第57話「選ばれたかっただけ」
氷のように冷たいみぞれ混じりの雨が、王都の貧民街を容赦なく打ち据え続けていた。
空は重く鉛色に沈み、近づく冬の気配が人々の体温を無慈悲に奪い去っていく。
人気のない薄暗い資材テントの裏で、エリシアは冷たい石畳に膝をつき、自分の微かに泥で汚れた素手でミレーユの震える小さな両手をしっかりと包み込んでいる。
「他人の痛みに涙を流せる今のあなたの方が、ずっと強く実務に向いています」
かつて自分を深い絶望の淵へと追いやった憎き女に向けて放ったその言葉は、奇妙なほどエリシア自身の胸の奥にも温かく、そして静かな波紋を広げていた。
それは正しさを振りかざして相手を論破した時の冷たい高揚感ではなく、生身の感情をぶつけ合った者にしか得られない重い手応えであった。
ミレーユは驚きに見開いた大きな瞳からポロポロと大粒の涙をこぼし続け、やがてその震えは少しずつ小さなしゃくり泣きへと変わっていく。
二人の間にはテントを打つ激しい雨音だけが重く響き、しばらくのあいだ言葉のない時間が流れた。
やがてミレーユは、エリシアの素手の温もりにすがるように小さく息を吸い込むと、自虐的な、ひどく歪んだ笑みをその濡れた唇に浮かべた。
まるで見せかけの綺麗事がすべて剥がれ落ち、生々しい魂が露出してしまったかのような痛ましい顔だった。
「……エリシア様は、私のことを買い被りすぎですわ」
彼女の掠れた声は、雨音にかき消されそうなほど弱々しい。
「私なんて、他人の痛みに寄り添うような立派な人間じゃありません。本当は、自分が可愛いだけの……中身のからっぽな、最低の女なんです」
ミレーユは自分の両手を包み込んでいるエリシアの手を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと心の奥底に隠し続けてきた澱のような本音をこぼし始めた。
「私は、レオンハルト殿下のことを深く愛してなんかいないのかもしれない。……ただ、彼に『選ばれた』という事実が、どうしても欲しかっただけなの」
その予想外の告白に、エリシアはわずかに眉をひそめた。
そこまでして手に入れたかったものが、恋ではなかったのか。だがミレーユの言葉の裏にある暗い熱量は、決してその場しのぎの嘘をついている人間のそれではない。
「私はしがない男爵令嬢です。王宮の隅で、いつも上位の貴族たちから冷たく値踏みされ、陰で出自を笑われてきました。どれだけ愛想よく微笑んでも、所詮は身分の低い無害な飾り物。それが悔しくて、惨めで……誰かに私の存在価値を、はっきりと認めてほしかった」
ミレーユの瞳の奥で、長年抱え込んできた深い劣等感と渇望が暗い炎のように揺らめいている。
「だから、私に優しく手を差し伸べてくれた殿下にすがりついたの。彼個人を深く愛していたからじゃない。彼がこの国で一番高い場所にいて、私を『特別で価値のある人間』に引き上げてくれる唯一の存在だったから。あなたから彼を奪ったのも、あなたを憎んでいたからじゃなく、ただ自分が一番に選ばれたかっただけ……」
彼女は激しく顔を歪め、ふたたび涙をあふれさせた。
「ほら、やっぱり私、ひどい女でしょう?愛するふりをして、自分の見栄のために彼を利用し、あなたを傷つけた。泥にまみれて働くあなたになんて、顔を向ける資格もないくらい卑怯で残酷な人間なのよ」
かつてのエリシアであればこの浅ましく身勝手な告白を聞いた瞬間、激しい怒りと軽蔑で彼女を冷酷に罵倒しその手を容赦なく振り払っていただろう。
自分の人生と誇りを徹底的に破壊した理由が、そんなちっぽけな承認欲求であったことなど到底許せるはずがないからだ。
だが今のエリシアの胸を満たしたのは、燃え盛るような反発や怒りではなかった。
心臓を鋭い針で抉られるような、ひどく冷たくて生々しい「痛み」であった。
