することなど到底不可能なのです。善意だけで制度を勝手に動かし不都合な痛みを無自覚に切り捨ててきた結果がこの途方もない悲鳴の集積なのです」

大公謁見の間に響き渡るその凛とした声には無数の痛みを泥臭く拾い集めてきた者だけが持つ圧倒的な説得力が宿っていた。

一人の自立した強固な意志を持つ人間がこの国の最高権力者に対してよき人であることと王に足ることの決定的な差を真正面から突きつけているのだ。

彼女の放つ熱量はこれまでに彼女が王立苦情処理局の薄暗い執務室で一つずつ集めてきた真実の重みを完璧に代弁している。

これまで誰も直視しようとしなかった王宮の偽善が彼女の言葉によって白日の下に完全に引きずり出された瞬間であった。

この美しくも残酷な国家が今まで何を隠してきたのかがすべての出席者の眼前に明らかになっていく。


レオンハルトは自らの足元からこれまで信じてきた世界が音を立てて完全に崩れ去っていくのをはっきりと感じていた。

彼は上座の議席でまるで魂を抜かれた抜け殻のように虚空を見つめ続けている。

自分がよき人であろうと努めてきたその純粋な善意こそが無数の民を押し潰していたという事実は彼の精神を無惨に打ち砕いた。

彼が愛した民の笑顔の裏側でこれほどまでに深く凄惨な涙が流されていたという事実は彼からすべての気力を奪い去るのに十分だった。

自分こそがこの国の病理の最大の原因であったという残酷な真実を叩きつけられ彼はもはや為政者としての権威を一切保つことができない。

王に足る人間ではなかったという究極の敗北宣告を前にして彼はもはや一言の反論すら紡ぎ出すことができずただ力なく議席の背もたれに深く身を沈めるしかなかった。


彼の隣に座る王妃もまた自らが信奉してきた美しい大局という論理がエリシアの泥臭い真実の前に完全に粉砕されたことを悟り深い絶望の中でただ俯いている。

かつて優雅なお茶会で語っていた大局のための犠牲という美学がどれほど冷酷で無責任なものであったかを思い知らされたのだ。

議席に並ぶ教会の司教たちや特務監査局の幹部たちそして優秀な実務官僚たちも全員が完全に押し黙りエリシアの放つ凄絶な静けさの前にひれ伏していた。

権力者たちは誰もが自分自身の抱える身勝手な善意の暴力性に気づかされもはや何一つ反論の言葉を見つけ出せなくなってしまったのである。

大公謁見の間は今や圧倒的な真実の重力に押し潰され指一本動かすことすら許されないような息苦しい空間へと変貌を遂げていた。


背後に控えるユリウスは無言のまま腕を組み凄絶なまでに美しい相棒の戦う背中をただ静かに見守り続けていた。

彼がその大きな掌で何度も確かめた分厚い書類の束の重みは今やこの国の歴史そのものを完全に塗り替えるほどの絶対的な力を持っている。

声高な演説や力任せの権力闘争で国をひっくり返すのではなくただ名もなき人々の小さな痛みを一つずつ積み上げることで権力の中枢を完全に沈黙させたのだ。

これまで事勿れ主義に埋もれていたすべての真実が今まさにこの白日の下に晒されている。

果てしない沈黙が支配する広間の中心でエリシアはインクで汚れた自らの素手で静かに最後の報告書を閉じた。

分厚い革表紙が重く冷たい音を立てて合わさるその響きが新たな時代の幕開けを厳かに告げている。

そして彼女は誇り高く真っ直ぐに顔を上げ未来へと続く確かな視線を向けたのである。


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