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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第60話「足りない輪郭」

冷たい冬の雨が上がり、重い灰色の雲の切れ間から刺すような冷気を含んだ薄日が王都の街並みを照らし始めていた。

王立苦情処理局の薄暗い執務室では、アルヴェイン伯を罠にかけ公の場へと引きずり出すための緻密な準備が着々と進められていた。

エリシアは休むことなく羽ペンを走らせ、ミレーユから得た非公式の贈答品リストと地方教区の寄付金記録の矛盾点を突く告発状の文面を完璧に練り上げている。

その告発状は事勿れ主義の役人たちに握り潰される正規のルートで提出するものではない。

王妃周辺の動きと式典日程を照合した結果、来月王都を訪れる他国の使節団の目に触れるよう巧妙なタイミングで外部から火種を投下する手はずになっていた。

王宮の隠蔽体質を逆手に取り、王家の体面を守らせることでアルヴェイン伯をトカゲの尻尾切りにさせるのだ。

実務的な手配はすでに最終段階に入っており、もはやあの巨大な狸親父が逃げおおせる隙はどこにも残されていない。

それでもエリシアの胸には、拭いようのない違和感が残っていた。

彼女はふと羽ペンを置き、疲労で重くなった目頭をそっと押さえた。

机の端にはアルヴェイン伯の罪を裏付ける証拠の山のほかに、彼女が個人的に書庫のさらに奥底から引っ張り出してきた、古い埃まみれの書類の束が積まれている。

それはアルヴェイン伯が現在の地位に就くずっと前、まだ彼が王宮の中枢に何の影響力も持っていなかった時代の「過去の陳情記録」であった。

ユリウスの『奴が育つだけの土壌が、最初からこの国には用意されていたとしたらどうだ』という低く重い問いかけが、彼女の脳裏からどうしても離れなかったのだ。


エリシアは冷たい手でその古い書類の束を引き寄せ、紐を解いて黄ばんだ羊皮紙をめくっていった。

そこには、何十年も前に記された名もなき民衆や末端の役人たちからの切実な訴えが残されている。

地方の関所での理不尽な徴税、大商会による流通の独占、力のない貴族の領地からの過剰な物資の徴発。

問題の性質も、苦しんでいる者たちの声なき悲鳴も、現在エリシアが処理している陳情と驚くほど同じであった。

そして何より彼女を戦慄させたのは、それらの古い苦情が「どのように処理されたか」を示す、余白に押された決裁印と簡素な添え書きである。

『波風を立てぬよう、穏便に処理すること』

『大局的な平穏を乱す恐れあり。保留』

『当事者間で和解済み(実態は泣き寝入りによる沈黙)』

それらは、アルヴェイン伯の側近たちが使っていた手口と、まったく同じ論理、まったく同じ文言であった。


エリシアは背筋に氷を差し込まれたような寒気を感じ、思わず息を呑んだ。

アルヴェイン伯はこの美しい隠蔽のシステムを作り上げた張本人ではなかったのだ。

彼はただ、王宮の奥深くに何世代にもわたって根付いていた「問題を大きくしないこと」「声を立てさせないこと」を是とする古い統治のシステムに寄生し、その性質を極限まで悪用して私腹を肥やしていたにすぎない。

彼がいなかった時代から、この国は同じように小さな痛みを切り捨て、美しい秩序という名の蓋をしてきたのである。

彼の動きがあまりにも誰からも咎められず、王宮内で「許されすぎて」いた理由が、今ならはっきりと理解できた。


王妃から非公式な調査を依頼された日、優雅なティーカップを傾けながら彼女が言った言葉が、鮮明な輪郭を持ってエリシアの耳に蘇る。

『多少の不満や軋みは、大局のために飲み込まれるべきものなのです』

あの時、エリシアはその言葉を、国を平穏に保つための「純粋な善意」から出たものだと信じていた。だが、その「善意」こそがすべての病理の根源だったのだ。

善意ある権力者たちは、決して悪意を持って民を弾圧しようとしたわけではない。

彼らは本気で「秩序を守るため」に、小さな苦情や些細な犠牲を切り捨てることを「正しい統治」だと信じて疑わなかったのである。

アルヴェイン伯のような分かりやすい悪意よりも、善意によって正当化される沈黙の構造のほうが、はるかに深く恐ろしくこの国を蝕んでいる。

その果てしなく巨大な病巣の正体に触れた瞬間、エリシアが組み上げた相関図のアルヴェイン伯という黒い点は、単なる一つの小さな症状にすぎないという残酷な事実が突きつけられたのである。


