第35話「完璧な準備」
王都の王立苦情処理局。深夜の執務室には、絶え間なく紙が擦れる乾いた音と、ペン先が羊皮紙の上を滑る規則的な音だけが響いていた。
冷たい隙間風がカビの臭気を微かに揺らす中、エリシアはランプの灯りを頼りに自分のデスクに広げられた膨大な書類の山と向き合っている。
地方の駐屯騎士団と近隣礼拝堂の査察から戻った彼女は、休むことなくすべての記録の統合に取り掛かっていた。
騎士団の補給簿、周辺の村からの徴発記録、そしてダミー商会を経由した輸送伝票。
教会の修繕費請求書と架空の資材納品書。
さらに若い下級騎士ディートハルトが匿名投書で提供してくれた、内部の者にしか知り得ない倉庫の隠語や荷馬車の出入り時間。
一見するとバラバラに散らばっていた無数の点と点がエリシアの冷徹な思考という定規によって、今、寸分の狂いもない一本の強固な線へと繋ぎ合わされていく。
「物資の横流しと資金洗浄の経路、そしてその最終的な帰着点……。すべてが、寸分の矛盾もなく符合しました」
エリシアは黒いインクの染みがいくつもついた純白の絹の手袋で、完成した調書の束をトントンと机で揃えた。
その一番上には地方監査室次長の許認可の印が押された書類の写しが置かれている。
それは紛れもなく王宮の奥深くに陣取るアルヴェイン伯の事務方へと直結する決定的な証拠であった。
「……恐ろしいほどの精度だな」
背後からかけられた低い声に、エリシアは静かに振り返った。
いつの間にか執務室に入ってきていたユリウスが、彼女の肩越しに分厚い告発状の束を覗き込んでいる。
「地方の騎士団と教会の癒着、物流を使った資金のロンダリング。そして、それらを裏で操るアルヴェイン伯の配下たちの関与。証拠の裏付けも、資金の流れの証明も完璧だ。これだけのものが揃えば、いくら王弟派の重鎮とはいえ、査問委員会も動かざるを得ないだろう。お前のその定規は、ついにあの化け物の尻尾を完璧に踏みつけたわけだ」
ユリウスは調書のページをパラパラとめくり、その完成度を高く評価した。
だが、最後のページに添付されたディートハルトの証言記録に目を落とした瞬間、彼の指がピタリと止まった。
ユリウスの眉間に微かな皺が寄り、口調にわずかな躊躇いが混じる。
「……だが、一つだけ聞く。あの匿名投書を書いた下級騎士の処遇については、どうするつもりだ」
「どうする、とはどういう意味でしょうか」
「お前が王都でこの爆弾を破裂させれば、あの地方の騎士団は一時的に大混乱に陥る。上層部が一斉に捕縛されれば、残された連中は必ず内部の裏切り者を探し出そうとするだろう。あいつを別の部隊へ移すとか、安全を確保する手立てを、もう少し慎重に考えるべきではないのか」
それは実務の範囲を超えた、人間の泥臭い感情や組織のしがらみを知る者だからこその懸念だった。
だが、エリシアはユリウスのその言葉を、全く無用な心配であると冷徹に切り捨てた。
「彼を保護する特別な権限は、苦情処理局の実務官には与えられていません。ですが、そんなものは初めから不要です」
「不要だと?」
「ええ。これだけ完璧な証拠が揃っているのです。悪事の中心である上層部が排除され、組織が王国の規定通りに正しく再編されれば、彼のような正しい行いをした告発者が不当な報復を受ける余地など、どこにも残されてはいません。悪の根源を断ち切れば、末端の腐敗も自然に消滅します」
エリシアの言葉は、机上の論理としては一切の破綻もなく完璧だった。
巨悪を倒せば、すべてが綺麗に解決する——彼女はそう信じ切っていた。
ユリウスは、あまりにも純粋で冷徹な彼女の瞳をしばらく見つめていたが、やがて短く息を吐き出した。
「……お前がそこまで言うのなら、俺はこれ以上何も言わん。明日、これを査問委員会に提出しろ」
ユリウスはそれだけを言い残し、足音を響かせて執務室を去っていった。
彼が一度だけ見せた言葉の濁りを、エリシアがこれ以上深く顧みることはなかった。
一人残された執務室で、エリシアは再び分厚い告発状の束に視線を落とした。
自分の正しさを突きつけるたびに、人々から「救われた気がしない」と拒絶され、周囲との間に分厚い氷の壁を作り上げてきたこれまでの日々。
しかし、正しく準備し正しく暴けば、どんな強大な悪でも必ず崩れ去る——今の彼女はそれだけを信じていた。
エリシアは純白の絹の手袋の指先を一つずつ丁寧に整え直し、静かにランプの灯りを吹き消した。
暗闇に包まれた執務室のデスクの上には、誰もがひれ伏すしかない完璧な証拠の束が静かに夜明けを待っている。
この時のエリシアには、もはや勝利以外の結末は存在しないように思えた。
その完璧な論理の裏側に、人の心が引き起こす取り返しのつかない致命的な悲劇が静かに口を開けて待っていることなど、彼女は微塵も疑っていなかったのである。




