第61話「アルヴェイン伯、失脚」
王宮の最も格式高い「白百合の間」は、本来であれば他国の使節団を歓迎する華やかな式典のために用意された場所であった。
高い天井を支える白い柱には豪奢な金箔の装飾が施され、普段ならば優雅な音楽と貴族たちの柔らかな笑い声に包まれているはずの空間だ。
だが今は、冷たい大理石の床から這い上がってくるような底冷えする空気がその場にいる全員の呼吸を重く縛り付けている。
式典の直前、王宮の上層部と使節団の目に触れるよう巧妙なタイミングで投下された数枚の告発状。
それは事勿れ主義の役人たちが握り潰す隙を一切与えず、特務監査局を強制的に動かす劇薬となった。
急遽開かれた、非公式ながら決定的な意味を持つ査問会。
広間の中央に置かれた冷たい大理石のテーブルを挟み、上座には苦渋の表情を浮かべた特務監査局の長官や高位貴族たちが並んでいる。
そして下座の末席には、この告発の論理を完璧に組み上げたユリウスと、その横で静かに真っ直ぐな視線を向けるエリシアの姿があった。
「――以上が、地方教区からの寄付金と、特定商会への不自然な許認可、および王宮内の侍女の配置換えをリンクさせた資金の流れの全貌です」
特務監査局の監査官が感情のない声で読み上げ、分厚い証拠書類の束をテーブルの上に置いた。
その紙の束が立てた重い音が、張り詰めた広間に低く響き渡る。
「伯爵の筆頭側近はすでに別室で拘束され、すべての横領と収賄の実態を自白しております。彼が各方面と交わした非公式の贈答品リストや裏帳簿の記録も、こちらの提示した陳情記録と一分の隙もなく符合いたしました」
決定的な有罪の証明。
広間を埋め尽くす貴族たちの間に、ざわめきと動揺がさざ波のように広がっていく。
すべての視線の中心に立たされているのは、他でもないアルヴェイン伯その人であった。
彼はいつものように仕立ての素晴らしい燕尾服を身にまとい、背筋をピンと伸ばして立っていたが、その顔からはあの余裕に満ちた完璧な微笑みが完全に消え失せていた。
「……何かの、手違いではありませんかな」
アルヴェイン伯は、静寂を切り裂くように低く滑らかな声で言った。
「側近が私の目を盗んで一部の権限を濫用し、私腹を肥やしていたことについては監督責任を認めよう。だが私が国を裏切って不正な利益を吸い上げていたなどという根も葉もない告発は、悪質な――」
「手違いなどではありません、アルヴェイン伯爵閣下」
エリシアの氷のように澄んだ声が、広間に鋭く響き渡った。
彼女は純白の手袋をはめていない、インクの染みが微かに残る素手のまま一歩前へ進み出た。
「その裏帳簿に記されている不正な資金は、すべてあなたの私兵団の維持費と、あなたが所有する隠し領地の開発に流れています。末端の側近ひとりの裁量で動かせる規模ではありません。さらに、王宮の記録保管室から不自然に消去されていた過去数年分の特定案件の決裁印は、すべてあなたご自身のものと完全に一致しております」
エリシアは冷徹な事実だけを、鋭い剣のように正確に伯爵の急所へと突き立てていく。
もはや言い逃れの道はどこにも残されていない。
「……埃っぽく泥臭い役所の小娘が、知ったふうな口を叩く」
ついに、アルヴェイン伯の口からギリッと歯を食いしばるような苛立ちの声が漏れた。
「たかが数枚の汚い陳情書を拾い集めただけで、この国の何が分かるというのだ。私がどれほどの労力を割いて、この複雑で厄介な問題を抱える愚かな国を回してやっていたか、お前たちのような末端の者には到底理解できまい」
「私はお前たちが望むように、最も角の立たない形で『調整』をしてやっていただけだ」
その言葉が響いた瞬間、広間の空気がピリッと凍りついた。
広間に座る高位貴族たちは一様に気まずそうに視線を逸らし、咳払いをし、誰も彼の言葉を真っ向から否定しようとはしなかった。
「……もう見苦しいぞ、アルヴェイン伯。近衛、彼を連れて行け」
特務監査局の長官が冷たく言い放つと、待機していた近衛騎士たちが重い足音を響かせて伯爵の両脇を固めた。
「私を切ったところで、この国の本質が綺麗になるものか」
伯爵は最後まで顔の筋肉を醜く歪めることなく、冷たい眼差しを残したまま騎士たちに促されて重い扉の外へ連行されていった。
静寂が戻った「白百合の間」には、自分たちの平和を脅かす巨大な厄介者を自分たちの手を汚さずに消し去ることができた上層部たちの、微かな祝祭感に似た空気が漂い始めていた。
「見事な手際だった。これで王宮の秩序は守られた」と、誰かが安堵混じりに囁く声すら聞こえてくる。
エリシアは立ち尽くしたまま、自分の微かにインクで汚れた素手を見つめていた。
彼女の放った罠は完璧に機能した。アルヴェイン伯は、ついに失脚したのだ。
だというのに、エリシアの胸の奥には、長年の戦いを終えた達成感や高揚感など微塵も存在していなかった。
そこにあるのは、冷たい風が吹き抜けるような、ぽっかりと空いた決定的な「空白」であった。
——これで終わりではない。
その確信が、静かに、しかし明確に彼女の中に生まれていた。
アルヴェイン伯という分かりやすい寄生者を切り落としても、宿主であるこの王宮の構造そのものは何一つ痛痒を感じていないのだ。
上座に座る貴族たちは、アルヴェイン伯をトカゲの尻尾として切り捨てることで、自分たちの事勿れ主義を完全に「無罪」として漂白してしまった。
本当の恐ろしい敵は、今この広間で安堵の息を吐いている「善意と秩序」そのものなのだ。
「……終わったな」
隣に立つユリウスが、気怠げな声でぽつりと言った。その暗い瞳はエリシアと同じように、広間に漂う安易な安堵の空気を冷徹に見透かしている。
「アルヴェイン伯という障害物は、これで完全に盤面から消えた。お前の勝ちだ、エリシア」
「……いいえ」
エリシアは素手をきつく握りしめ、ゆっくりと首を横に振った。
「勝ってなどいません。まだ何も……終わっていないのです」
彼女の声は微かに震えていたが、その瞳に宿る覚悟の光は、以前よりもはるかに深く、鋭く研ぎ澄まされていた。
分かりやすい偽りの黒幕を越え、この国を根底から蝕む果てしなく巨大な「善意の黙殺」という真の闇へ。
彼女は自分の無力さと罪を背負ったまま、次なる本当の戦いへと向けて真っ直ぐに前を見据えていたのである。