「……やはり、彼だけでは終わらないのですね」

誰もいない執務室で、エリシアは震える声でぽつりと呟いた。

彼女は自分の鞄の奥にしまわれている侍女頭の涙の帳面と、片方だけの白い絹の手袋の重みを静かに意識した。

かつての彼女は自分の正しさを証明するためだけに、白い手袋で汚れを弾きながら分かりやすい「敵」を叩きのめすことしか考えていなかった。

アルヴェイン伯を失脚させればそれで自分の有能さが証明され、物語はハッピーエンドを迎えるのだと無意識に信じたがっていたのかもしれない。

だがもうその幻想には逃げ込めない。

偽黒幕を暴くことと、国の根源的な病理を止めることは同じではない。

アルヴェイン伯という悪を暴いて盤面から排除したとしても、この国に染み付いた「善意の黙殺」という土壌が残っている限り、第二、第三のアルヴェイン伯が必ず生まれる。

ディートハルトのように正義感から声を上げる者は再び押し潰され、侍女頭のように暗い書庫の奥で涙を流す者は決して消えないのだ。


「エリシア。例の手配は終わったぞ」

重い扉がきしむ音とともに、ユリウスがいつものように気怠げな足取りで執務室に入ってきた。

彼の目は、机の上に広げられた古い陳情記録の山とそれを見つめて立ち尽くすエリシアの青ざめた横顔を正確に捉えていた。

ユリウスは何も聞かず、ただ手にした報告書を机の端に無造作に放り投げた。

「……見えてきたか。俺たちが本当に相手にしようとしているものの、呆れるほど巨大な輪郭が」

ユリウスのその言葉には、皮肉も同情もなく、ただ同じ絶望の淵に立つ者への静かな確認だけが含まれていた。

「はい……」

エリシアは深く息を吸い込み、冷え切った指先をきつく握りしめた。

「アルヴェイン伯は、たしかに貪欲な怪物です。ですが、彼が吸い上げていた養分は、この国が『善意』という名目で自ら切り捨ててきた人々の痛みそのものでした。私たちが本当に立ち向かわなければならないのは、特定の悪人ではなく、この黙殺のシステムそのものです」


その途方もない事実に直面し、エリシアの足は微かに震えていた。

だがかつてのように自分の無知と無力さに打ちのめされ、ただ絶望に沈むだけの彼女ではない。

この泥臭い苦情処理局で数々の小さな痛みに触れ、誰かを守るための盾の作り方を学んできた彼女の瞳には、決して消えることのない静かで熱い覚悟の炎が宿っている。

「それでも、まずは目の前の障害を排除しなければ、その先の巨大な壁に触れることすらできません」

エリシアは机の上に置かれたアルヴェイン伯の告発状の束を、インクと埃で汚れた素手で力強く掴み取った。

「ええ、その通りだ。どれほど敵が巨大だろうと、やるべき実務の順番は変わらない。まずはあの狸親父を、美しい王宮の舞台から泥の中へ引きずり下ろす」

ユリウスは無骨な顔に凶暴な笑みを浮かべ、エリシアの隣に並び立った。


分かりやすい悪の背後に潜む果てしなく巨大な「善意の黙殺」の構造。

その恐怖は、もはや二人の歩みを止める理由にはならない。

エリシアはインクで汚れた素手で告発状を握りしめたまま、隣のユリウスと共に目前の盤面を見据えた。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

いよいよ物語は終盤へ入り、エリシアたちの戦いも王国の中枢へ向かっていきます。

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