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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第71話「査問会開幕」

王宮の最深部に位置する大公謁見の間は息詰まるような威圧感と重苦しい沈黙に支配されていた。

高い天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが冷たい光を放ち磨き抜かれた大理石の床がその光を鋭く反射している。

壁際に並ぶ巨大なステンドグラスからは色鮮やかな光の柱が差し込んでいるものの部屋全体を覆う重苦しい沈黙は少しも晴れることはない。

今日この場には王宮の権力の中枢を担う者たちが一堂に会していた。

国王の代理として上座に座るレオンハルト王太子とその傍らに控える王妃。

厳格な教義を司る教会上層部の司教たちや強大な武力を誇る騎士団の幹部たち。

さらには経済を裏で操る大商会の代表や実務を取り仕切る上級官僚そして高位の貴族たち。

彼らがそれぞれの思惑を隠し持ちながら半円形に配置された重厚な木製の議席に座っている。

議席に座る権力者たちの顔には明らかな侮蔑と苛立ちの色が浮かんでいた。

取るに足らない民の不満を処理するだけの掃き溜めのような部署が国家の要所を呼び集めるなど身の程知らずにも程がある。

彼らの冷ややかな視線と鼻で笑うような嘲笑のざわめきが部屋のあちこちから微かな衣擦れの音とともに漏れ聞こえてくる。


重厚な木製の両開き扉が低い音を立ててゆっくりと開かれた。

謁見の間に集まった数百の視線が一斉にその扉の向こう側へと突き刺さる。

そこに姿を現したのは濃紺の簡素なドレスに身を包んだ一人の令嬢だった。

エリシアは装飾を削ぎ落とした出で立ちで威圧的な視線の豪雨を真正面から受け止めた。

彼女の少し後ろにはいつものように気怠げな足取りのユリウスが静かに付き従っている。

彼はいかなる不測の事態が起きようとも彼女を守り抜くという強固な盾としてそこに存在していた。

エリシアは両腕に抱えた途方もなく重い分厚い革張りの最終報告書をしっかりと胸に抱き直す。

彼女の両手にはかつて身につけていた純白の絹の手袋ははめられていない。

古い書類の埃とインクの染みがこびりついたひどく不格好で泥臭い素手が王宮の眩い光の下に真っ直ぐ晒されていた。


エリシアが一歩ずつ大理石の床を踏みしめて中央の証言台へと進むその硬い足音だけが広間に響き渡る。

彼女の脳裏にかつてこの王宮の華やかな卒業舞踏会で婚約破棄を突きつけられたあの屈辱の夜の光景が鮮明に蘇っていた。

あの日の彼女もまた今日と同じように数え切れないほどの冷酷な視線に取り囲まれていた。

周囲の誰もが事実を確かめようともせずただ王太子が語る冷酷で思いやりがないという印象だけで彼女を一方的に裁いた。

反論すら許されない圧倒的な同調圧力に押し潰されそうになりながら彼女は必死に純白の手袋で自分を覆い隠し完璧な微笑みを顔に貼り付けて耐え忍ぶしかなかった。

自分が崩れ落ちてしまわないよう爪が掌に深く食い込むほど拳を握りしめていたあの夜の孤独な痛み。

あの時の自分は周囲の冷たい視線にただ一方的に裁かれるだけの無力で哀れな生贄にすぎなかった。

しかしいま大理石の床を踏みしめる彼女の足取りにかつてのような実体のない恐怖による震えは存在しない。

彼女はもう無言の圧力に怯えて身をすくませるようなお飾りの悲劇のヒロインではないのだ。

腕の中にはこの国が善意という美しい名のもとに見殺しにしてきた無数の人々の血を吐くような悲鳴が確かに抱えられている。

自分は彼らの見限られなかった希望をこの場に届けるためだけにここに立っているのだという強固な使命感が彼女の背筋を真っ直ぐに貫いていた。

かつて周囲の視線に裁かれた少女は今度は自らの泥臭い手でこの美しく腐りきった王国の秩序を変えるために戻ってきたのである。


証言台の前に到達したエリシアは抱えていた分厚い報告書を重い音を立てて台の上に置いた。

その鈍い響きが静まり返った謁見の間に波紋のように広がっていく。

議席の上段からレオンハルト王太子がどこか憐れむような複雑な視線を彼女に向けていた。

