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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第59話「尻尾を掴む」

氷のように冷たい冬の雨が、王都の古い石畳を重く黒く濡らしていた。

王立苦情処理局の薄暗い執務室では、冷え切った空気を切り裂くように、羽ペンの走る乾いた音だけが絶え間なく響き続けている。

机の上に広げられた巨大な相関図の前に立つエリシアの素手は、微かにインクと埃で汚れ、数日に及ぶ徹夜の疲労でその横顔は青ざめていた。

だが彼女の瞳にはかつてないほど鋭く熱い光が宿り、燃え盛るような意志の炎を瞬かせていた。


彼女の手元には、何枚もの折りたたまれた便箋が大切に置かれている。

数日前泥の中から自分の足で立ち上がったミレーユは、償いのために王宮内部の非公式な面会記録や贈答品のリストを書き写し、密かにエリシアのもとへ届けていたのだ。

ミレーユは「愛される無害な令嬢」という仮面を被ったまま、高位貴族の妻や娘たちから巧みに会話を引き出した。

次期王太子妃という警戒されにくい立場を利用し、優雅なお茶会や慈善活動の裏で彼女が必死に集めたそれは、王宮の公式な書類からは完全に削ぎ落とされていた「生々しい欲望の痕跡」であった。

便箋の余白に震える手で細かく書き込まれた文字からは、彼女の悲痛な贖罪の意思が痛いほどに伝わってくる。


ミレーユのもたらした情報と、暗い書棚の奥で見つけた侍女頭の血を吐くような涙の帳面。

そして苦情処理局の床に山と積まれていた無数の未処理陳情書。

もともとはバラバラに切り離され、何の関連もない個別の不幸として永遠に闇に葬られようとしていた無数の声なき悲鳴。

これが、今、エリシアの冷徹な論理の糸によって緻密に編み上げられ、一本の逃れようのない太い縄となって実体を持ち始めていた。


王宮の長年勤めたベテラン侍女たちの不自然な配置換えと退職。

特定の外部商会に対する不可解な許認可の特例。そして地方の教区から集められた寄付金が、書類の上で音もなく相殺されていく極めて巧妙な資金の流れ。さらには、ディートハルトのように正義感から声を上げた者が、隊内の不和を理由に静かに除隊へと追い込まれていった残酷な事実。

そのすべての不正な結節点には、常にアルヴェイン伯が最も信頼を置く筆頭側近の名が明確な指示者として記録の端に微かに残されていた。

伯爵の私的な「穏便な調整」という名目が国の公的な利益配分に完璧に食い込み、気付かれることなく莫大な富を合法的に吸い上げているという事実。

これまでどんなに探っても見えなかった巨大な怪物の明確な「尻尾」を、ついに正確に掴んだのである。


「ついに、完璧な図面が完成しました」

エリシアはインクのついた羽ペンを静かに置き、背後で腕を組んで相関図を見下ろしているユリウスへ向かって、氷のように澄んだ声で告げた。

「アルヴェイン伯は自らの手を汚さないよう常に書類の表面を美しく整え、巧妙に立ち回ってきました。ですが、末端の物流の乱れと王宮内の人事の動きをすべて重ね合わせれば、側近を通じた大規模な横領と収賄の事実はもはや言い逃れできません。これならば公の場で彼を告発し、言い逃れの隙を与えずに完全に包囲することができます」

久々に味わう完璧な論理のパズルを完成させた時の冷たい高揚感。

だがそれは、かつて彼女が純白の手袋をはめ、安全な高みから正しさを振りかざしていた頃の薄っぺらい快感とは全く違う。

自ら泥にまみれ、血を流し、名もなき弱い人々の痛みを素手で拾い集めた末にようやく手にした、重く鋭い反撃の剣の感触であった。

目の前の巨大な悪を確実に仕留められる。

そう思えるだけの十分すぎる弾薬が、ついに完璧に揃ったのだ。


ユリウスは無言のまま、エリシアが引いた相関図の赤い線をその冷徹な暗い瞳でゆっくりとなぞっていた。

やがて彼は深く重い息を吐き出し、微かに口の端を歪めた。

「ああ。見事な手際だ、エリシア。これならあの狸親父の首に直接縄をかけられる。王家の体面を守るために事態を穏便に済ませようとする上層部でさえ、ここまで完璧に外堀を埋められれば、奴をトカゲの尻尾切りとして切り捨てるしかなくなるだろう」

