第45話「足りなかった」
王都の街を激しく打ち据える冷たい秋の雨は、いつまでも止む気配を見せずに容赦なく降り続いていた。
空は厚い鉛色の雲に深く覆われ、昼間だというのに世界は夕暮れのように薄暗い。
王立苦情処理局の執務室には、痛ましいほど重い沈黙が淀んでいた。
「私は、これまでに何人取りこぼしたの」
無意識のうちにエリシアの青ざめた唇からこぼれ落ちた呟きは、暗い空気に溶けてひっそりと消えた。
彼女の背後にいつの間にか立っていた次席監察官のユリウスは、微かな衣擦れの音を静かに立てる。
エリシアは自分の目の前にある机の上に打ち捨てられた、泥と血に汚れた手袋を力なく見つめ続ける。
外界の不条理から彼女を守ってきた完璧な鎧は、もはや無惨に引き裂かれたただの布切れにすぎなかった。
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、ひどく重い足取りで振り返ってユリウスの厳しい瞳と真っ直ぐに視線を合わせた。
「ユリウス様。私は根本から間違っていたのでしょうか」
彼女の心の底から振り絞った声はひどく掠れて震えており、かつての自信に満ちた実務官の面影はどこにもない。
だがユリウスは腕を組んだまま、エリシアの悲痛な問いかけを低く重い声で真っ向から否定した。
「間違っていない。お前の暴いた不正はどれも紛れもない事実であり、お前の行いは王国の法に照らして完全に正しかった」
それはただの冷徹な事実の確認であった。
「だが足りなかった。それだけだ」
足りなかった。
その短く鋭い言葉が、エリシアの無防備な胸の奥底へと冷たい氷の刃のように深く突き刺さっていく。
「足りなかったとは、一体どういうことですか」
ユリウスは大きく重い息を一つ吐き出すと、机の上に高く積み上げられた未処理の陳情書の山へと厳しい視線を向ける。
「お前は完璧な証拠を揃えて巨悪の尻尾を掴むことに関しては、誰よりも有能で並外れた才能を持っている。だが正しい事実を白日に晒すことと、告発に協力してくれた現場の弱い人間を守り抜くことは全く別の技術なんだ」
「安全な退路の確保。陰湿な報復を避けるための証言の切り分けと発表の順序。さらには不正を暴く前に手配しておくべき物理的な支援の用意。そうした手順を欠いたまま無防備に真実を晒せば、一番弱い底辺の者から順番に叩き潰されていくのは当然の結果だ」
その容赦のない正確な指摘は、エリシアがこれまで意図的に見ないふりをしてきた傲慢さの核心を的確に突いていた。
彼女は自分の組み立てた論理の美しさだけに深く酔いしれて、事件のその後に起こる生々しい現実を一切想像していなかったのだ。
「お前は自分の信じる正しさを無自覚に振りかざして現場に火をつけ、その火が燃え広がる前に安全な場所へ一人で帰ってしまったんだ。残された弱い者たちがどれほど熱く苦しい炎に焼かれるかを、お前は一度も振り返って確認しようとはしなかった」
ユリウスの言葉はひどく淡々としていたが、その瞳の奥にはふとどこか遠くの暗い過去を見つめるような重い影が差していた。
彼が口にしたそれらの生々しい教訓は、単なる机上の空論や他人の安易な受け売りなどでは決してない。
彼自身もまた正しさの代償として、かつて誰かを守れなかった重い記憶を背負っているのではないか。
その予感がエリシアの胸を鋭くよぎったが、今の彼女には他人の過去の痛みにまで深く踏み込む余裕は残されていなかった。
「私は、一体どうすればよかったというのですか」
エリシアの両手は力なく両脇へだらりと垂れ下がり、その血の気のない指先は行き場を失って微かに小刻みに震え続けている。
「私のような想像力のない人間は、初めからこの苦情処理の仕事に就くべきではなかったのです。私には誰かを救う資格などありませんでした」
深い自己嫌悪と暗い絶望の底に沈み込んでいく彼女を、ユリウスは静かに見下ろしたまま決して手を差し伸べなかった。
「資格があるかどうかは俺が決めることではない。だがお前の正しさが足りなかったからといって、正しさを完全に捨てろと言っているわけでもない」
いっそ全て根本から間違っていたと全否定された方が、どれほど楽になれただろう。
完全に間違っていたのなら潔く自分の非を認めてこの役所から去り、重い責任の全てを無責任に投げ出すこともできたのだ。
しかしユリウスは彼女の正しさを否定せず、ただそれだけでは現実に立ち向かうには決定的に足りないのだと冷徹に突き放すのである。
「正しさを捨てずに、どうやって彼らを守れというのですか。私にはそんな器用な真似は絶対にできません。私はただ事実を整理することしかできない人間なのに」
エリシアの悲鳴のような痛ましい問いかけは、暗い執務室の壁に虚しく反響して寂しく消えていく。
ユリウスは彼女のその脆く崩れそうな姿から静かに視線を外すと、重い足取りで執務室の入り口へと向かってゆっくりと歩き出した。
「それをどうにかして自分の力で見つけ出すのが、王立苦情処理局の実務官としての本当の仕事だ。俺が答えを教えたところで、お前自身が腹の底から理解しなければ何の意味もない」
彼はそれだけを冷淡に言い残すと、ひどく軋む音を立てて重い木製の扉を背後に閉ざして完全に去っていってしまった。
一人きりの冷たい静寂の中に取り残されたエリシアは、机の上の汚れた手袋の横に力なく崩れ落ちるように座り込んだ。
自分の信じてきた世界が根底から覆り、新しく何を信じていいのかすら全く分からないという底知れぬ恐怖。
正しさだけでは人を守れないという残酷な現実を真っ向から突きつけられて、彼女の心はひどく千切れそうに痛んでいた。
窓の外ではいつまでも降り続く秋の冷たい雨が、王都の街をどこまでも重く暗く沈め続けている。
彼女は自分の圧倒的な無力さと自己嫌悪に激しく押し潰されそうになりながら、ただその雨音を虚ろな瞳で一人聞き続けることしかできなかったのである。