彼の隣に座る王妃は完璧な優雅さを保ったまま冷ややかに事の成り行きを見守っている。

特務監査局の幹部たちや教会の司教たちもこの身の程知らずの令嬢が何を語るのかと値踏みするような鋭い視線を投げかけていた。

彼女が少しでも見苦しい怒りや個人的な恨み言を並べ立てればすぐに秩序を乱す不純物として完膚なきまでに叩き潰す構えである。

波風を立てないための美しい統治の論理を手放すまいとする冷酷な待ちの姿勢が議席全体に重く満ちていた。

しかしエリシアは彼らの予測を軽々と飛び越えていく。

彼女は議席を見上げることはせず手元にあるインクで汚れた報告書の表紙を素手で静かに撫でた。

そしてゆっくりと顔を上げ謁見の間に集まった権力者たちを一人残らず見据えるように視線を巡らせた。

その瞳には怒りも自己憐憫の涙も浮かんでいない。

ただどこまでも深く透き通った氷のような静けさと真実を逃さないという凄絶なまでの熱だけが同居していた。

会場を包み込んでいた見下すような嘲笑のざわめきが彼女の静かな迫力を前にして少しずつ得体の知れない緊張感へと変質していく。


エリシアは一つ深呼吸をして静かに口を開いた。

「本日は王国の各界を代表する皆様にこの合同査問会へお集まりいただき心より感謝申し上げます。私が本日この場に持ち込みましたのは特定の個人の罪を暴くための告発状ではありません。また私自身の不当な扱いに対する個人的な恨みを訴えるためのものでもありません」

凛とした透き通るような声がシャンデリアの光の下で冷たく響き渡る。

「ここにありますのはこの美しい王国が長年にわたり大局的な秩序という善意の名のもとに意図的に何を見落としてきたのかを示す記録です。誰の悲鳴を聞かなかったことにしてきたのかを示す極めて正確な隠蔽の歴史なのです」

広間の空気がピタリと凍りつき参列者たちの視線が報告書へと注がれた。

「皆様はこの記録の束を見てもただの些細な厄介事の山であるとしか思われないかもしれません。事実ここに綴られているのは王宮の根幹を揺るがすような壮大な陰謀論などではありません。私がまず皆様にお聞きいただきたいのは王立学舎の厨房の奥深くで巧妙に横流しされ続けてきたごく微量な砂糖の記録についてです」


予想外の角度からの言葉に議席のあちこちから戸惑いのどよめきが微かに巻き起こった。

王妃の完璧な微笑みがほんの一瞬だけピクリと硬直したのをエリシアは見逃さない。

個人の悪を断罪するのではなくこの国の統治の構造そのものを裁きに来たという途方もない宣言。

しかも国家の重大な危機を審議する場に持ち出されたのがたかが数グラムの砂糖の話だという滑稽さ。

やはりこの令嬢は苦情処理局というゴミ捨て場で些末な雑務に頭をやられてしまったのだと多くの者が呆れ顔で囁き合う。

しかしエリシアは彼らの失笑を気にかけることなく素手で報告書の表紙をめくり淡々と真実の糸を引き出し始めた。

「たかが砂糖の話だとお笑いになるでしょう。しかしこの小さな特権の例外を見逃し隠蔽し続けた結果現場で何が起きていたか皆様はご存知でしょうか。その微量な砂糖の横流しを黙認させるために厨房の下働きたちは日常的に声を上げることを禁じられ不当な圧力を受け続けてきました。この小さな沈黙の強要こそがやがて王宮のあらゆる場所で不都合な真実を握り潰すための土壌へと育っていったのです。波風を立てないために見逃された小さな痛みがどのようにしてこの国の巨大な歪みへと繋がっていったのか。私はその連鎖を一つずつ皆様の目の前で証明いたします」


彼女の静かで淡々とした語り口には感情的な誇張や嘘は含まれていない。

ただ徹底的に調べ上げられた事実と事実の冷酷な繋がりだけがそこにはあった。

彼女の後ろで腕を組んで立つユリウスが微かに口の端を歪めて頼もしい笑みを浮かべる。

派手な弁舌で相手をねじ伏せるのではなく最も小さく地味な事実から退路を塞ぎ相手の美しい善意の仮面を一枚ずつ確実に剥ぎ取っていく。

それこそがインクに塗れた素手で泥臭い真実を拾い集め続けた彼女だけが持つことのできる鋭い武器なのだ。

砂糖から始まったその小さすぎる告発がやがて王国の最も深く暗い病巣を暴き出すことを今はまだ誰も知らない。


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