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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第43話「旧保管庫」

王都の空を厚く覆う鉛色の雲は、いつまでも冷たい秋の雨を無慈悲に降らせ続けていた。


王立苦情処理局の薄暗い執務室で、エリシアは自分の机の上に広げた過去の案件記録の束をただじっと見つめている。


そこにあるのは明白な黒い矛盾の跡などではなく、特定の性質を持つ苦情だけがすっぽりと抜け落ちている不気味な白い空白だった。

有力な商会や教会の支部が関わるような影響力の大きなトラブルだけが、まるで最初からこの世界に存在しなかったかのように綺麗に消え去っている。


しかし官僚の習性として、王都まで届いた公式な文書を完全に焼却して証拠隠滅することには大きなリスクが伴うはずだ。

もし後になってからその隠蔽が明るみに出た場合、書類を物理的に破棄した者自身がすべての罪を一身に被らされることになるからである。


だからこそ彼らは書類を完全に消し去るのではなく、正規の処理ルートから外してどこかへ死蔵しているに違いない。


その冷徹な推論に行き着いた瞬間、彼女の頭の中に局舎の最奥にあるほとんど使われていない部屋の存在が浮かび上がった。


エリシアは静かに椅子から立ち上がり、引き出しの奥に隠していたあの純白の絹の手袋をそっと取り出した。

指先の縫い目が無惨に裂けて自分の血が変色したその手袋は、もはや彼女の心を不条理な世界から守る無敵の鎧ではない。

それでもこれから向かう埃まみれの場所を調べるためには、素手のままというわけにはいかなかったのである。


彼女はひどく重い足取りで執務室を出て、ほとんど誰も寄り付かない局舎の北棟へと続く薄暗い廊下を歩き始めた。


歩きながら彼女の脳裏に蘇るのは、あのうらぶれた宿場でディートハルトが残した乾ききった絶望の声だった。

彼がすべてを諦めきっていたのは、アルヴェイン伯という個人の力に対してだけだったのだろうか。

自分を見殺しにしたこの国の仕組みそのものに気づき、深く絶望していたのだとしたら。


やがて行き止まりの壁の前に現れたのは、分厚い埃を被った重々しい鉄の扉で閉ざされた旧保管庫であった。

彼女が両手に力を込めてその錆びついた扉を押し開けると、ひどく耳障りな金属の軋み音が静寂の廊下に響き渡る。


部屋の中から溢れ出してきたのは、何年ものあいだ密閉されていたカビと古い紙とインクの澱んだ匂いだった。

窓の全くない旧保管庫の中は、蝋燭の火を近づけても数歩先すら見通せないほど深い闇に包まれている。

壁沿いに並べられた背の高い木製の棚には、過去の不要な備品や古い台帳が雑然と詰め込まれていた。


エリシアは微かに震える手で燭台を高く掲げながら、埃の積もった冷たい石の床を慎重に奥へと進んでいく。


やがて部屋の最も暗い隅に置かれた、いくつもの巨大な古い木箱の山が彼女の視界にぼんやりと浮かび上がった。

それぞれの木箱には『未分類』や『保留』といった古びた紙が貼られており、それが何世代にもわたる役人たちの負の遺産であることを示している。


彼女は息を詰めて一番上の木箱の蓋に手をかけ、軋む音を立てながらゆっくりとその重い板を持ち上げた。


箱の中にぎっしりと詰め込まれていたのは、湿気をたっぷりと吸って茶色く変色した大量の羊皮紙の束であった。

それは数年どころの騒ぎではなく、何十年も前からこの部屋の暗闇に放置されてきた無数の民の陳情書だったのである。


エリシアは木箱の中に手を伸ばし、崩れかけた古い麻紐で縛られた分厚い紙束の一つをそっと取り上げた。

その瞬間、手袋の指先にある小さな裂け目の糸が、湿って硬くなった古い羊皮紙のささくれに鋭く引っかかる。

ビリッという微かな布の裂ける音が、彼女の心の中に残っていた最後の希望を完全に粉砕する死の宣告のように響いた。


直そうとすることすら諦めていたその小さなほころびは、古い紙の山に触れたことでさらに醜く無惨に広がってしまったのだ。

彼女の誇りだった純白の手袋は、もはや彼女を外界の汚れから守るどころか過去の遺物に絡め取られて無様に裂けている。


絹の糸がほつれて剥き出しになった素肌が、古い紙の不快な汚れに直接触れた。

