第70話「前夜」
王都の空に冷たい夜の帳が下りて、深い静寂が壮麗な侯爵邸全体をすっぽりと包み込んでいた。
合同査問会を明日に控えた夜半、エリシアは自室のアンティークの机の前に静かに座り、手元を照らすランプの揺らぐ炎をじっと見つめている。
彼女の視線の先には、絹で繊細に編まれた純白の手袋がぽつりと置かれている。
それはかつてディートハルトを理不尽な権力から救えなかったあの雨の日に、無惨に裂けてしまったもののままだ。
修繕に出して元通りの美しい姿に戻す時間は、これまでにいくらでもあったはずである。
引き出しを開ければ新しく寸分の狂いもない完璧な手袋を新調することだって容易にできた。
しかし彼女は裂けた糸のほつれをそのままにして、ただ静かにその無惨な残骸を見つめ続けていたのだ。
なぜ修繕しなかったのか——今夜初めて、その問いを自分に向けてみた。
直そうとして、止めた日があった。針を刺して指から血が出た日のことを覚えている。
あの時の血の染みは、ディートハルトへの罪の痕跡のように見えた。
修繕してしまえば、その傷のことを忘れてしまうような気がした。
しかし今夜、その手袋を見つめながら、別の答えが浮かんだ。
修繕しなかったのは、もう必要がないと知っていたからかもしれない。
鎧としての手袋は、すでに役目を終えた。
裂けたまま引き出しに眠っているそれは、過去の自分の証であり、今の自分が選んだ道の出発点だ。
明日はいよいよ王国のすべての要所が一堂に集う合同査問会という最大の戦いの舞台が開かれる日である。
エリシアは机の上の裂けた手袋にそっと触れると、それを引き出しの奥深くへと静かにしまい込んだ。
明日の合同査問会に、彼女はもうこの完璧さの鎧を身につけていくことはない。
長く冷たい夜が明けて東の空から差し込む力強い朝日がエリシアの部屋を明るく照らし出し始めた。
彼女は静かに立ち上がり、王宮へ赴くための簡素で動きやすい濃紺のドレスに身を包んだ。
過剰なレースの装飾も華美な宝石も一切身につけず、ただひたすらに真実を届けるためのただ一人の人間としての凛とした姿が姿見の中に映し出されている。
両手は純白の手袋で覆われることなく、古いインクの染みが残る素手のままであった。
彼女は大きく深く息を吸い込み、自らの内側で静かに燃え盛る覚悟の炎を確かめると、重い木の扉を開けて自室を後にした。
一階の広々とした玄関ホールでは父と母が固い面持ちで彼女の出立を静かに待っていた。
母はエリシアのインクで黒く汚れた素手を両手でそっと包み込み、祈るように力強く強く握りしめたのである。
その手から伝わる確かな温もりと静かな無言のエールがエリシアの胸の奥底を深く強く打った。
「行ってまいります」
エリシアの真っ直ぐで透き通った言葉に、母は何も言わずにただ涙を堪えながら深く頷いた。
家族の温かい視線を背中に受けながら玄関の重い扉が開かれると、冷たくも清々しい朝の空気が彼女の頬を優しく撫でた。
御者台の横には、いつもの気怠げな姿勢で安価な葉巻をくわえたユリウスの姿があった。
彼はエリシアの素手とドレス姿をひと瞥すると、微かに口の端を緩めて無言で馬車の扉を開いた。
彼のその視線には、言葉にする必要のない確かな信頼が込められていた。
彼女の足元には微かな震えが確かに残っていた。
それはかつてのような絶望による震えではなく、これから始まる途方もない戦いの重さを完全に理解しているからこその震えである。
彼女は素手のまま、王宮の合同査問会へと続く長い道を力強く真っ直ぐに歩み始めたのである。




