第67話「善意の隠蔽」
王立苦情処理局の薄暗い執務室は古びた紙の饐えた匂いとどこか重苦しい静寂にすっぽりと包み込まれていた。
窓の外では長く降り続いた冷たい雨がようやく上がり分厚い鉛色の雲の切れ間から差し込む青白い朝日が部屋の中に長く冷たい影を落としている。
巨大な執務机の上には何十年ものあいだ日の目を見ることのなかった膨大な数の書類が隙間なく敷き詰められている。
エリシアとユリウスは向かい合わせに座りインクと埃で黒く汚れた指先を黙々と動かして無数の点と点を結びつけていった。
特別査問会に向けて押収した裏帳簿や賄賂の記録。
ミレーユの証言から得た人事記録と贈答品のリスト。
さらに旧保管庫から運び出した古い陳情書の山。
それらは時代も発生場所も全く異なるはずなのに奇妙なほど規則的な法則性を持って互いに深く絡み合っていた。
エリシアは壁に張った大きな白紙に関連する組織や人物の名前を一つずつ丁寧に書き出していく。
王宮の奥深くで絶大な権力を握る王妃やかつてユリウスが所属していた旧監察局の幹部たち。
さらには民の精神的な支柱である教会上層部や現場の実務を仕切る複数の優秀な官僚たちの名前が並ぶ。
彼らの名前の間に引かれた黒いインクの線は複雑に絡み合い次第に巨大な蜘蛛の巣のような禍々しい幾何学模様を壁一面に形成し始めていた。
それは王宮という閉鎖された美しい空間を裏側から強固に支える冷酷な骨組みそのものであった。
アルヴェイン伯が私兵団の維持費を捻出するために利用した地方関所での理不尽な過剰徴税記録。
それをただ黙認して放置していたのは国の財政安定を最優先とする王宮の優秀な実務官僚たちであった。
彼らは地方の小さな村が一つ完全に干上がろうとも王都への物資供給が滞りなく確実に行われるのであれば全く問題ないと考えた。
その程度の少数の犠牲は美しい国を全体として維持するための必要経費だと見なして極めて冷酷に切り捨てていたのだ。
王宮内の若い侍女たちが劣悪な労働環境と身勝手な暴力に耐えかねて上げた悲痛な訴えの握り潰しもまったく同じ構造である。
王妃の側近である侍女長や高位の貴族たちは王宮という最も美しくあるべき場所で醜い揉め事が表沙汰になることを極端に嫌悪した。
声を上げた無力な侍女たちをひっそりと解雇することで波風の立たない完璧な秩序をただひたすらに保っていたのである。
教会の権威を盾にした強引な婚姻調整や特務監査局が不都合な真実を消したのも同じ事勿れ主義の論理に基づいていた。
有力な貴族同士の対立を避けるためならば辺境の令嬢一人の人生や善良な部下の命などいくらでも踏みにじって構わなかったのだ。
一見するとそれぞれが全く別の組織であり異なる目的で独立して動いているように見える。
しかしその根底にある冷酷な論理を探っていくとすべての線が恐ろしいほどに完全に一致していることが明確に浮かび上がってきた。
エリシアは壁の巨大な相関図を見つめたままかつて純白の手袋で身を守っていた己の姿を重ね合わせて思い起こす。
壁に書き出された彼らの目的のどこを探しても民を不当に苦しめてやろうという醜く個人的な悪意は見当たらなかった。
王妃も実務官僚も教会上層部も誰もが本気でこの美しい王国の未来を憂い全体の調和を守ろうとしていただけなのだ。
国の安定という大義名分や無用な対立の回避という誰の目にももっともらしい完璧な理由。
大きな平穏を確実に維持するためには小さな痛みを犠牲にするのは為政者として仕方のないことだという残酷な割り切り。
善意と秩序という美しく輝かしい名のもとに名もなき人々の切実な痛みはいつしか切り捨ててもよいものへと変質させられていたのだ。
「誰も悪気なんて微塵もなかったのですね」
エリシアは乾ききった唇を微かに震わせ相関図の黒い線をインクで汚れた指先でなぞりながらぽつりと呟いた。
「特定の誰かが巨大な私欲にまみれてこの国を意図的に壊そうとしていたわけではありません。彼らは皆本気でこの国を良くしようとしていた。ですがその過程で不都合な小さな悲鳴を見なかったことにする術だけを覚えてしまった。悪人が国を壊したのではない。善意のまま聞かないことに慣れた者たちが壊したのだ」
その静かな言葉が冷え切った執務室に重く響き渡った瞬間彼女の中でずっとぼんやりとしていた真の敵の輪郭が完全に明確なものとなった。
アルヴェイン伯という狡猾な男はたしかに多くの人間の人生を狂わせた許しがたい巨大な悪党であった。
エリシアは彼こそがすべての元凶であり彼を完全に失脚させればこの国の深い闇は晴れるのだとどこかで信じたがっていた。