ミレーユの醜い告白のなかに、見たくないかつての自分自身の姿が鏡のように鮮明に映し出されていたからだ。
「……いいえ」
エリシアの静かな声が、雨の降る空間に澄んだ音を立てて落ちた。
「それは、私も同じです」
ミレーユが信じられないというように、涙で濡れた顔を弾かれたように上げる。
「私だってレオンハルト殿下という人間そのものを、ひとりの男として深く愛していたわけではありませんでした」
エリシアは暗闇を見つめ、過去の自分を解剖するように淡々と、だが確かな痛みを伴って言葉を紡ぐ。
「私は幼い頃から『正しく完璧であれば選ばれる』と信じて育てられてきました。感情を殺し、ただ王太子妃という役割を果たすための完璧な部品になること。それこそが私の存在価値であり、それを証明してくれるのが、王太子である殿下に選ばれることだったのです」
ミレーユが愛嬌という仮面で自分の価値を証明しようとしたように、エリシアもまた正しさという鎧で自分の価値を証明しようとしていた。
どちらも自分の確かな足で立っていたわけではない。
「あなたは『愛されること』で選ばれようとし、私は『完璧であること』で選ばれようとした。形は違っても、私たちは結局、自分の存在価値を他人に測らせていたという点で同じだったのです」
その事実に気づいた瞬間、エリシアの中で、ミレーユという存在の輪郭が決定的に変容した。
彼女は、自分の愛する人を横取りした憎き「奪った女」などではなかった。
息が詰まるような王宮の残酷なシステムの中で、必死にもがき苦しんでいたただの無力な隣人だったのである。
「私たちは……違う檻に入れられていただけなのね」
ミレーユが震える声で呟くと、エリシアは静かに頷いた。
かつては決して交わることのない対極の存在だと信じ、互いに軽蔑し合っていた二人。
それが今、泥にまみれた貧民街の裏路地でそれぞれの仮面が剥がれ落ち、初めて互いの本当の姿を理解し合おうとしている。
過去の残酷な事実が完全に消えるような感動的な和解ではないが、互いの醜さと弱さを共有したことは二人の間に確かな理解の入口を開いていた。
「……立ちなさい、ミレーユ様」
エリシアはミレーユの冷え切った手を一度強く握りしめると、静かに手を離し、自ら立ち上がった。
冷たい雨はまだ降り続いているが、彼女の瞳には微かな温もりと、揺るぎない覚悟の光が宿っている。
「あなたが卑怯であったことも、愚かであったことも、もはや過去の事実です。重要なのは、そのからっぽな善意の代償を知った今のあなたが、これから何を選ぶかです」
エリシアは泥で汚れたドレスの裾を軽く払い、ミレーユを見下ろした。
「あなたの不用意な言葉が引き起こした混乱の後始末が、まだ山のように残っています。自分の罪を自覚したのなら、泣いて許しを請うのではなく、泥をかぶって現場の痛みを引き受けることで償いなさい」
その厳しくも対等な言葉にミレーユは大きく息を吸い込み、乱れた金糸の髪を泥だらけの手で拭った。
「ええ……そうね。泣いているだけじゃ、もう誰も助けてくれないもの」
彼女は震える足に力を込め、エリシアの助けを借りることなく、自らの足でゆっくりと立ち上がった。
その顔にはまだ涙の痕が残っていたが、怯えた人形のような弱々しさは消え、不器用ながらも現実に向き合おうとする人間の確かな意志が宿り始めていた。
「行きましょう。私たちにはまだ、やるべき実務がたくさん残されていますから」
エリシアが前を向いて歩き出すと、ミレーユも無言でその後を追う。
王宮の偽りの静けさとは違う、冷たい雨と泥の匂いに満ちた世界の中へ。
かつて同じシステムに翻弄され傷つけ合った二人の女性は、それぞれの檻から一歩を踏み出し、初めて同じ現実の地平に立って歩みを進めていたのである。