彼女はこれまで自分を汚さないために手袋をはめ、安全な高みから論理の正しさだけを冷徹に振りかざしてきたのだ。

しかし今はこうして埃にまみれ、生身の痛みを負いながらでしか真実には触れられないのだという残酷な現実がそこにあった。


その容赦のない感触にひどく息を呑みながらも、彼女は埃を払って分厚い陳情書の束の表紙を恐る恐るめくっていった。


そこに記されていたのは、地方税の過剰な取り立てで先祖代々の畑を手放すことになった農夫の震える文字である。

さらには騎士団による不当な物資の徴発で冬を越せなくなった村長の悲痛な訴えや、有力商会との過酷な雇用トラブルで家族を失った職人の怒りも綴られていた。

教会への寄付の強要によって、愛する娘を身売りせざるを得なかった母親の涙の痕が残る手紙まである。


どれもこれも、彼女が先ほどまで自分の机の上で探していたあの不気味な白い空白を正確に埋める内容ばかりだったのである。


以前の彼女ならそれらを単なる論理のパズルとしてしか見ていなかったかもしれないが、今の彼女にはその無機質な文字の向こう側に生身の人間たちの絶叫がはっきりと聞こえた。


だがそれらの書類のどこを見ても、却下や差し戻しや調査開始といった正式な処理が行われた公的な印は一切押されていない。

ただ書類の余白部分に、歴代の担当の事務官たちが書き残したと思われる短く無責任なメモが殴り書きされているだけだ。


『影響力のある大商会ゆえ一旦保留』『教会支部との関係悪化を懸念して後日判断』『領主の機嫌を損ねるため塩漬け』。


それらの言い訳がましい言葉の羅列を目にした瞬間、エリシアの頭の中でバラバラだった謎が一つの恐ろしい形を結んだ。


この国を根底から深く腐らせている怪物の正体は、強大な権力を持った一人の邪悪な天才などではなかったのである。


それは日々の面倒な揉め事を避けたいという、どこにでもいる平凡な役人たちの凡庸な保身の積み重ねにすぎなかった。

誰の代でも波風を立てず、ただ見ないふりをして厄介な訴えを奥へ奥へと積み上げ続けてきた結果。

見ないこと、後に回すこと、揉めさせないことが、数十年の間に誰も逆らえない暗黙の強固な制度として深く定着してしまっていたのだ。


あの優雅で冷酷なアルヴェイン伯のような権力者でさえ、この淀んで腐りきった事勿れ主義の巨大な土壌を利用していたにすぎない。

入り口の段階で民の切実な声が自動的に殺されるこの狂ったシステムこそが、王国を蝕む本当の病巣だったのである。


誰か一人の明確な悪人を論理で追い詰めて断罪すれば、世界は再び美しい正しい形を取り戻すはずだ。

これまでのエリシアは、その無敵の論理の刃さえあればどんな巨悪でも必ず切り裂けると無邪気に信じて疑わなかった。


だが目の前にそびえ立つこの途方もない無関心と怠惰の山は、誰か特定の個人の首をすげ替えた程度で消え去るものではない。

一人一人の役人はただ自分の身を守りたかっただけであり、彼ら全員を悪人として法で裁くことなど物理的に不可能なのだ。


あの真面目で実直だったディートハルトは、この顔のない巨大な無関心のシステムによって理不尽に押し潰されてしまったのである。

彼から全てを奪い去った真の元凶は、特定の誰かの悪意ではなくこの国全体を覆う無機質な空気そのものであった。


「私は一体何と戦って、何を正そうとしていたのでしょうか」


エリシアの血の気のない唇からこぼれ落ちた呟きは、湿った黴の匂いのする暗い部屋の空気に虚しく吸い込まれて消えた。


自分はただ見かけの上の小さな不正を暴いて得意になり、その足元に広がる底知れぬ巨大な闇から完全に目を背けていただけなのだ。

ディートハルト一人すら救えなかった自分のちっぽけな正義で、この歴史的な怠惰の塊に立ち向かえるはずなどない。


エリシアは変色した未処理陳情の重い束を胸に抱きしめたまま、埃まみれの冷たい石の床に力なくへたり込んだ。


絶対的な悪意よりもはるかに性質の悪いシステムという名の怪物が、王国中の善良な民の声を静かに殺し続けている。

その残酷すぎる現実が彼女の疲弊した心を、これまでにないほど深く暗く救いのない谷底へと完全に引きずり下ろしていった。


もはや彼女の瞳からは、涙を流すためのわずかな気力すらも失われていたのである。


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