第44話「私は何人取りこぼしたの」
王都に降り続く冷たい秋の雨は、いつまでも王立苦情処理局の窓ガラスを執拗に叩き続けている。
旧保管庫の暗闇から執務室へと戻ってきたエリシアは、全身の力が完全に抜け落ちたように椅子に深く座り込んだ。
彼女の右手に力なく握りしめられていた絹の手袋は、もう純白と呼べるような代物ではなくなっていた。
指先の小さなほころびは古い羊皮紙の束に引っかかって無惨に裂け、素肌が完全に剥き出しになっている。
そこに数十年前の役人たちが残した黴と埃がべっとりとこびりつき、彼女の指先を不快な黒い色に汚していたのだ。
彼女はひどく震える手でその汚れきった手袋を外し、自分の目の前にある机の上へとただ無造作に落とした。
これまで不条理な外界の悪意から彼女の心を守ってきた無敵の鎧は、修復不可能なほど完全に壊れてしまったのである。
机の上には依然として、各地方から寄せられた新しい未処理の陳情書が崩れそうなほど高く積み上げられている。
その紙の山の向こう側に、エリシアは旧保管庫で見たあの途方もない歴史的な怠惰の塊をはっきりと幻視していた。
誰の代でも波風を立てず、見ないふりをして厄介な訴えを奥へと積み上げ続けてきた無関心の連鎖。
だが彼女を今最も深く絶望させているのは、システムの腐敗という自分の外側にある問題だけではなかった。
エリシアの明晰すぎる頭脳は、過去に自分が手掛けてきた数々の輝かしい勝利の記憶を容赦なく掘り起こしていく。
たとえば地方の砦で起きた物資の横流し事件を暴き、不正な指揮官たちを一斉に更迭したあの日のことだ。
その時、砦の厨房を取り仕切っていた年老いた料理長が、ひどく暗く曇った顔をして彼女の前に立ち尽くしていた。
当時のエリシアは彼が不正な上官を庇っているのだと呆れ、正しい秩序が戻るのだから喜ぶべきだと冷たく言い放った。
しかし彼のあの沈痛な表情は、悪人を擁護するための感情などではなかったのだと今はわかる。
指揮官がいなくなり正規の配給ルートが一時的に凍結される中で、末端の兵士たちにどうやって飯を食わせるのか。
彼は残された者たちが直面する明日からの飢えと混乱という泥臭く切実な現実の重さに、ただ絶望して怯えていたのではないか。
正しい手続きを踏めばいずれ物資は届くという正論は、その日を生き抜くための何の足しにもならない。
エリシアはそんな現場のささやかな命の痛みを一切見ようとせず、自分の正しさを証明して満足して帰ったのである。
あるいは、巡礼便の遅れと診療所の物資を巡る優先順位の案件を、規定通りに正しく処理した時のことだ。
現場の人々に感謝される一方で、教会支部の司祭は去り際に「役所は数字でしか物を見ない」と冷たく言い残した。
当時の彼女はそれを自分の大義を曲げられた者の身勝手な感情論として、あっさりと切り捨てていたのである。
しかし彼が必死に守ろうとしていた大義や、数字に表れない事情を否定された側の痛みに、彼女は全く想像が及んでいなかった。
さらに、匿名の悪評文による花嫁衣装の意図的な遅配を暴き、誰かの婚約妨害を鮮やかに阻止した時の記憶が蘇る。
事件は無事に解決して婚約式は予定通り行われたのに、被害を受けたはずの令嬢は「これで家の面子は戻ります」と微笑みながら膝の上でハンカチを強く握り潰していた。
家名や体裁は論理によって守られても、彼女自身の未来への信頼はすでに深く傷つけられていたのだ。
エリシアは彼女のその痛ましい表情を目の当たりにしながら、「今後同様の妨害が起きぬよう対策します」としか言えなかった。
問題の根本的な原因である貴族社会の陰湿な悪意から、彼女を真の意味で救い出す手順など持っていなかったからだ。
「私は一体、自分の信じる正義の剣でどれほど多くの人々を無惨に切り裂いてきたというのだろう」
自分は完璧な論理で彼らを救っていたのではなく、単に自分の理解できない見えない痛みを冷酷に切り捨てていただけだ。
ディートハルトという一人の青年の人生を破壊したのは、決して偶然起きた一度きりの悲劇などではなかったのである。
彼女が解決したと誇っていた案件のすべてが、実は見えない誰かの血と涙の上に築かれたひどく残酷な砂上の楼閣だった。
私自身がその冷徹な定規で測られた世界の中で、ずっと前から無数の弱い人々を無自覚に踏み潰し続けてきたのだ。
「私は、これまでに何人取りこぼしたの」
声に出したつもりなど全くなかったのに、ひどく掠れて震える呟きがエリシアの青ざめた唇からポツリと零れ落ちた。
そのあまりにも痛ましい独白は、冷たい雨の降る薄暗い部屋の空気に溶けていくかのように静かに響き渡った。
不意に背後で微かな衣擦れの音がして、彼女は弾かれたように振り返り執務室の入り口へと虚ろな視線を向けた。
そこにはいつの間にか次席監察官であるユリウスが立っており、ひどく厳しい眼差しで彼女の姿を静かに見つめていた。
彼は今のエリシアの口から漏れた決定的な敗北の言葉を、間違いなくその耳ではっきりと聞いていたはずである。
だが彼は彼女のその重すぎる罪の告白に対して、すぐには肯定も否定もせずただ深い沈黙を返すだけであった。
その重苦しい沈黙こそが、彼女の犯してきた罪が到底慰められるような軽いものではないという事実を無言で肯定している。
エリシアは彼からゆっくりと視線を外し、自分の目の前の机の上に置かれたままになっている手袋を力なく見つめた。
少し前まで一点の汚れもなく白く輝いていたそれは、泥と血と古いインクの染みにまみれて無惨に引き裂かれている。
それは有能な問題解決者として感情を完全に排してきた彼女の、もはや二度と元には戻らない無残な抜け殻そのものであった。
窓の外では容赦のない冷たい秋の雨が、彼女の底知れぬ深い絶望を嘲笑うかのようにいつまでも降り続いていた。