しかし真実は全く違ったのである。
彼はこの国に深く根付いた善意の隠蔽という分厚い土壌の上に寄生しその豊かな栄養分をたっぷりと吸い上げて丸々と太っていただけの寄生虫にすぎなかったのだ。
彼が不都合な揉め事を誰の目にも触れないよう裏で綺麗に処理してくれていたからこそ上位の権力者たちは彼を暗黙の了解で黙認していた。
アルヴェイン伯は悪意を持って国の秩序を乱したのではなくむしろ彼らが望む無菌室のような完璧な秩序を守るための極めて便利な道具だったのだ。
彼らがこれから本当に倒さなければならない敵はもはや個人の醜い悪意などではない。
国全体を隙間なく分厚く覆い尽くす上品で残酷な善意の思想そのものへと完全に移行したのである。
ユリウスは机の上に無造作に足を投げ出したまま深く重い息を吐き出して安価な葉巻にゆっくりと火をつけた。
「そうだ。狸親父はこの便利な構造の隙間に寄生して甘い汁を吸い上げていた貪欲な虫にすぎない。あいつを切り落としたところで宿主であるこの国の事勿れ主義のシステムは痛くも痒くもない。俺たちは見えない思想という絶対的な化け物の喉首を直接掻き切らなければならない」
ユリウスの低くざらついた声は紫色の煙とともに冷え切った執務室の空気に静かに溶け込んでいく。
エリシアは自らの素手にこびりついた古い書類のインクと埃のひどく黒い汚れを静かに見つめ直した。
ほんの数日前までの彼女ならこのあまりにも巨大で実体のない敵の姿を前にしてひどい恐怖で足が竦み上がっていただろう。
アルヴェイン伯という分かりやすい偽黒幕を討ち取り自分が有能なヒロインとして美しい物語を終えることに固執していたからだ。
しかし今の彼女は自分の無知と傲慢さがかつてディートハルトをひどく傷つけこの残酷な構造の一部を無自覚に担っていたという痛烈な事実を知っている。
自らもまた無自覚な加害者であったという血を吐くような深い罪の意識が彼女の心からすべての甘えと薄っぺらい恐怖を完全に奪い去っていた。
自分はもう安全な高みから誰かを一方的に断罪できるような汚れを知らない純白の被害者などではないのだ。
だからこそ自分と同じように致命的な失敗を抱えるユリウスの隣でこの泥臭い暗闇をどこまでも這い進むことができる。
「寄生虫を一匹駆除しただけでこの国が勝手に綺麗になるという都合の良い夢はもう見ません。私たちはこの無自覚な善意という巨大な病理をすべての人々の目の前へ引きずり出します」
エリシアの瞳にはかつて王宮の茶会で魅せていたような計算された完璧で優雅な微笑みはもう微塵も残されていなかった。
そこにあるのはどれほど深い泥にまみれようとも決して真実から目を逸らさないという凄絶なまでの静かな覚悟の炎だ。
「見ないことで保たれてきた見せかけの平和を私たちの手で完全に終わらせるのです」
王妃が優雅にお茶を飲みながら語った大局のための犠牲をこれ以上誰にも強要させはしない。
何十年も前から旧保管庫の深い暗闇に葬り去られてきた無数の悲鳴たちがインクで汚れた彼女の素手を力強く後押ししているように感じられた。
ユリウスは吸いかけの葉巻をガラスの灰皿に押し付けて火を消すと机の上に置かれた膨大な証拠の束を無造作に叩いた。
「相手は自分たちが正しいと信じて疑わない善意に満ちた王宮の全権力という途方もない化け物だ。ただ事実を並べ立てるだけではまた波風を立てる厄介な不純物としてあの狸親父の時のように穏便に処理されて終わるだけだぞ。連中の逃げ道を完全に塞ぎその美しい善意の仮面を一枚残らず剥ぎ取るための誰にも破られない完璧な盾と鋭い槍が必要になる」
「ええそのための退路と証拠の準備はすべてこの泥臭い苦情処理局の机の上で行ってきたではありませんか。私たちが長い時間をかけて集めたこの声なき悲鳴の集積こそが彼らの美しい欺瞞を貫くための何よりも強力で冷酷な槍となります」
エリシアは壁に広がる禍々しい相関図から視線を外し隣に並び立つ頼もしい無骨な共犯者と静かに視線を交わした。
二人の間にはすでに言葉による薄っぺらい慰めも自己憐憫に満ちた悲壮感も一切存在していない。
それぞれが過去に犯した致命的な失敗の傷跡を強固に共有し泥だらけの素手で痛みの真実を掘り起こす覚悟だけがそこにはあった。
エリシアは机の上に積み上げられた分厚い陳情記録の山をインクと埃で黒く汚れた素手で力強く抱え直した。
そして目の前に迫る決して引き返すことのできない巨大な戦いへ向けて静かに真っ直ぐな歩みを開始したのである。




