第58話「アルヴェイン伯の宴」
王都の高級住宅街にそびえ立つアルヴェイン伯爵の広大な邸宅は、外の凍てつくような冷たいみぞれなど最初から存在しないかのような、圧倒的で豪奢な熱気に包まれていた。
今宵開かれているのは、伯爵が私的に主催する晩餐会である。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き抜かれた大理石の床と壁面の精緻なタペストリーをまばゆいほどに照らし出している。
長いテーブルには寸分の狂いもなく磨き上げられた純銀の食器が並べられ、給仕たちが音もなく滑るように歩き回りながら、香りの強い年代物のワインを次々とクリスタルグラスに注いでいく。
そこは、先日エリシアがミレーユと共に泥まみれになりながら駆けずり回った貧民街の広場とは、完全に切り離された別世界であった。
しかしその空間は、ただ美しいというよりも、どこか息が詰まるほど「過剰に整いすぎている」不気味さが漂っている。
王宮の記録保管室で感じたあの完璧な死の静寂とは少し違い、最も洗練された礼儀作法という美しい仮面の下で、底知れぬ欲望が音もなく蠢いていた。
エリシアは王妃からの非公式な調査命令および王立苦情処理局の監査名目という正当な口実を得て、この晩餐会に潜入していた。
彼女は濃紺の夜会服に身を包み、両手には純白の絹の手袋をはめている。
だがそれは、かつてのように外界の不条理から自分を守るための無自覚な鎧ではない。
敵の懐深くへ入り込み、自らの冷徹な殺意と生身の感情を完全に隠し通すための、意図的な偽装の戦闘服であった。
彼女は香りの強いワインの入ったグラスを片手に持ち、壁際の目立たない位置から会場内の様子を静かに、しかし獲物を狙う鷹のような鋭い視線で観察し続けていた。
晩餐会の中心に立ちこの豪奢な空間を完全に支配しているのは、他でもないアルヴェイン伯その人である。
彼は初老に差し掛かっているものの背筋はピンと伸び、仕立ての素晴らしい燕尾服を完璧に着こなしていた。
白髪交じりの髪は整然と撫でつけられ、口元には常に穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
暴力で他者をひれ伏させるような露骨な悪人ではなく、どこまでも礼儀正しく、理知的で、隙のない「有能で嫌な男」としての圧倒的なオーラがそこにあった。
彼が優雅にグラスを傾けて言葉を発するたびに周囲を取り囲む有力者たちは心地よさそうに深く頷き、洗練された笑い声がさざ波のように広がっていく。
エリシアは会場を行き交う人々の顔触れと、その会話の端々に耳を澄ませた。
王都の物流を牛耳る巨大商会の会頭、地方の教会支部を束ねる高位聖職者、王宮内の人事権を握る古参の役人、そして地方の騎士団への物資補給を担当する幹部たち。
本来であればそれぞれ独立した職務に就いており利害が対立することすらあるはずの彼らが、アルヴェイン伯を中心とした一つの輪の中で極めて自然に、そして親しげに言葉を交わしている。
「先日の教区の免税手続きの件、スムーズな処理に感謝いたします。おかげで教会の修繕資金も滞りなく集まりました」
「いやいや、それもこれも王宮の新たな人事編成が、我々の商会にとって『適切』に行われたおかげですよ」
「地方の補給路も、来月からはさらに効率よく回せるでしょう。東部の教区からの献金と相殺する形で、書類上の数字は綺麗に消えますからな。すべては伯爵の素晴らしいご差配の賜物です」
彼らは誰一人として、賄賂や横領といった下品な言葉は決して使わない。
大局的な国の平穏や、互いの組織の円滑な運営という美しい大義名分のもとに、少しずつ便宜を図り合い、面倒な揉め事を避けながら莫大な利得を分配しているのだ。
エリシアの脳裏には、苦情処理局の執務室で何日も徹夜して描き上げたあの巨大な相関図と、古い書棚の奥で見つけた侍女頭の涙の帳面が鮮明に浮かび上がっていた。
目の前で談笑している彼らの点と線が、まさに今、実体を持って目の前で音もなく繋がり合っている。
彼らが「適切な処理」と呼んでワイングラスを合わせるその背後で、どれほどの声なき悲鳴が圧殺されてきたことか。
若手の登用に反発する不満を抑え込むために配られた賄賂、その皺寄せとして削られた貧民街への毛布の予算、そして真実を知ってしまい田舎へと追いやられた若い侍女たち。
