第37話「正しさの代償」
王宮の長く続く大理石の廊下を歩くエリシアの足取りは、これまでにないほど軽やかであった。
査問委員会における圧倒的な勝利から、すでに数日の時間が静かに経過している。
アルヴェイン伯の配下に繋がる事務ラインは、彼女の完璧な告発によって確実に押さえられたのだ。
これまでの孤独で苦しい戦いがようやく報われたのだと、エリシアは心の底から深く安堵していた。
彼女の両手を包む純白の絹の手袋は一点の汚れもなく、誇り高く白く輝いている。
査問委員会を終えて王立苦情処理局の執務室に戻ると、彼女は自分で温かく芳醇な香りの紅茶をゆっくりと丁寧に淹れた。
秋の柔らかな日差しの中でゆったりと揺らぐカップの温かい湯気を見つめながら、彼女は静かに一人で勝利の甘い余韻に浸っていた。
だがその穏やかで満ち足りた時間は、唐突な形で破られることとなる。
いつもは冷静なはずのユリウスが荒々しい足音を立てて、執務室の重い扉を開け放って入ってきたのだ。
彼の顔に刻まれた表情はこれまでに見たことがないほど、深く険しいものであった。
その分厚い大きな手には、王宮の正式な印が押された報告書が強く握りしめられている。
「ユリウス様、どうかされたのですか」
エリシアは手にしていた紅茶のカップを静かに机へ置いて、真っ直ぐに彼を見つめた。
ユリウスは怒りのためか無言のままその報告書を、彼女の目の前の机の上にバサリと音を立てて乱暴に投げ捨てた。
「お前が完璧だと誇っていたあの地方騎士団のその後の顛末だ。不正の一角が摘発されたことで組織は綺麗に浄化されるとお前は言っていたな。だが現実は全く違う結果になった。残された者たちの鬱屈した怒りは最も弱い場所へと一直線に向かったんだ」
彼の低く押し殺したような重い声には、かつてないほど深い怒りと悲哀が入り混じっていた。
エリシアは微かに美しい眉をひそめながら、その乱暴に置かれた報告書の表紙をめくった。
そこに無機質に記されていた文字を見た瞬間、彼女の心臓がひどく冷たく跳ね上がった。
それはあの実直で若い下級騎士ディートハルトに関する、あまりにも理不尽で凄惨な記録だったのだ。
不正を行っていた上層部が一斉に処分されて大混乱に陥った地方騎士団の残党たちは、血眼になって内部の裏切り者を探し始めた。
そして日頃から几帳面に記録を残して浮いていた彼が、真っ先に疑われ標的とされたのである。
報告書には「度重なる規律違反および隊内不和を引き起こした」とひどく事務的に記されている。
それは表向きには完全に合法的な理由による、一方的で冷酷な除隊処分であった。
さらに彼への凄惨な報復はそれだけにとどまらず、私生活にまで容赦なく及んでいたのである。
彼が間近に控えていた大切な婚約は、相手の家からの突然の申し出により一方的に破談となっている。
彼の家族に対しても、地域社会からの執拗な圧力がかけられていた。
すべてを失った彼は自ら騎士団を辞するしかなく、今は逃げるように村を出て行方不明になっている。
「彼らは巧妙に制度の抜け穴を使い、あいつの人生を社会的に完全に抹殺したんだ。不正の告発とは一切関係のない別件として処理されているから、監査委員会も絶対に手を出せない」
ユリウスの重く冷酷な言葉は鋭い刃となって、エリシアの無防備な胸に深く突き刺さった。
エリシアの明晰なはずの頭の中が真っ白になり、呼吸が浅く不規則に激しく乱れ始めた。
「そんなはずは……私はすぐに法務局へ抗議し、この処分の不当性を徹底的に訴えます」
激しく震える掠れた声で立ち上がろうとした彼女を、ユリウスの冷たい視線が射抜いた。
「無駄だ。今回の除隊処分自体は形式上完全に合法なものであり、お前が鮮やかに暴いた横流し事件とは制度の上では完全に切り離されている。お前がどんなに完璧な論理を並べ立てても、制度の外側で行われたこの陰湿な復讐を止めることは絶対にできない」
エリシアは残酷な報告書を強く握りしめ、純白の絹の手袋を小刻みに激しく震わせた。
あの冷たい雨の降る訓練場で彼が見せていた、深い怯えと絶望の表情が鮮明に脳裏に蘇る。
正しいことを成し遂げた自分が救われるとは、微塵も思っていなかった彼の暗く沈んだ瞳。
彼女はそのあまりにも生々しい恐怖を、現場特有のつまらないしがらみだと軽視していたのだ。
自分の無敵の論理に酷く酔いしれて、彼という一人の人間の人生を完全に踏みにじってしまった。
「俺が前もって言ったはずだ。あいつの安全を確保する手立てを、もう少し慎重に考えるべきだと。だがお前はそれを全く無用な心配だと冷徹に切り捨てたんだぞ。お前の信じたその完璧な正しさが、制度の及ばない一番弱い場所へ致命的なしわ寄せをもたらしたんだ」
ユリウスは静かにそう冷たく言い残すと、重い足取りで薄暗い執務室を出て行ってしまった。
冷たく残されたエリシアは一人きりの広い部屋で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
窓の外に広がっている秋の美しい青空は先程までと全く同じように、どこまでも高く透明に澄み渡っている。
しかし彼女の心の中にはもはや取り返しのつかない深く暗い絶望の闇が静かに広がっていた。
机の上に無造作に置かれたままの報告書が、彼女の消えない罪を無言で激しく責め立てている。
エリシアは全身の力なく椅子に深く座り込み、両手で自分の青ざめた顔を覆い隠した。
これまでずっと彼女を安全に守ってきた無敵の論理の鎧が、音を立てて脆く崩れ去っていく。
どれほど完璧で美しい証拠を揃えても、人間の醜い恨みや憎しみは決して消せなかったのだ。
むしろ彼女のあまりにも鮮やかな告発が、現場の鬱屈した憎悪を爆発させる引き金となった。
ディートハルトのささやかな人生を完全に破壊したのは、紛れもなく彼女自身の傲慢さだった。
「あんなに正義感が強くて真面目だった彼が、なぜこれほど酷い目に遭わなければならないのですか」
エリシアは虚空に向かって問いかけたが、その答えをくれる者はこの部屋にはもう誰もいなかった。
やがて夕暮れが近づき、執務室の中に不吉な影が静かに忍び寄ってくる。
エリシアはゆっくりと立ち上がり重い足取りで窓辺へと向かい、外の景色を虚ろに見つめた。
今この瞬間に世界のどこかで一人の正しい青年が、深い絶望の闇の中でたった一人で理不尽に苦しんでいるのである。
彼女はその残酷な事実からもう目を背けることはできないと、静かに覚悟を決めた。
明日には必ず彼を自分の足で探し出して、この手で直接心からの謝罪をしなければならない。
たとえ彼にどれほど激しく罵倒されようとも、それが自分の負うべき当然の罰なのだから。
エリシアの氷のように冷たく澄んでいた瞳から、一筋の温かい涙が静かにこぼれ落ちていった。
それは彼女が初めて他人の深い痛みに触れて流した、一人の人間としての悲しい涙だったのである。
机の上に無造作に置かれたままになっている紅茶は、すっかり冷え切ってしまい濁った暗い色に無惨に変色している。
ほんの数十分前までたしかに感じていた勝利の甘い味わいは、すでに完全に消え失せて思い出せなかった。




