第66話「私も同じだった」
王立苦情処理局の薄暗い執務室には、翌朝の冷たい光が差し込み始めていた。
エリシアとユリウスは向かい合わせに座り、インクと埃で黒く汚れた指先を黙々と動かして、これから仕掛ける戦いの準備を続けていた。
特別査問会に向けて押収した裏帳簿や賄賂の記録。
ミレーユの証言から得た人事記録と贈答品のリスト。
さらに旧保管庫から運び出した古い陳情書の山。
それらは時代も発生場所も全く異なるはずなのに、奇妙なほど規則的な法則性を持って互いに深く絡み合っていた。
エリシアは壁に張った大きな白紙に関連する組織や人物の名前を一つずつ丁寧に書き出していく。
王宮の奥深くで絶大な権力を握る王妃や、民の精神的な支柱である教会上層部や現場の実務を仕切る複数の優秀な官僚たちの名前が並ぶ。
それらの名前の間に引かれた黒いインクの線は複雑に絡み合い、次第に巨大な蜘蛛の巣のような禍々しい幾何学模様を壁一面に形成し始めていた。
壁に書き出された彼らの目的のどこを探しても、民を不当に苦しめてやろうという醜く個人的な悪意は見当たらなかった。
王妃も実務官僚も教会上層部も、誰もが本気でこの美しい王国の未来を憂い、全体の調和を守ろうとしていただけなのだ。
「誰も悪気なんて微塵もなかったのですね」
エリシアは乾ききった唇を微かに震わせ、相関図の黒い線をインクで汚れた指先でなぞりながらぽつりと呟いた。
「彼らは皆本気でこの国を良くしようとしていた。ですがその過程で不都合な小さな悲鳴を見なかったことにする術だけを覚えてしまった。悪人が国を壊したのではない。善意のまま聞かないことに慣れた者たちが壊したのだ」
その言葉を口にした瞬間、エリシアの胸の中に静かな衝撃が走った。
——私も同じだった。
かつての自分も、善意はあった。正しくあろうとしていた。
しかし「正しければ足りる」という思い込みの中で、目の前の人間の痛みを見なかったことにしてきた。
ディートハルトを守れなかったのは、悪意があったからではない。
見ようとしなかったからだ。届けようとしなかったからだ。
バルテン局長が「かつての私」を語った時、エリシアは他人の話として聞いていた。
しかし今この壁の相関図を見ながら、その「かつての私」は自分自身のことでもあったと気づいた。
かつての彼女は純白の手袋をはめ、世間の不快な汚れを弾きながら、高みから正義を振りかざしていた。
それは善意から来ていた。しかし善意だからこそ、目の前の痛みを切り捨てることに痛みを感じなかった。
「誰も悪意なんてなかった」——その言葉は、自分自身への言葉でもある。
エリシアは素手の指先を静かに見つめた。
インクと埃で黒く汚れた、不格好な手。
かつては絶対に汚したくなかった、純白の手袋の下にあった手。
「……特定の誰かが巨大な私欲にまみれてこの国を意図的に壊そうとしていたわけではありません。彼らは皆本気でこの国を良くしようとしていた。ですがその過程で不都合な小さな悲鳴を見なかったことにする術だけを覚えてしまった」
その静かな言葉が冷え切った執務室に重く響き渡った瞬間、彼女の中でずっとぼんやりとしていた真の敵の輪郭が完全に明確なものとなった。
アルヴェイン伯という狡猾な男はたしかに多くの人間の人生を狂わせた許しがたい巨大な悪党であった。
しかし彼はこの国に深く根付いた善意の隠蔽という分厚い土壌の上に寄生し、その豊かな栄養分をたっぷりと吸い上げて丸々と太っていただけの寄生虫にすぎなかったのだ。
ユリウスは机の上に無造作に足を投げ出したまま深く重い息を吐き出して、安価な葉巻にゆっくりと火をつけた。
「そうだ。狸親父はこの便利な構造の隙間に寄生して甘い汁を吸い上げていた貪欲な虫にすぎない。あいつを切り落としたところで宿主であるこの国の事勿れ主義のシステムは痛くも痒くもない。俺たちは見えない思想という絶対的な化け物の喉首を直接掻き切らなければならない」
「寄生虫を一匹駆除しただけでこの国が勝手に綺麗になるという都合の良い夢はもう見ません。私たちはこの無自覚な善意という巨大な病理をすべての人々の目の前へ引きずり出します」
エリシアの瞳にはかつて王宮の茶会で魅せていたような計算された完璧で優雅な微笑みはもう微塵も残されていなかった。
そこにあるのは、どれほど深い泥にまみれようとも決して真実から目を逸らさないという凄絶なまでの静かな覚悟の炎だ。
「見ないことで保たれてきた見せかけの平和を、私たちの手で完全に終わらせるのです」
エリシアは机の上に積み上げられた分厚い陳情記録の山をインクと埃で黒く汚れた素手で力強く抱え直した。
そして目の前に迫る決して引き返すことのできない巨大な戦いへ向けて静かに真っ直ぐな歩みを開始したのである。




