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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第65話「ユリウスの過去」

冷たい夜の雨が王立苦情処理局の古びた石造りの壁を容赦なく打ち据え、深夜の底冷えする空気を薄暗い執務室にまでじわじわと浸透させていた。


エリシアは地下の旧保管庫から苦労して運び出した古い陳情書の束を、インクと埃で汚れた自らの机の上で一つずつ丁寧に分類している。

劣化した麻紐をほどくたびに湿気をたっぷり吸い込んだカビの匂いが染み付いた古びた羊皮紙が重い音を立てて机の表面に広がる。


彼女はもはや純白の絹の手袋をはめることなく、自らの生身の素手でその泥臭い過去の痛みに直接触れ続けている。


向かいの席ではユリウスがいつものように気怠げな姿勢で、机にうず高く積まれた書類の山に鋭い視線を落としていた。

彼の手元の動きは普段以上に速く、一切の妥協を許さない静かな執念に満ちている。


エリシアがふと羽ペンを止めて静かに問いかけると、ユリウスは書類からゆっくりと顔を上げて彼女を見た。


「……ユリウス様は、ずっと昔からそうやって誰にも破られない完璧な盾を作り続けてこられたのですね」


「盾を持たずに戦場に出るような頭の空っぽな馬鹿は、早死にするか味方を殺すかのどちらかしかいないからな」


彼の低い声にはいつものような皮肉めいた響きはなく、どこか遠い過去の闇を見透かすような重さがあった。


エリシアは手元の古い陳情記録から視線を外し、向かいに座る無骨な上司の暗い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたがそこまで退路の構築に執着するのは、かつて同じように誰かを守れなかったからではないのですか」


エリシアの決して逃げない真っ直ぐな問いかけに対し、ユリウスは苛立つこともなくただ短く重い息を吐き出した。


彼はインクの切れた羽ペンを机に放り投げると、懐から安価な葉巻を取り出してゆっくりと火をつけた。

紫色の煙が執務室の冷たい空気に静かに溶けていく中、彼は長く閉ざしていた過去を語り始めた。


「俺も昔は正しさこそが世の中を変える絶対の武器だと信じて疑わない若造だった」


若き日のユリウスは王宮内のとある巨大な不正資金流用の決定的な証拠を必死に追っていたという。

その巧妙に隠蔽された不正の確たる証拠を持っていたのは彼のもとで真面目に働く気弱だが優秀な一人の部下だった。


「俺はその部下を説得して、自分の信じる正義の告発のための重要な証人として無理やり表舞台に引きずり出したのだ」


彼のもたらした勇気ある証言と確実な証拠によって、長年甘い汁を吸っていた不正な高官を完全に失脚させることに成功した。

それは若きユリウスにとって絵に描いたような輝かしく完璧な正義の勝利だったはずだ。


しかしその美しい勝利の裏側で彼が用意した薄っぺらい保護の壁など、事勿れ主義の王宮では何の役にも立たなかった。


「告発によって王宮の美しい秩序を身勝手に乱したという理由で、その善良な部下は周囲から徹底的な嫌がらせを受けた。やがて精神を病んでいき、最後には自ら命を絶ってしまった」


「俺は自分の正義感を満たすためだけに、彼を都合の良い弾よけの盾として使い捨ててしまったのだ」


その残酷な過去の血塗られた事実は、エリシアの胸の奥底に鋭く重い杭のように深く突き刺さってきた。

彼女はかつての自分自身がディートハルトに対して行った愚かで傲慢な仕打ちを思い出さずにはいられなかった。


「ユリウス様は、だからこそあの時にディートハルト様を強引に除隊させて王宮の外へと逃がしたのですね」


エリシアが震える声で呟くと、ユリウスは暗い瞳を細めて自らの手元にある分厚い書類の束を静かに叩いた。


「正しさだけでは誰も救えないし、逃走経路の用意されていない告発などただの無責任な見殺しにすぎないからだ」


エリシアはここで初めて気づいた。


自分は今まで、誰かを完全に信頼したことがあっただろうか。

純白の手袋をはめていた頃の自分は、感情を見せることを弱さだと思い、他者の痛みから距離を置いていた。

ディートハルトを犠牲にした後も、一人で抱え込もうとしていた。


しかし今、ユリウスが話してくれたこの告白を聞いて——彼がずっとこの重さを一人で背負っていたことを知って——何かが変わった気がした。


エリシアは机の上に広げていた古い陳情書の一枚に、そっと素手を置いた。

手袋のない、インクと埃で汚れた、不格好な手。

この手のまま、この人の隣で戦っていける。


「かつての君は俺たちのこの泥臭いやり方を、臆病で卑怯なだけのつまらない仕事だと軽蔑していたはずだ」


「ええ、私は自分の無知で愚かな正しさに酔いしれて、安全な場所から他人を傷つけていることすら気付けませんでした」


エリシアは自らのインクで汚れた素手をきつく握りしめ、目を逸らすことなく過去の自分の傲慢な罪を真っ直ぐに認めた。


そんな彼女を見つめるユリウスの瞳の奥に、かつて見せたことのないひどく静かで深い光が微かに宿った。


「君は自分の正しさが無惨に砕け散り、完全に壊れたからこそこの痛みが分かるようになったのだ」


その真っ直ぐに本質を貫く言葉を聞いた瞬間、エリシアは息を呑むような強い衝撃に打たれて言葉を失った。


「……私たちは二人とも、自分の未熟さのせいで取り返しのつかない致命的な失敗をしてしまったのですね」


エリシアがポツリと呟くと、ユリウスは微かに口の端を歪めて吸いかけの葉巻を灰皿に押し付けた。


「ああ、俺たちはどうしようもなく不格好に壊れてしまった、ひどく欠陥だらけの惨めなポンコツというわけだ」


二人の間に落ちた静かな沈黙には、もはや言葉を飾る必要のない強固な信頼が満ちていた。


これが——これが、信頼するということだ、とエリシアは思った。

弱さを隠さず、傷を見せ合い、それでも同じ方向を向いて歩こうとすること。

純白の手袋をはめていた頃には決して触れられなかった、他者のほんとうの温度。


彼らが共有した消えない傷跡こそが、これから始まる本当の戦いを生き抜くための最も強固な盾となるはずだからだ。


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