ユリウスのその言葉は、エリシアの構築した罠の完璧さを認めるものであった。

しかし彼から発せられる空気には、長年追い続けた獲物をようやく追い詰めた猟犬のような熱は微塵も感じられない。

むしろ得体の知れない底なし沼の縁に立ち、その暗い深淵を静かに覗き込んでいるような、ひどく冷たくて重い静けさが漂っていた。


「……ユリウス様?」

エリシアが微かに眉をひそめると、ユリウスは相関図の中心にあるアルヴェイン伯の名を、無骨な指先でトントンと静かに叩いた。

「たしかに、この男は真っ黒だ。頭から爪先まで、腐りきった欲と自己保身の塊でできている。今回の不正の元凶であり、お前が拾い集めた悲鳴の多くの原因を作った張本人であることに間違いはない」

彼はそこで言葉を重く切り、執務室の曇った窓ガラスを激しく打つ冷たい雨へ視線を向けた。

「だがな、エリシア。ただ『黒い』というだけで、ここまで長く、そして深く王宮の奥底まで根を張れるものだろうか?」


その低く重い問いかけは、エリシアの胸の奥に氷水を浴びせるような鋭い衝撃を与えた。

ユリウスはゆっくりと振り返り、エリシアの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「俺がこの役所で長年見てきた過去の古い陳情記録には、アルヴェイン伯が権力を握るずっと前、彼がまだ若手だった時代から、同じようにもみ消され、握り潰されてきた声が無数にある。奴の手口は確かに巧妙だが、その動きはあまりにも王宮の中で『許されすぎて』いると思わないか?奴が一人でこの国を腐らせたのではなく、奴が育つだけの土壌が、最初からこの国には当たり前のように用意されていたとしたらどうだ」


ユリウスの言葉を聞いた瞬間、エリシアの脳裏に、数々の光景がフラッシュバックのように鮮明に蘇ってきた。

王宮の記録保管室で感じた、苦情の存在を決して許さない完璧で美しい死の静寂。

「多少の不満や軋みは、大局のために飲み込まれるべき」と、純粋な善意と大義名分を掲げて微笑んでいた王妃の理知的な顔。

そして、波風を立てないことこそが最も多くの民を救う道だと、あの豪奢な晩餐会で平然と言い放ったアルヴェイン伯の姿。

彼らは皆、誰も悪意など持っていないと信じたまま、自らの正しさを疑わずに息をするように他者の痛みを黙殺していたのだ。


アルヴェイン伯は確かに巨大な病巣だ。だが彼を討てば、すべての声なき悲鳴が救われるのだろうか。

彼が利用していた事勿れ主義そのものが、この国を覆うもっと古く巨大な『善意の黙殺』なのかもしれない。

その瞬間、エリシアの中で組み上がっていた論理の輪郭がわずかにずれた。

目の前の黒幕を倒すことと、この国の病理を止めることは別なのだと、初めて骨身に沁みた。


「……それでも」

エリシアは小さく震える素手をきつく握りしめ、押し寄せる恐怖に抗うように、しかし決して折れることのない強い声で告げた。

「それでも今は、目の前の怪物を引きずり下ろすしかありません。あれを退けなければ、その奥へ進めません」

「ああ、その通りだ。まずはこの真っ黒な邪魔者を盤面から叩き出す」

ユリウスは微かに笑みを浮かべると、机の上の資料を乱暴に掴み上げた。

「さあ、総力戦の準備だ。特務監査局が動く前に、こちらから仕掛けるぞ」


二人のあいだに、もはや上司と部下の距離は残っていなかった。

あったのは、同じ泥を被る覚悟だけだ。

エリシアは鞄の奥にある古い手袋を一度だけ意識し、それから告発状へと視線を戻した。


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