アルヴェイン伯は自ら手を下すまでもなく、この人間たちの事勿れ主義と自己保身のネットワークを巧みに操り、莫大な利益を自らのもとへ正確に吸い上げている。
彼が口にする「適切な処理」や「平穏」の向こう側で、この国を根底から腐らせる病巣がどう完成しているかをエリシアは肌が粟立つような実感を伴ってはっきりと視認していた。
「おや、これは珍しいお客様がいらしている」
不意に背後からベルベットのように滑らかで底知れぬ深さを持った声が響いた。
エリシアが振り返ると、いつの間にかアルヴェイン伯が一人で彼女のそばまで歩み寄ってきていた。
彼はエリシアの瞳の奥にある冷たい敵意に気づいているのかいないのか、完璧な紳士の笑みを崩さずにグラスを軽く持ち上げた。
「王立苦情処理局のユリウス次席の優秀な補佐殿が、このような私的な宴に足を運んでくださるとは光栄の至り。王宮を去られてからずいぶんと経ちますが、あのような……埃っぽく泥臭い役所で、あなたのその卓越した頭脳が摩耗していないか、私はいつも心を痛めていたのですよ」
それは優しさを装いながら彼女の現在の低い身分を的確に突き刺してくる、極めて洗練された傲慢な牽制であった。
エリシアは表情を一切変えることなく純白の手袋に包まれた手でドレスの裾をわずかに持ち上げ、非の打ち所がない完璧なカーテシーを返した。
「お気遣い痛み入ります、アルヴェイン伯爵閣下。ですがあの埃っぽい役所は存外に私の性に合っているようです。泥にまみれなければ見えない『事実』というものが、この国にはあまりにも多く転がっておりますから」
彼女の氷のように澄んだ声が、静かな挑戦状として伯爵へと放たれる。
伯爵は一瞬だけ、その理知的な目を蛇のように細めた。
しかしすぐにまた優雅な微笑みを取り戻し、意味ありげに口の端をゆっくりと歪めた。
「なるほど。泥の中で事実を拾い集める、ですか。それは大変立派な志だ。ですがね、エリシア嬢。この国を平和に治めるためには、時に見ないほうが良い事実というものもある。波風を立てず、美しい秩序を保つことこそが、最も多くの民を救う道なのです。あなたがその『泥』から引きずり出したものが、結果としてこの国の美しい平穏を壊すことにならないよう、くれぐれもご自愛いただきたいものですな」
伯爵はそれだけを静かに言い残すと、再び洗練された笑い声が響く有力者たちの輪の中へと優雅に足を進めていった。
エリシアは彼の背中を冷徹な視線で見送ったまま、手元のグラスの冷たいガラス肌を強く握りしめた。
彼の言う「美しい秩序」とは、弱者の声を殺し、己の利益を最大化するための強固な沈黙のシステムに他ならない。
この宴の空気を通してその事実を肌で実感したからこそ、同時に悟る。彼を正面からの正論や公式な告発で打ち倒すことは絶対に不可能だということを。
王妃をはじめとする王宮の上層部もまた、彼と同じように「波風を立てないこと」こそが善であると信じ切っているからだ。
もしエリシアが帳面の証拠を掲げて公式に告発すれば、彼らは王国を守るために、迷うことなくエリシアのほうを「秩序を乱す狂人」として処分するだろう。
だからこそ、先日ユリウスと共に苦情処理局の薄暗い執務室で練り上げた、あの泥にまみれた「罠」が必要なのだ。
正しさの剣を真っ直ぐに振り下ろすのではなく、彼ら自身の事勿れ主義と体面を重んじる性質を逆手に取り、逃げ場のない危機的状況を外部から意図的に作り出す。
そしてシステムそのものに、アルヴェイン伯をトカゲの尻尾切りとして排除させる。
この途方もなく巨大で理知的な怪物を仕留めるには、自分もまた美しくない盤面を描き、冷酷に立ち回らなければならない。
エリシアの純白の手袋の下で生身の素手が小刻みに震え、そして力強く握り込まれた。
それは恐怖ではなく、これから始まる決死の反撃に向けた、激しく冷たい闘志の震えであった。
豪奢な晩餐会の喧騒は夜が更けるにつれてさらに熱を帯び、香りの強いワインが人々の理性を滑らかに麻痺させていく。
部屋の隅で奏でられる優雅な弦楽四重奏の調べも、彼らの欲望に満ちた密談を覆い隠すための心地よいノイズとして機能しているように思えた。
だがエリシアの頭脳だけは、どこまでも氷のように研ぎ澄まされていた。
この洗練された男こそが地方の兵士たちや王宮の侍女たち、そして無力な民の声なき悲鳴を吸い上げている元凶である。
エリシアは完璧な笑顔の裏に隠された急所へ刃を突き立てるため、静かで容赦のないカウントダウンを始めた。




